第17話 破壊衝動
優司らが職員室を飛び出した時には、すでにクラスメイト・前園しずかの姿は見えなくなっていた。彼女は二人を置いてどこかへ立ち去ってしまったらしい。優司は廊下のど真ん中に立ったまま、明暗がくっきりと分かれた廊下の先をじっと見つめてしまう。
少し遅れて真琴も廊下へと躍り出る。彼女も素早く周囲を見渡しながら、かつての“委員長”の姿がないことに歯噛みしてしまった。
「しずか、どこへ行ったのかしら。“タケ爺”がいる以上、一人にさせるのは危険よ。間違いなく、彼はしずかを狙ってここまでやってきてるはず」
「ああ、それは良く分かる。けれど、“委員長”は一体どこに逃げたんだろうか?」
「さあ……でも、校舎の中なんかに逃げ場はないってことは、しずか自身が一番よく知っているはずよ。ならとにかく、この学校から脱出しようと思うんじゃあないかしら?」
「なるほどな。たしか委員長は、家からここまで車で通っていたはずだ。なら駐車場を目指してるのかもしれない」
真琴はもちろん、優司までも急激に思考が加速していく。緊急事態だからなのか、脳が活性化し今、自分達が置かれた状況を素早く分析していった。
きっとそれは優司と真琴がそれぞれ、あの老人――“タケ爺”に一度、襲われたことがあったがゆえなのだろう。かつての痛みや恐怖という後ろめたい経験が、それでも確かな糧として二人の背中を前に押していた。
「けれど、さっきのあれ――あの“液体”はなんだったんだ? いまだに、浴びた箇所がひりひりするよ」
優司は“タケ爺”が投げ込んだ謎の物体に思いを馳せる。無色透明の液体はとうの昔に拭いとったが、それでも皮膚の表面がチリチリと焼けるように痛んだ。
真琴も足首に残るその不快な感触を確かめながら、記憶をたどる。
「どうやら、なにかの“薬品”が入っていたみたいね。即席で作り上げた“爆弾”ってところかしら。もしまともに浴びていたら、病院送りだったかもね」
「まじかよ……こうなるといよいよ、あの“タケ爺”ってのはただの狂人とは言い難いな。そんなものまで用意周到に作ったうえで、今日、この場に現れたんだからさ」
彼は確実に優司らを“殺す”ため、得体の知れない化学薬品まで仕込み、ここまでやってきた。精神が壊れ、衝動的に人を殺すような人間が、そこまでシナリオを組み立てて行動するとは考えにくい。
かつて二人が予測した通り、あそこにいた“タケ爺”はなにかしっかりとした“目的”を元に動いている――期せずしてその答え合わせができてしまったことで、より一層、二人の眼差しが力を帯びていった。
二人はそれ以上、無駄口は叩かない。直ちに駆け出し、まずは逃げてしまったクラスメイト・前園しずかを追う。彼女に“タケ爺”が追い付く前に、とにかく合流しようと夕暮れ時の校舎をひた走った。
人気がなくなった校舎はただただ閑散としていて、夜を前にしているというにもかかわらず、そこかしこに仄暗い闇が張り付いている。熱波のような風が吹き荒れるたび、閉め切った教室のガラス窓がぎしぎしと音を立て、不快に空間が揺らいだ。
生徒、そして教師すらもいなくなった夕暮れ時の小学校――その2階に位置する部屋の隅で、女教師は身をかがませたままごそごそと蠢く。
襲いくる脅威を前に、怯え切っているわけではない。彼女は“理科室”の片隅で黙々と、ある“準備”を進めていたのだ。
そんな彼女の居場所をどうやって察したのか、けたたましい音を立てて入り口の引き戸が開いた。部屋の片隅でうずくまっていた彼女が振り向くのと、“それ”が部屋に一歩、踏み入ってくるのは同時だった。
女教師・前園しずかと、彼女を追ってきた老人――草刈り鎌を手にした、農作業着姿の“タケ爺”が離れて対峙する。
老人はまるで躊躇することなく、一歩、また一歩と離れた位置にいるしずか目掛けて近付いてきた。窓から差し込む重く沈殿した夕焼けの光が、小学校という場にはあまりにも場違いな老人のディティールを浮かび上がらせる。
重々しい足音と共に近付いてくる彼を、中腰になったまましずかは見つめていた。だがその表情には、恐怖や不安の色は見えない。
向かってくる“殺人者”を前に、不自然なまでにしずかは冷静な表情で声をかけた。
「本当に驚いた……噂には聞いていたけど、“あの頃”のままなのね?」
老人からの返事はない。“タケ爺”の喉元からは、かすれた呼吸音が静かに響くのみである。
しずかは立ち上がり、ゆっくりと動く。手を下ろしたまま、実験用の大机を間に挟むように位置取りつつ、老人の出方を慎重に伺った。
「あなたなのよね? 石田君に永友君、田畑君を殺したのは。随分と派手にやったものね。本当、今までよく、捕まらなかったものよ」
こともあろうに、しずかは軽い挑発まがいの言葉を投げながら、なおも慎重に老人に向き合い続けた。じわり、じわりと“タケ爺”との距離が縮まるが、やはりどれだけ彼が近付いても、しずかが目の前の存在に揺らぐことなどない。
むしろ、今のしずかの心中には、抑えがたい“高揚感”が沸き上がりつつあった。
職員室で優司や真琴が語ったように、前園しずかという人間の奥底に眠っていた“過去”の記憶が、対峙した老人を前に次々と蘇ってくる。
「はじめは、『ありえない』って思っていた。けれど、誰かが殺されるたびに、疑惑は確信に変わっていったわ。“タケ爺”が蘇って、かつての同窓生達を殺害している……そんな馬鹿げた連続殺人の内容を耳にするたび、私は――」
老人はやはり、言葉一つ発しない。凶器を握りしめた手をだらりとおろしたまま、かっと見開いた目でしずかを見つめ、距離を詰めていく。
また一歩、長靴が無遠慮に床を踏みしめた。だがそこでついに、しずかの自制心が限界を迎える。
叫びもせず、泣きもしない。
喚きもしなければ、戸惑いもしない。
しずかはただ――笑った。
「私はただただ――嬉しかった。また“お前”が、戻ってきてくれたんだって。またお前を――“殺せる”かもしれないってね」
微笑みなどではない。前園しずかの顔に張り付いたそれは、明らかな狂笑だった。目を見開き、ぐにゃりとゆがんだ口元から真っ白な歯が覗く。再会してしまった過去の存在を前に、もはやしずかは己の感情を抑え込むことができない。
ずっと、我慢し続けてきた。
“委員長”として大勢の子供を先導し、周囲の大人達の期待に応え続けた。優秀な人材でいればいるほどに人生というものはうまくいき、豊かに、裕福にことは進む。前園しずかという人間は幼くして、そんなシンプルな世の理に気付き、常に幼稚なクラスメイト達を出し抜きながら生きてきた。
だがそれゆえに、しずかという人間は決して満たされることがなかった。
クラスメイトの羨望の眼差しも、大人達の拍手喝采も、どれもこれも薄っぺらいものでしかない。わずかに心の表面が震えはしたが、そのたびにしずかが抱いた“本質”は空虚ながらんどうとして、肉体の奥底でむなしい音を立て続けた。
しずかは“それ”を満たすため、常に孤独に生き続けた。
ある時は“虫”を踏み潰した。ある時は“犬”を蹴り飛ばした。ある時は“猫”に石をぶつけ、ある時は学校で飼っていた“兎”を何度も殴った。
誰かを傷付けることでしか、しずかという人間が抱いた“本能”は満たされないのである。そのどうしようもない“さが”ともいうべきものを、しずかは誰にもばれないよう、巧妙にごまかし続けた。
耐え難い、“破壊衝動”――それこそが、クラスメイトから“委員長”と慕われた少女の、決して曝け出すことのできない、本質そのものだったのである。
そんな幼少期のしずかの耳に、偶然、ある“噂”は舞い込んだ。生まれ育った村を徘徊する、一人の――否、一匹の“鬼”の噂である。
農作業着に身を包み、泥にまみれた汚らしい姿で、“歌”を口ずさみながら徘徊する一人の老人。気を病んだ彼は草刈り鎌という凶器を携え、子供達の脅威として君臨し続けた。
クラスのガキ大将・石田はある日、それを退治しようと言い出したのだ。彼からすれば、一種の“武勇伝”を作りたかったのだろう。誰しもが忌避する存在と対峙し、一泡吹かせる――世間知らずのガキが、“武勲”を上げようと勘違いした結果、起こったことであった。
そのバカげた提案を聞いたしずかは、あの時も誰にも悟られないように笑ったのだ。聡明な“委員長”の脳内で、急速にとある“計画”が紐づき、輪郭を帯びていく。
誰からも忌み嫌われ、大人ですらのけ者にする一人の老人。それを退治しようと奮起するガキ大将と、彼の威圧感に負けて加勢せざるを得ない子供達。
人手はすでに、揃っている――しずかはゆえに石田に近付き、提案したのだ。
“鬼退治”をする、もっと明確な方法を。
村を脅かす“鬼”を“殺す”ための、確実な手段の数々を。
石田、永友、田畑――かつての“戦友”たちの死に様を聞くたび、“あの日”を思い出してしまう。口元に張り付いた凶暴な笑みを手で押さえながら、しずかは高鳴る鼓動を感じつつ、必死に言葉を紡ぎだした。
「全部、あの日と同じ――永友君を“ボウガン”で射抜いて、田畑君は“槍”で貫いたんでしょう? すごいわね。皆、私が彼らに提案した通りの“殺し方”じゃない」
四人は即席で作った“武器”を手に、“タケ爺”の後をつけた。そして彼が一人になった瞬間を狙い、一斉に襲い掛かったのだ。
石田達三人にはきっと、本気で“殺す”つもりなどなかったのだろう。だがただ一人、しずかだけは違った。彼女は全力で目の前にいる一人の大人の命を奪おうと、的確に、残酷なまでに立ち振る舞ったのを覚えている。
子供達の凶器を受ける度、老人はうなり、悲鳴を上げた。その波長が肌に伝わる度、どうしようもなく心が震えたのを覚えている。一撃、また一撃と老人の体がゆがみ、崩れ、千切れる度、前園しずかの小さな肉体の奥に、これまでの人生では味わったことのない恍惚とした感覚が芽生え始めていたのだ。
いくつもの偶然が重なり、“タケ爺”は――春日岳道は山中にあるため池に足を滑らせ、落ちてしまった。その瞬間、あれだけ“鬼退治”だと息巻いていた石田達三人が呆然としていたのを、今でもしっかりと覚えている。
恐れをなしたクラスメイト達は、その場から逃げ去ってしまった。しかししずかだけは、最後の最後までよどんだ水の中でもがき苦しむ老人の姿を見つめていたのだ。
じっと立ち尽くしたまま、一人の人間の命が消える瞬間を見つめ続けた。老人がこと切れ、動かなくなった瞬間、しずかは生まれて初めて“絶頂”を体験し、足を震わせてしまっていたのである。
かわいそうだの、恐ろしいだのという感情は、微塵もない。しずかはただただ、己の小さな体を貫いた稲妻のような快楽に酔いしれ、いつまでも野山の古池を見つめていた。
あの日――かつて自身に生まれて初めて“絶頂”をもたらしてくれた存在が、今再び、目の前にいる。それを考えるだけで、大人へと成長したしずかの肉体は、どうしようもなく奮い立ってしまう。
“委員長”ではなく、“教師”という立場になってもなお、前園しずかの本質は変わらない。彼女はいつでも、己の身を焦がす圧倒的な“絶頂”を求め続けている。
日常生活では決して曝け出すことのない、“破壊”でのみ得ることができる、究極の快楽を。
「本当に……本当によく、戻ってきてくれたわ。何もかも、あの時と同じ。むしろ、もっと早くあなたがやってこないかと、待ちわびてたくらいなのよ。たっぷりと“準備”をして――また、あなたを“殺せる”ように」
張り詰めた理科室の空気が、一気に動く。臨界点を迎えた“タケ爺”は強く床を蹴り、雄叫びと共に前に出た。しかし、一気に距離を詰めてくる老人を見据えたまま、しずかも素早く動く。
老人が草刈り鎌を振り上げた瞬間、すでにしずかは“それ”を投げつけていた。今までテーブルの影に隠し続けていた“それ”は、放物線を描いて老人の頭部に襲い掛かる。
草刈り鎌が、向かってくる小さな“ガラス瓶”を砕き割った。乾いた音と共に瓶は砕け散ってしまうが、内部の液体がばっと広がり、“タケ爺”の上半身に降り注ぐ。
「――ッ!!」
老人の足が止まる。肉体に降り注いだ液体は彼の皮膚を焼き、凄まじい痛みで肉体の動きを縛ってしまった。
しずかはさらに躊躇しない。距離を取りながら一つ、また一つと用意していた“瓶”を投げつける。理科室にあった“薬品”を詰め替えたそれらは、ものの見事に老人の肉体にぶつかって砕け、容赦なく彼の肉体に降り注ぐ。
これもあの時と同じ――苦しむ“タケ爺”の姿に、しずかは震えが止まらない。
職員室で投げ込まれたあのペットボトルも、原理は同様だった。密封した容器の中に液状の薬品と特定の物質を入れ、一定時間後に破裂するように仕込んでおく。科学の知識があれば誰でも作ることができる、即席の“爆弾”というわけだ。
その原理を知るしずかだからこそ、あの時、職員室でただ一人だけ、素早く反応することができた。そして今も、自身がこの日までコツコツと作り上げてきた“爆弾”を使い、“タケ爺”に太刀打ちできている。
肉体を蝕む薬の影響で、“タケ爺”はただただ皮膚を押さえ、もがき苦しむ。動きを止め、悲痛なうなり声をあげる“鬼”の姿を、しずかはついに立ち止まってじいっと見つめた。
か細いしずかの体の奥底で、何かが熱く脈動していく。幼少期に感じた“それ”とは比べ物にならないほどの凄まじい快感が、どくんどくんと肉の奥で脈打つ。
息を荒げ、よだれすら微かに垂らしながら、しずかはもう一つの瓶を投げようと振りかぶった。老人の頭部に狙いをつけ、笑みを浮かべたまま力をこめる。
瞬間、がらりと音を立てて理科室の入り口のドアが開く。駆け付けた優司と真琴の目の前で、すでにしずかはもう一つの瓶を放り投げていた。
「――委員長ぉ!!」
優司の声にも、しずかはまるで振り向きはしない。飛んでいく“薬瓶”の先――それが炸裂するであろう“鬼”の姿を、瞬きすらせずに見つめていた。
死ね――明確な殺意が加速し、しずかの肉体の奥で燃える。
だが、優司や真琴が事態を把握しきるその前に、ようやく老人が動いた。
しずかがそうしたように、“タケ爺”もまた懐から取り出した瓶を投げつける。しずかの投げた小瓶を跳ねのけながら、代わりにまっすぐな軌道で茶色い瓶が宙を飛ぶ。
老人の投げた瓶はしずかの腰あたりに炸裂し、乾いた音を立てて砕け散った。
三人が息をのむ中、ガラスの砕け散る音を追うように、“ごお”というおぞましい波長が広がる。瓶から飛び散った液体に続き、煌々と輝く“炎”が一気に燃え上がった。
火炎瓶――気が付いた時には、紅蓮の炎がしずかの全身を包み込み、無慈悲に焼いていく。突如、室内に出現した強い光源に、窓から差し込んでいた夕暮れが押しのけられる。
優司が呼吸を止め、真琴は悲鳴を上げそうになった。二人の見ている前で、しずかは火だるまになり、もがき苦しんでいる。体にまとわりつく炎を拭い去ろうと四肢をばたつかせるが、容赦することなく火焔は追いすがった。
呼吸ができないまま、全身を包む熱と痛みに声ならぬ声を上げるしずか。そんな彼女のすぐ目の前に、気が付いた時には“彼”が迫っていた。
こんな状況においてもなお、やはり老人の動きは機械的だった。“タケ爺”は何ら躊躇することなく、火炎に包まれるしずかの首元目掛けて、草刈り鎌を一閃する。分厚い鋼の刃が女教師の首に突き刺さり、脊椎までたやすく到達した。
そのまま“タケ爺”は、力任せに鎌を振りぬく。炎に包まれたしずかの体が宙に浮き、理科室の空気をごおとかき回した。
燃え盛るその喉元から、たしかに「ごきり」という嫌な音が響く。放り出されたしずかの喉元からおびただしい量の血が噴き出すが、それすら炎が焼き、瞬く間に蒸発させていく。
鼻をつく嫌な臭いがした。しかし、優司と真琴は身動き一つとれず、離れた位置に転がったクラスメイトの姿を目で追うしかない。
横たわったしずかは、ピクリとも動かなかった。頸椎が捻転したおぞましい姿のまま、かっと目を見開き絶命している。何一つ動けない二人の目の前で、炎は無慈悲に、容赦なく彼女の肉体を焦がしていった。
間に合わなかった――目の前で起こる惨劇に唖然とする中、ただ一人だけ、凶刃を振るった老人が動く。
優司が顔を上げると、“タケ爺”は二階の窓から外へと脱出するところであった。
その後ろ姿に、たまらず優司は声をかける。混乱する肉体を必死に動かし、ありったけの力で吼えた。
「――待てよ、おいッ!!」
一瞬、ほんのわずかに“タケ爺”の動きが止まる。彼は窓枠に上ったままぐるりと首を動かし、優司のほうを見やった。
過去のそれと同じ、おぞましい姿だ。だが一方で、ほんの一瞬――優司を見たその目に宿ったある“感情”の波を、二人は見逃さない。
躊躇することなく、“タケ爺”は窓の外へと飛翔する。彼の姿が消えともなお、優司と真琴は一歩も動くことができず、唖然とするほかなかった。
ごおごおと音を立て、炎が燃えていく。かつての学び舎のど真ん中で繰り広げられる浮世離れした光景に、ただただ体が震えた。
恐怖に体が縛られ、嫌悪感に吐き気すら湧き上がる。だがそれでも、優司の奥底――鼓動の裏側に宿ったある“思い”が、意識を覚醒させた。
逃がすわけにはいかない。
優司と真琴は奴を――否、“彼”をここで止めなければいけないのだ。
歯を食いしばり、恐れに負けようとする肉体に鞭を打つ。
焼き尽くされていく同級生の骸を前にしてなお、優司は屈しようとする肉体を精神で研ぎ澄まし、前を向き続けた。
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