第20話 鬼の憑く里

 優司は尻もちをついたまま、反射的に自身の胸板を押さえつけてしまった。先程、目の前に立つ“同級生”に突き飛ばされた箇所は、わずかに触れただけで激痛が走る。軽く手で押し込んだだけだというにもかかわらず、優司の胸骨にはひびが入っていた。


 しかし、そんな焼けるような痛みよりも何よりも、優司は瞬きすら忘れて目の前の“彼”を見つめてしまう。他の友人らも同様で、皆一様に身構えたまま、もがき苦しむ“彼”に唖然とするしかなかった。


 目の前に立つ純に起こった“変化”に、まるで理解が追い付かない。先程までの穏やかな姿から一変、彼は頭を押さえたまま何度も肉体を痙攣させ、おぞましいうなり声をまき散らしている。

 その声色は、先程まで仲間達と語り合っていたそれとは、まるで違うものだった。重く、淀んだ波長が大気を揺らし、それ自体が突風を生み出しているかのようである。


 何かがおかしい――夕暮れに包まれる学校のなかを、今まで以上に騒がしく暖かい風が包み、暴れ狂っていた。この小さな学び舎にだけ嵐がやってきたかのように、老朽化した校舎をがたがたと軋ませ、木々や花壇の植物を容赦なく横殴りにする。

 


 まるで、村そのものがうなり声をあげているようだった。穏月村のなかで“なにか”が目覚め、激しく大気が鳴動している。

 そんな錯覚にとらわれる一同の目の前で、また一つ、純は頭部を押さえたままおぞましい絶叫を上げた。


「いつつのよなべに――わをこさえ――あやしいもの――みな――つりましょお――」


 彼の声を追うように、「べちゃり」という嫌な音が地面ではじける。純のすぐ目の前に落ちた“それ”を全員が目で追い、そして戦慄した。


 敷き詰められたタイルのその上に、赤く、黒ずんだ肉塊が落ちている。液体が微かに滴るみずみずしい塊には、血色の良い肌がいまだに張り付いていた。

 そこに残る体毛や形状から、それが純の“目”の周辺の肉なのだと、すぐに理解できてしまう。恐る恐る視線を持ち上げた一同の前に、あまりにも規格外の光景が広がっていた。


 そこに立っているのは、間違いなく同級生の一人・狩屋純だ。かつての祖父・春日岳道同様の農作業着を身にまとい、彼はいまだに全身を内側からかきむしる苦痛にもがき苦しんでいた。

 その場にいる全員の視線が、彼の“左目”へと集中してしまう。


 皮膚と肉が剥がれ落ちたそこには、全く別の“黒い”ものが蠢いていた。しるしると伸びたそれはまるで老木のように高く伸び、互いに絡み合うことで刺々しいシルエットを作り上げる。


 一部始終を見ていた同級生達は、ついに限界を迎えた。真琴と守が変化していく純の肉体を見つめ、うろたえながらも声を絞り出す。


「なにが、起こっているの……一体……なにが……?」

「じゅ、純君……どうしちゃったの、純君!?」


 二人の声を受けてもなお、純は答えない。また一つ、一同を拒絶するようなおぞましい咆哮が響き渡る。崩れ、変形したその左目はなおも黄色に染まり、それ自体が光を放っているかのように煌々と輝いていた。

 一つ、二つと彼の肉体が壊れる。今度は腕と足の肉が崩れ落ち、やはり同様に皮膚の下から黒く、硬質化した棘のようなものが迫り出してきた。


 変貌していく彼のその姿に、皆が同様にある一つの“存在”を思い浮かべる。目元から大きく伸びた黒く、刺々しいそれが、理屈ではなく本能に訴えかけてきた。


 その正体を察することができたのは、この場ではただ一人――あらゆる歴史を学び、そしてこの村の過去にすら精通してきた、凛音だけだった。


「これは……そんな……なんてこと――!」


 口元を押さえ怯える凛音を、皆が見つめた。優司はなんとか立ち上がろうとしたが、まだ肉体が混乱を起こし、うまく動かすことができない。片膝になりながらも、荒ぶる風に負けないよう、声を張り上げた。


「なんなんだよ、これ……一体、何が起こってるんだ!?」

「ずっと、妙だって思ってたのよ。かつての“タケ爺”――春日岳道さんは、事故で気を病んでから、村を徘徊するようになった。この村に古から伝わる、“歌”を口ずさみながらね」

「そんなことは分かってるよ! でも、それと今の純に、どういう関係が――」

「岳道さんは、どこにでもいる平凡な農夫でしかなかったのよ。それが一体、どうやってそんな伝承の“歌”を知ったっていうの?」


 優司が「えっ」と声を上げる中、真琴と学も思考を巡らせてしまう。彼女が怯えているその真意を、一同は必死に探ろうとしていた。


「岳道さんは、車の運転を誤って事故を起こした。その時に彼は、神社が管理していた“祠”を壊している。その“祠”は――この村に古くからいる、“鬼”を封じ込めていたものだったのよ」


 話の着地点がまるで予想できない。だがそれでも誰一人、凛音の言葉を遮ったりはしなかった。もがき苦しむ純を常に警戒しつつも、ただひたすらに考える。

 凛音自身、これが“オカルト”めいた、どこか馬鹿げた予想なのだと理解していた。これまでも幾度となくその憶測を抱きはしたが、それでも今日にいたるまで誰かに話したことなどない。言ったところで、荒唐無稽な“御伽話”だと笑われるのがオチだと思ったからだ。


 だが、もしそれらがただの“憶測”などはなかったとしたら――今、目の前で純の体に起こっている変化。そして何より、周囲を渦巻くこの禍々しい空気が、一同にその事実を予感させてしまう。

 まるで重く澱んだ水の底にいるかのようだ。風が無秩序に吹き荒れるが、肉体の内側から湧き上がる熱がまるで逃げていく気配はない。

 

「春日岳道さんが事故で負った傷は軽かった。だというのに、彼はそれを機に精神を病み、豹変した。それがもし――怪我によるものでは“ない”としたら――」

「なにを……凛音、いったい何を言って――」

「春日岳道さんの中にいた“なにか”が、もし今もその孫の――純のなかに“いる”としたら――!」


 やはりその事実を、すんなりと受け入れることはできなかった。誰しもが馬鹿げた話だと心の中で否定し、あくまで錯乱した凛音の抱いた妄想であると片付けそうになってしまう。

 しかし、またしても放たれた純の雄叫びが、一同を現実に――否、“御伽噺”へと引き戻す。

 黒く、大きな“角”を肉体から生やした彼を見て、誰しもが呼吸を止めていた。


 すべての点が、線となる。

 これまで歩んできた日々が、今まで立ち向かってきたすべてがもたらす“答え”が、今目の前に立っている。


 “タケ爺”としてかつてのクラスメイトを殺していた同級生・狩屋純。だが、彼を凶行に走らせたのは、過去の恨み辛みだけではない。

 かつての老人は、その身に宿してしまったのだ。偶然破壊した“祠”にいた、それを。思いがけず解いてしまった“封印”の下にいた、忌むべき存在を。

 そしてそれは、老人が死したことでこの村を漂い、やがて彼の血族である一人の孫へと潜り込む。


 なんてことだ――優司、真琴、学が同時に悟る。悟ったからこそ、おびただしい量の汗が肌の下から沸き上がり、全身を濡らした。


 この村には確かに、“それ”がいたのだ。太古の人々が忌み嫌い、時には“人身御供”などという儀式で鎮めようとした、神代の怪物が。

 それが今も、目の前に立っている。友人の体の中に潜り込んだまま、崩れた肉体の裂け目から確かに、黄色い眼でこちらを覗き込んでいるのだ。


 “タケ爺”は、その身に宿した。

 そしてその孫である純も、彼が目覚めさせた“それ”を受け継いだ。

 その肉体の奥底で彼らを凶行に突き動かさせていた元凶が、今、優司らの目の前で雄叫びを上げている。


 凛音が調べた過去の伝承は、御伽噺などではなかったのだ。

 口減らしをするための悪しき風習でも、災害や飢饉を乗り切るための儀式などでもなかった。

 過去の人々は確かにこの穏月村という土地で、“それ”と出会っていたのである。


 この村には確かに――“鬼”がいたのだ。


 村に封じられていた“鬼”が、この世のものとは思えぬおぞましい波長で高らかに吼えた。


 瞬間、純が凄まじい勢いで動き出す。彼は地面を一蹴りし、大柄な学の懐へと潜り込んでいた。

 学が反応するよりも先に、純が荒々しく腕を振りぬく。肉が肉を打つ凄まじい音と共に、学の大きな肉体が真横へと吹き飛ばされる。


 息をのむ優司と真琴。身が固まり、動くことができない凛音。

 唯一、巨大な“角”を振り乱し、純――否、“鬼”だけが嵐のように荒れ狂う。


 身をひるがえし、今度は彼の手が凛音の体を弾く。軌道にあったハンドバッグが一撃で破れ、中身が外へと放り出された。凛音の華奢な体はなすすべなく、離れた位置の木の幹へと叩きつけられてしまう。

 スマートフォンや財布、手鏡といった品々が音を立ててばらまかれる中、反射的に真琴が前へ出ていた。暴れる純の背後から、大声を張り上げながら飛び掛かる。


「やめなさい、純!!」


 その一吼えに反応するように、純は身をひるがえした。振り返りながらも開いた掌を、容赦することなく向かってくる真琴目掛けて振りぬく。背筋を伸ばさないどこか柔らかさすら感じるその大きな動作は、人間というよりも“獣”のそれだった。


 真琴は向かってくる腕の一撃を、咄嗟に受け止める。なんとか手首を掴むことに成功したが、純はまるでひるむことなく、真横に腕を振りぬいた。

 真琴の体が宙に浮かぶ。小柄であるとはいえ、それでも成人女性の肉体を純は片手で軽々と振り回し、まるで手拭いのようにたやすく扱ってみせた。


 そのとんでもない光景に、優司は呼吸を止めてしまう。何とか純の手首に食らいついていた真琴だったが、ついには放物線を描くような大きな軌道で投げ飛ばされ、植木を薙ぎ倒し倒れてしまう。


 たった一人――否、“鬼”という一匹の怪物によって、大人達が打ちのめされてしまった。誰しもが肉体に刻まれた痛みに汗を浮かべ、地に伏せたまま混乱するしかない。

 その中央に立つ“鬼”はまた一声、天に向けて吼えた。彼の雄叫びを受け、大自然が呼応していく。風が荒ぶり、空気が温度を失う。夏も近い夕暮れ時だというにも拘らず、なぜかひどく周囲の空気が冷たくてならない。


「――いきが――ないなら――くびおとそ――おとして――ならべて――ささげましょ――」


 目の前に立つ“異形”が、小学校を“異界”へと変えていく。その浮世離れした光景を、ようやく片膝をつきながら、優司は歯噛みして睨みつけた。


 理解がまるで追いつかない。だがそれでも、今、目の前で起こる非現実的な事実を受け止めるほかなかった。目の前に立つそれは、錯覚でも、幻覚でもない。圧倒的な質量を持ち、凶器など使わずとも人間を屠ることができる“怪物”なのである。

 その脅威を前に、どうしようもなく恐怖が湧き上がる。だが同時に、優司はなぜか胸を締め付けるような、ひどく痛々しいもの悲しさに包まれていた。


 どんな理屈を並べても、それで彼の――純の犯した“罪”が消えることなどない。

 彼は祖父を痛めつけた同級生達を手にかけ、“復讐”を果たした。用意した凶器を容赦することなく突き立て、四人のクラスメイトの命を奪った。

 彼らだけではない。事件の渦中に巻き込まれた人間を次々に惨殺した、歯止めの利かなくなった“殺人犯”なのである。


 それを理解している。どんな理論理屈を並べようが、それで純が許されることなどないと分かってはいる。

 しかしそれでも、優司は異形へと変貌した“彼”を見つめ、内に湧き上がる悲痛な感情に打ちひしがれてしまう。


 優司らの言葉を、しっかりと純は聞いてくれた。事件の真相にたどり着いた優司らを前に、彼は逃げることをやめ、同級生たちの言葉に耳を傾けてくれたのだ。

 あの表情に、嘘や偽りはない。どれだけその手が血で染まろうとも、優司らの目の前に立っていたのはかつてと同じ――この穏月小学校で共に多くを学び育った、同級生の狩屋純だったのである。


 先程もそうだ。

 自身の肉体に変化が起こるその刹那、苦痛に貫かれながらも純は優司を突き飛ばし、逃がした。

 それはきっと、本能からの行動だったのだろう。暴走を始めようとする自身の凶刃から、優司という友を守るために。


 その数少ない行動で、優司にとっては十分だった。

 人を殺し罪を背負ったとしても、たとえ内に巣食う怪物に乗っ取られたとしても。

 優司は目の前で苦しむ純を、救わなければならない。

 彼がまっとうに、“人”として罰せられるために。


「もういい……もういいんだ……これ以上……“鬼”になんてなるなよ――純ッ!!」


 策など一切なかった。優司はがむしゃらに叫びつつも、とにかく目の前で荒れ狂う純目掛けて突進し、彼に手を伸ばすことしかできない。

 たった数歩、近付いただけでなんだか生温く、ひどく重いなにかが滞留しているのを肌で感じる。純の中に巣食う“それ”が放つ邪悪な“氣”が、現世に生きる優司の肉体を激しく拒絶し、押し返そうと襲い掛かった。


 それでもなお、突進する優司と純の目線が交わる。

 黄色く発光した眼球が優司を捉えた瞬間、ほんのわずかに“鬼”の動きが止まった。だがそれでも、優司の伸ばした手が彼に触れることなどない。

 容赦することなく、“鬼”は向かってくる優司の体を平手で押し返し、跳ね飛ばしてしまった。


 一撃で肋骨が折れたのが分かる。肉体の奥底で骨格が砕ける嫌な感触と共に、優司は力なく地面に倒れ込むしかなかった。

 しかし、不思議なことに痛みは薄い。脳内に分泌されたアドレナリンの影響か、ただただ加速する意識の中で、荒れ狂う純の姿を見つめる。


 一歩、純は大きく飛び掛かった。倒れ込んだ優司目掛けて、彼は容赦することなく腕を振りぬいてくる。その圧倒的な膂力ならばきっと、一撃のもとに人間の頸椎をへし折ることなどわけはないのだろう。


 真琴が、学が、凛音が――誰しもが声を上げそうになった。

 優司は尻もちをついたまま、向かってくる“鬼”を前になすすべがない。


 だが、力なくへたり込んだ優司の手に、なにかが触れた。その固く乾いた瞬間に、ようやく視線が動く。

 ちょうど左手の位置に、見慣れない“木札”が落ちていた。見れば、周囲には割れた手鏡だの、ハンカチだの、あれやこれやと物が散乱している。

 それらが先程、純の手によって破壊された凛音のバッグの中身なのだと、その時は気付くことはできなかった。


 そのうちの一つ――墨で何かの文字が書かれた“木札”を、気が付いた時には優司は手に取っていた。視線を外した優司目掛けて、なおも躊躇などすることなく純の――“鬼”の一手が飛ぶ。


 すべて、無意識の行動だった。優司の中に眠る“なにか”が手にした“護符”を強く掴み取り、その切っ先を襲い掛かってくる純へと向ける。


 “剣”を模して造られた退魔の護符が、荒れ狂う“鬼”の心臓部を狙う。

 なにか強い力に導かれるまま、優司は護符を握る手に力を込めた。


 純の肉体と木札の先端が触れた、瞬間だった。

 まばゆいばかりの閃光が視界を染め上げ、夕闇を押しのける。無秩序に吹き荒れていた突風が、放射状に広がる不可視の力によって形を失ってしまう。


 誰しもが目を覆った。だが唯一、優司だけは手にした“剣”の先端を――その先にある“鬼”の姿を瞬きすることなく見つめる。


 見えざる力が放たれ、純の肉体を真正面から貫いた。人知を超えた“刃”によって、純の中に巣食っていた“それ”が引きはがされ、一瞬、宙にその形を成す。


 黒い靄がかたどったそれは、刺々しい角と巨大な体躯を持っていた。

 純の中に眠っていた“鬼”が、放たれた力によって内側から侵食され、破砕してしまう。


 ほんの数秒の出来事だった。

 気が付いた時には光は止み、風は穏やかさを取り戻していた。今までのような澱んだ空気はどこにもなく、いつもと変わらない夕暮れ時の学び舎が鎮座している。


 真琴たちが目を開き、前を向きなおす。優司も護符と掲げていた腕を下ろし、力なく目の前の“彼”を見上げた。


 純の表情は穏やかだった。肉体から突き出ていた黒い角は砕け落ち、傷跡がボロボロに破壊されている。

 顔を持ち上げ、腕を下ろしたまま彼は笑った。力なく――だが、それでもしっかりと、目の前でこちらを見上げる友に向かって。


「すまなかった……本当に、ありがとうな。優司」


 その言葉を最後に、純は音を立てて倒れてしまう。どさりという乾いた音を最後に、人気のない学び舎には静寂が戻ってきた。

 誰もが事態を飲み込めない中、やはり真っ先に動いたのは“彼”の近くにいた優司だ。地面を這い、なんとか倒れた純のそばにまでたどり着く。


「おい、純……純?」


 肩を揺らすが、反応はない。いつものような、どこか力の抜けた友の声は返ってこない。

 掌に伝わる感触が――彼の肉体から失われていく“温度”が、その事実を悟らせてしまう。


「純……なあ、純――返事をしろよ」


 答えはない。

 歴然とした事実に胸が締め付けられるが、それでも優司は涙を浮かべながら、なおも友の体を揺らし、声をかけ続ける。


 “鬼”は消えた。

 そして、その依り代となっていた彼もまた、逝ってしまった。


 魂が消え、その肉体からぬくもりが失われていく。

 骸から伝わってくる非情な感触を否定しながら、優司は何度も、何度も彼の名を呼び続けた。


 絶句し、言葉が出ない同級生達。

 ただ一人、逝ってしまった友の名を呼び続ける優司。


 傷付いた彼らのその悲しい輪の中心で、こと切れた純は瞬きをすることなく、横たわっていた。

 崩れ、ボロボロになったその顔は、“タケ爺”でも、ましてや“鬼”のものでもない。

 間違いなく、優司らが共に青春を謳歌した、一人の友達の素顔だった。

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