空虚な日々

「ただいまー」


 夕方十七時過ぎ、凜が帰宅すると、いつものように母がばたばたと支度をしているのが見えた。


 母の名前は葉月凪沙はづきなぎさ。シングルマザーとして家計を支えるため、昼はスーパー、夜はスナックとパートを掛け持ちしている。父親とは凜が中学の時に離婚し、今は郊外の賃貸マンションで凜と二人暮らしだ。凜が帰宅するこの時間はパートの入れ替わりの時間で、母は休む間もなく着替えをしてまたスナックに出かけていくのだった。


「あぁお帰り。夕飯、そこに置いてあるから。チンして食べて」


 凪沙がファンデーションを塗りながら言った。凜がテーブルの上に視線をやると、肉と野菜を炒めただけの簡単な料理が置いてある。スナックでの仕事を終えた母が帰るのは夜の十一時近くになるので、凜はいつも夕食を一人で食べていた。


「わかった。明日も仕事?」


「うん。スーパーの方が今日から三連勤で、スナックはなんと四連勤! 四十過ぎた身体にはハードだわー」凪沙が嘆くように言った。


「ちょっと働き過ぎなんじゃない? あんまり無理して倒れないでよ」


「はいはい」


 聞いているのかいないのか、凪沙は曖昧に返事をしただけで、せっせとマスカラを重ね塗りしている。凜は軽くため息をつくと、鞄を椅子の上に置いた。メイクに余念のない母の方をちらりと見やると、凜はそれとなく切り出した。


「……そういえば、今日、ホームルームで進路の話があったんだけど」


「あんたはどうせ就職でしょ? うちの稼ぎじゃ大学なんて行かせられないし、別にやりたいこととかないんでしょ?」


 凪沙が赤い口紅を塗りながら言った。決めつけるようなその物言いが気に入らず、凜はむっとして言い返した。


「……そりゃ、自分が何やりたいかなんてまだわかんないけどさ。今から就職って決めなくたってよくない? 今は奨学金だってあるし、お金がなくたって大学には行けるんだよ?」


「でも奨学金って返さなきゃいけないんでしょ? そんな借金してまで大学行って、就職できなかったらどうする気? うちはただでさえ余裕ないんだから、あんたもさっさと働いてくれないと」


 凪沙はそれだけ言うと立ち上がり、鏡の前で入念に全身をチェックすると、ハンドバッグ取り上げてさっさと玄関に向かってしまった。


「ちょっと、お母さん!」


 まだ話は終わってないとばかりに凜は母の後を追おうとしたが、凪沙がハイヒールの踵を合わせながらそれより早く言った。


「あぁそうそう、先月の水道代ちょっと高かったから、洗い物する時は水出しっぱなしにしないでよ。あとベランダに洗濯物あるから、寝るまでに畳んどいて」


 自分の言いたいことだけ言ってしまうと、凪沙はコツコツとヒールを鳴らしてさっさと玄関を出て行ってしまった。母の半分も言いたいことを言えなかった凜は、苛立ちをぶつかるかのように両手を力任せにぶんと振り下ろした。


 いつもこうだ。母は自分の話をまともに聞いてくれた試しがない。忙しいし、疲れているのはわかるけれど、それでも進路の話くらいちゃんと聞いてくれたってよさそうなものだ。これじゃまるで、娘のことに関心がないみたいじゃないか――。凜は憤然としてリビングへ戻って行った。


 


 レンジの中の夕食が温まるのを待ちながら、凜はぼんやりと今日一日のことを思い返していた。

 今日もいつもと変わらない、つまらない日常が終わろうとしている。学校に行ってもほとんど誰とも話すことなく、家に帰っても母とは少し顔を合わせるくらいで、また長い一人の時間が始まる。それが凜の日常だった。そんな日々を繰り返していると、凜は本当に自分が何のために生きているのかわからなくなることがあった。


 進路のことを口にしたところで、母の言うとおり、凜には別にやりたいことがなかった。資格を取るために専門学校に行きたいとか、大学で何の勉強がしたいとか、クラスメイトがそういう話をしているのを耳にしたことはあるけれど、凜自身にはそういう希望はなかった。侑李ともそういう話をしたことはない。そもそも、そんな話をするほどの時間がないのだけれど。


 でもだからと言って、母の言うような人生を歩むのも凜は嫌だった。母も高卒で就職し、そこで出会った父と結婚して専業主婦になったのだが、父と離婚した今ではシングルマザーとして苦労した生活を強いられている。


 そんな母の姿を見ているからこそ、凜は母とは違う人生を歩みたいと考えていた。自分の力でしっかり稼いで、誰かに寄りかからなくても生きられるような人生を。だけど母からすれば、凜は所詮自分と同じように何の取り得も能力もない人間で、だからこそ自分と同じような道を辿るしかないと考えているのだろう。


 レンジがチンと鳴る音で、凜の意識は現実に呼び戻された。夕飯を取り出してテーブルに運び、適当なテレビ番組を見ながら一人で食べる。もう何度となく繰り返してきたことだ。凜は頬杖を突きながら、面白くもないバラエティー番組を見るともなく眺めた。


 これから先、自分はどうなるのだろう。意味のない日常がただ続くだけの毎日。そんな日々を繰り返して、自分はいったいどこに向かっているのだろう。もう何度目になるかわからない答えのないその問いを、今日も凜は一人繰り返していた。

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