第18話 正体

 駐車場から小学校の正面玄関にたどり着いた瞬間、飛び込んできた光景に染谷学、凛音夫婦は思わず息をのんでしまった。

 夕暮れ時の薄暗さが支配する学び舎の中から、大柄な農作業着の老人が飛び出してくる。その手には草刈り鎌が握られており、腕の動きに合わせて切っ先が空を乱雑に切り裂いていた。


 まさかの光景に唖然とする中、二人はその老人の背後に続く一人の男性の姿に声を上げてしまう。


「あれって、まさか――」

「――優司君!?」


 校舎の正面玄関から外へと走る“タケ爺”を、必死に優司が追っている。足がもつれそうになりながら、それでも優司は歯を食いしばり、逃げていく老人の背中を追っていた。


 わけも分からない染谷夫妻に、“タケ爺”がぐんぐんと近づく。老人も目の前に立ちはだかる二人の影に気付いたようで、手にした鎌を威嚇するように持ち上げた。


「ヴォオオオオオオ!!」


 おぞましい雄叫びと共に、まるでひるむことなく突進してくる“タケ爺”。その切っ先は偶然、彼の退路を塞ぐように立っていた凛音に向けられていた。

 優司もまた、走りながら二人の姿に気付く。一方、猪のように猛進してくる“殺気”の塊に、凛音は飲まれてしまい身動きができない。


 鎌の先端が走る。躊躇することなく凛音の首筋目掛けて襲い掛かったそれが、巨大な肉の壁によって阻まれた。

 すんでのところで、学が二人の間に割って入る。“タケ爺”の振り下ろした鎌は学の肩に突き刺さり、痛々しく食い込んでしまう。

 優司、凛音それぞれが、激痛に歯を食いしばる巨漢を呼んだ。


「ぶーちゃん!!」

「あなた!!」


 “タケ爺”もどこか一瞬、目の前に立ちはだかった大柄な男にひるんだようだった。だがすぐに草刈り鎌を握る手に力を籠め、肉を切り裂こうと凶器を引き寄せる。

 渾身の力を込めた老人の腕が――止まった。まさかの感触に、麦藁帽子の下でぎらついていた大きな眼が、明確に揺れる。


 肉に食い込んだ刃が、まるで動かない。目の前に立ちはだかった学が全身に力をこめ、凶器の動きを止めてしまっているのだ。


 その理由を、すぐに“タケ爺”は知ることとなる。学は歯を食いしばり、激痛に耐えながらも至近距離にいる狂人に、あらん限りの感情をぶつけた。


「――いいかげんにしろォッ!!」


 凄まじい雄叫びと共に、学は目の前にいる“タケ爺”の体を担ぎ上げてしまう。そのまさかの光景に、ついには優司も足を止めてしまった。

 優司と凛音が唖然とする中、学は老人を抱えたまま突進する。肩に刃が突き刺さったまま、ただひたすらに前へと足を出した。


 口下手でおとなしい、“熊”のような男性の奥底で、クラスメイト達を痛めつけ続けた殺人鬼への明確な“怒り”が爆発する。学はそのまま、延長線上にあった木の幹へと、渾身の力を込めて“タケ爺”の体を叩きつけた。


 どうん、という音と共に大地が揺れる。衝撃がはじけ、ようやく学と“タケ爺”の体が離れた。それぞれが地面に倒れ込み、動かなくなってしまう。


 しばし、優司らは足を出すことができなかった。だがいち早く我に返った凛音が、夫である学の元へと駆け寄る。


「あなた……大丈夫!?」

「う、うん……平気だよ……こ……これくらい」


 悲しげに顔をゆがめる凛音に、学はそれでも笑顔を浮かべる。肩の草刈り鎌を引き抜くと、おびただしい量の鮮血がチェックのシャツをどす黒く染めた。致命傷ではないようだが、それでも傷は深い。凛音はすぐに持っていたハンカチをあてがい、傷口を縛り上げることで応急措置を施した。


 クラスメイトのまさかの登場と奮闘を前に、優司は唖然としてしまう他ない。だがその目は傷を負った学ではなく、少し離れた位置で地に伏せている老人へとむけられていた。

 学の渾身の一撃はさすがの“タケ爺”にもかなり効いたようで、彼はうつぶせになった状態から動こうとしない。そのあまりにも浮世離れした光景を、必死に呼吸を繰り返しながらしかと目に焼き付ける。


 混沌とした正面玄関の状況に、また一つ、新たな足音が加わった。ようやく追いついた真琴が、まずは優司の背中に大声で問いかける。


「優ヤン、“タケ爺”は!?」

「あ……あ、ああ……あそこに――」


 情けないことに、優司は肩の力を抜いて彼方を指さすことしかできない。真琴も真剣なまなざしを前へとむけるが、あまりにも規格外な状況に「ええっ?」と素っ頓狂な声を上げてしまう。


「え……ちょ、どういうことなのよ、これ?」

「ぶーちゃんのおかげなんだ。とにかく――“タケ爺”も、さすがにすぐには動けないだろう」


 真琴は呼吸を整え、汗をぬぐいながら倒れている“殺人犯”を見つめる。真琴の体の所々には白い粉が付着しているが、どうやら炎に焼かれたしずかの遺体を消火器で鎮火させてきたらしい。

 ここでようやく、優司と真琴も学達に駆け寄る。凛音の手を借りて立ち上がる学は、玉のような汗を浮かべていた。


 とにかく学に声をかけようと、一歩を繰り出そうとする優司と真琴。だが、うつぶせに倒れていた老人が地に手をついたことで、その動きが止まってしまう。

 低く、重いうなり声が“タケ爺”の喉元から聞こえてきた。誰しもが見つめる中、老人はゆっくりと、全身に力を込めていく。ゆるり、ゆるりと倒れていた老人の肉体が起き上がっていった。


 復活しようとする“タケ爺”の姿に、再び一同が戦慄する。膝をがくがくと笑わせたまま、それでも老人は目を見開き、前を向いた。


 そのまなざしから、凶暴な光は失われていない。鋭く研ぎ澄ました眼光が、自身に一矢を報いた学を睨みつけている。

 一歩、老人の長靴がタイルを踏みしめ、前に出た。学と凛音はこちらに近付いてくる“タケ爺”の姿に戦慄し、たじろいでしまう。


 対峙する両者の姿を、俯瞰した位置から優司は見ていた。茜色と闇が交差する懐かしい学び舎で、かつてのクラスメイトと過去から這い出た“鬼”が対峙している。

 そのおぞましい光景に戦慄しつつも、優司の中である一つの“思い”が加速していく。


 何度見ても、“タケ爺”の姿は過去に出会ったそれと同じだ。汚れた農作業着に黒い長靴、所々が破れた麦わら帽子に、生え放題になったぼさぼさの白い髭。何から何までが、過去のそれと一致する。

 彼に、多くの人間が殺された。ガキ大将の石田も、秀才の永友も、小柄な田畑も。そしてつい先程、かつての委員長・前園しずかも殺害された。今目の前にいるのは、多くの友の命を奪った、殺人鬼なのだ。


 その事実を受け止めてなお、優司は思う。純粋な怒りや、激しい嫌悪ではなく、全く異なる感情を抱いたまま、目の前に広がる光景をまじまじと見つめた。


 “タケ爺”という存在の登場を――優司はその実、予感していた。

 優司だけではない。おそらくこの場に集まった誰しもが、彼がここにやってくるということを、心のどこかで分かっていたのだろう。

 優司らが懐かしの学び舎に集ったのは、過去の事件の関係者である前園しずかを追求するためだけではない。

 これまでこの村で起こってきたすべてに、“決着”をつけるために集まったのである。


 また一歩、老人は前に出る。そんな彼に向けて、優司は声を振り絞った。


「頼む……もう、やめてくれ」


 その一言は、夕暮れ時の風にかき消されてしまい、届かない。校内を走ってきたせいかまともに呼吸ができず、思うように言葉を紡ぎだすことができずにいた。

 何度も生唾を飲み込み、疲弊した自身の肉体を潤す。両の拳を痛いほどに握りしめ、たぎる熱を携えたまま口を開いた。


「なぁ……やめろよ。なぁ――」


 優司自身、理解していた。声が出ないのは、全力疾走したからでも、クラスメイトの死に動揺しているからでもない。

 優司はただ、恐れているのだ。

 この先のある“事実”を告げることを。自分達がたどり着いた、ある“名”を口にすることを。


 もし、それが憶測でなく、明確な“答え”だったとしたら。

 優司らが互いに意見をぶつけ合い、たどり着いた“結果”こそがすべてだったとしたら。


 今日、この場でこの事件は終わるだろう。

 だが同時に、優司らはもう一つ、大事なものを失ってしまう。


 それがただただ、怖かった。優司のみならず、その“答え”を知り得ているクラスメイト達も同様なのだろう。

 踏ん切りがつかず、もどかしい思いを抱いたまま彼方の老人を見つめる。薄汚れた農作業着姿のその表面に、まるで陽炎のような激しい“怒り”がまとわりついているかのようだった。


 これからも“彼”は、人を殺すのだろう。

 このままでは“彼”は、殺人者として逃げ続けていくのだろう。


 そう考えた瞬間、優司は覚悟を決めた。全身に力を漲らせ、大きく息を吸い込む。

 かつての学び舎を背にして、夕暮れの闇と共に蠢く“タケ爺”に向かって、はっきりと吼えた。


「やめろ……やめてくれよ――純ッ!!」


 きぃんと、大気が揺れた。優司の咆哮を受け、一歩を踏み出そうとしていた老人は足を止める。

 学、凛音も息をのみ、目の前の“殺人犯”ではなく、優司を見つめた。駆けだそうとしていた真琴すらも足を止め、振り返ってしまう。


 たった一言が、優司をひどく消耗させた。誰しもがぜえぜえと肩で息をする彼を見た後、一斉に“タケ爺”へと向き直る。

 “鬼”は動かない。だが、今まで彼がまとっていた濃厚な“殺気”が、どこかほんのわずかに揺らいだような気がした。


 遠くでカラスが鳴いている。夜が迫る空虚な学び舎には、風や野山のざわめきという自然の音色以外、何一つ聞こえない。

 誰一人が喋らずにいるその中で、“タケ爺”はゆっくりと体勢を変えた。今にも目の前の学達に飛び掛かりそうな獣じみた構えを解き、優司ら同様に背筋を伸ばして立ち上がる。


 数秒か、数十秒か――正確な時間こそ分かりはしないが、優司らにはその沈黙がひどく長く、重々しいものに錯覚してしまった。

 前を向いていた“タケ爺”は、深く呼吸を繰り返していた。だがやがて、彼の口元から「ふぅ」という乾いたため息が漏れる。

 初めて見る老人の反応に誰しもが息をのむ中、老人はついに視線を優司へと向けた。


 そのまなざしに浮かんでいた悲しげな色と共に、この場の誰しもが聞き覚えのある声が響く。


「やれやれ。ばれないように、頑張ったつもりだったんだけどなぁ。まぁ、さすがに分かるか。なぁ?」


 懐かしい声だった。優司はもちろん、“彼”のその少し間の抜けた声を、ここにいるクラスメイト達は皆、つい最近まですぐ近くで聞いていたのだ。

 老人は麦わら帽子を脱ぎ捨てる。さらに彼は口元を覆っていた白い髭をむしり取り、地面に捨ててしまった。

 帽子と“付け髭”を外した“彼”は――優司らのクラスメイト・狩屋純はいつもと変わらない、困ったような笑みを浮かべている。


 純はどこか切ない眼差しを、離れた位置にいる優司に向けていた。そして優司もまた、悲哀に満ちた表情で彼を見つめる。

 優司は歯を食いしばり、湧き上がる感情に耐えた。予想通り、そこに立っている友人の姿を見るのが、ただただ心苦しい。分かっていたはずなのに、改めて突き付けられたその事実が、優司の心をどうしようもなく締め付ける。


 “タケ爺”は――春日岳道という名の老人は、すでに死んでいる。

 そして彼の“死”を忘れることなく、復讐の刃を駆り続けた男が、今目の前にいる。


 真琴も、学も、凛音も、誰一人言葉が出ない。一同が困惑する中、なおもどこかリラックスした姿で、農作業着を身にまとった純が問いかける。


「その様子じゃあ、気づいてたんだな。随分と前から――俺が“タケ爺”の正体だって」


 やはり優司は言葉を返せない。どくどくと加速する煩わしい鼓動を抑え込みながら、震えを押し殺して大きくうなずく。純はやはり「そっか」と、困ったように笑った。

 ここでようやく、優司のすぐ隣に立つ真琴が参戦する。彼女もまた困惑を隠せずにいたが、それでもなお警察官としての凛としたまなざしを捨てず、前を向いた。


「改めて、かつての“タケ爺”――春日岳道さんの周辺について、調べ上げたのよ。彼は妻の小夜子さんとの間に、一人娘を授かってる。その方はこの村で結婚し、子供も生まれた。けれど岳道さんが正気を失って以降、それがきっかけとなって娘夫婦にはトラブルが絶えなかったの。心労が祟ったせいか、娘さんの旦那さんは1年後に病気で亡くなっている」


 真琴が語る“タケ爺”にまつわる過去を、純を含め誰しもが黙したまま受け止めていた。夕暮れの風がどれだけ顔を撫でつけても、真琴はその強い眼差しを消さず進み続ける。


「今でも娘さんは、“一人息子”と共にこの村で暮らしている。娘さんは籍を入れたことで、春日から新たな姓へと移り変わったの。その新しい苗字は――狩屋」


 そこまで聞いて純はまた一つ、微かな笑みを浮かべたままため息をついた。一拍、わずかにひるんだのち、それでも真琴は前を向きなおす。

 風がごおごおと強さを増していく。夕暮れを追うように夜が這いより、少しずつ、着実に村を侵食し始めていた。


 逢魔時おうまがときと呼ばれた時間が近づく。地獄の釜の蓋が開き、魑魅魍魎が此岸へと染み出す忌まわしき刻が迫ってくる。

 怪物達の吐息のように生暖かい風を受け、一同は“彼”を見つめる。

 黙したまま、すべてを受け止めてくれる“彼”に向けて、真琴は涙をこらえながら告げた。


「あなたの旧姓は春日……あなたは春日岳道さんの――たった一人の“孫”なのよね?」


 なおも“彼”は答えない。だが、こちらに向けて笑いかけるその表情こそが、すべての答えだったのだろう。

 かつての同窓会で再会した面々は、幼少期に馬鹿をやりあったかつての学び舎で対峙する。村で続く凶行を終わらせるため、すべての決着をつけるために集結したのだ。


 その輪の中心で、なおも“彼”は悲しく微笑んでいる。一同の顔を流し見た後、なおも純はこちらを悔しそうに見つめる、優司の顔を眺めていた。

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