第14話 忌むべき名

 風が強く吹き付けたことでまた一つ、山全体が大きくざわめいた。草木が蠢く音色はどこか不気味だったが、一方で彼女はそんな雑音に惑わされることなどなく、真剣な眼差しを前に向け続けていた。


「この村の“旧名”――ですか?」


 畳の上に正座し背筋を伸ばしたまま、染谷凛音そめたにりんねは机の向こう側に問いかけた。彼女のはっきりとした一言を受け、男は――「穏月おんげつ神社」に勤める和尚が深く頷く。


「ええ。今でこそ穏月村――“穏やかな月の村”という綺麗な名前なのですが、この村は元々、何度も名前を変えているんですよ。時代の流れに合わせて、その時々で漢字の意味合いなどを考え、より受け入れられやすい形になってきたんです」

「なるほど。確か私が知る限りでは、穏月村が“村”としての組織体を形成したのは、それこそ数百年前だと聞いてます。となれば、時代時代に合わせた形に名前を変えてきたというのも頷けますね」


 凛音の理路整然とした受け答えに、和尚は感服してしまったらしい。温かい茶をすすった後、どこか嬉しそうに「ええ」と笑った。


「本当によく勉強されているのですね。いやはや、まだお若いのに感心です」

「歴史好きの変わり者なだけですよ。けれど私も勉強不足でして、この村の元々の名までは存じ上げていません」

「穏月村も何度か、名前が移り変わった時期というものがあるのです。最も近しいものですと、百年ほど前までは『隠月村』と呼ばれていたそうなんですな」


 和尚はあらかじめ用意していた古い本――この神社に残っていた郷土資料を机の上に置き、ぱらぱらとめくって見せた。凛音が覗き込む中、該当する箇所に辿り着き指差す。


「ここですな。その名前が付いたのがおおよそ230年ほど前。つまるところ、江戸時代の頃に名付けられたようです」

「そんな古くから、ここに村が……けれど、『穏』と『隠』はそれぞれ読みは同じですよね。なにか、漢字字体の意味が異なっている、ということなのでしょうか?」

「ご察しの通りです。かつて使われていた『隠』の字には、様々な意味があるのです。一つはもちろん、『隠れる』という意味合い。だが同時にこの文字は、別の意味を秘めた“ある文字”の代わりにも使われていたのですね」


 凛音が「ある文字」と繰り返し、和尚は一度だけ大きくうなずく。一拍を置いた後、彼は変わらぬトーンで冷静に告げた。


「『隠』……すなわち『おぬ』が転じ生まれたのが――『おに』という文字なのです」


 これまで終始、冷静に取り繕ってきた凛音だったが、この思いがけない事実には息をのまざるをえなかった。

 鬼――“タケ爺”と呼ばれ忌避されていたかの老人も、一部のクラスメイトからそう呼ばれていたのだ。


「無論、これは諸説ありますが、『鬼』というのは人々が決して知覚できない神代の存在――人間では『見ることのできない者』ということから、恐れられてきたんですな」

「なるほど。人の目から『隠れる者』……だから、それを『隠』と呼んでいた、と?」

「おっしゃるとおりです。この村が『隠月』と呼ばれていたのも、そこに由来するのですよ。なにせこの地には古くから、その『鬼』が住んでいる場所として人々に恐れられていたようですから」


 なんとも物騒な事実に、凛音は自身の鼓動が加速していくのを感じていた。しかし、取り乱すことなく冷静に事実を受け止めていく。


「鬼が住んでいる……それは、どういう――」

「まぁ、私もあくまで歴史学者などではありませんから、詳しくは知らんのですがね。祖父の代から語り継がれた内容からすると、どうもこの地は元々、『鬼憑おにつき』――すなわち、神代の怪物に乗り移られた人間が後を絶たなかったそうです。それゆえに、いわゆる“忌地いみち”として村の存在が知れ渡ってしまった時期があったそうですよ」


 その内容は、かつて凛音が独学で辿り着いた事実とも合致していた。元々この地では“精神疾患者”などを口減らしするために、様々な口実や風習を作り、挙句は“人身御供”などという凶行にすら手を染めていた過去がある。

 しかし、それらが“鬼”という存在に結びつくとは思ってもみなかったのだ。かつて“タケ爺”のことを“鬼”と呼んでいたクラスメイト・石田の顔が思い浮かぶ。


 鬼退治――かつての同窓会で、石田は幼少期の思い出をそう語っていた。

 そして殺害された田畑は、“僕ら”が“タケ爺”を“殺した”と叫んだ。


 それらの意味するところは――凛音はかすかに浮き上がってきた冷汗を拭い、なおも冷静に目の前の和尚に斬り込んでいく。


「それって、この地で続いていた“生贄”文化にも関係しているんでしょうか? 恐らく、過去の人々が口減らしのための口実として作り上げたものだったのでしょうけど……」

「ええ、もちろんそういった側面はあるようですな。しかし、なんとも穏やかではないのが――この地には本当に“鬼”がいたようです。そしてその“鬼”は時折、村人の誰かに憑りつくことで、暴れまわったのだとか。それゆえに、『鬼憑き』となった人間を炙り出し、それを清めるという儀式が行われていたようです」


 にわかには信じがたい内容に、さしもの凛音も冷静さを欠いてしまいそうになった。和尚はちらりとこちらを見た後、机上の郷土資料をまたぺらぺらとめくる。


「『穏月村』という名前の内、『穏』が不確かな存在である『鬼』を。そして『月』の字は『き』という言葉の当て字として変化してきたんですな。すなわち、この村の元々の名は――」

「――"鬼憑おにつき村"」


 その単語を口にすることすら、はばかられた。神社の静かな空気の中に、どこかぴりりとした鋭い感覚が走ったかのように錯覚してしまう。

 深くうなずきながら、和尚はどこか悲し気な眼差しで凛音を見つめる。


「ですが、そんな忌むべき風習をいつまでも繰り返すわけにもいきません。この地で横暴を行う“鬼”を祓うため、古くから多くの“祈祷師”や“僧侶”といった存在が様々な方法を試したようです。けれども、元々この地に根付いていた“鬼”の力は、人間達がどうこうできる範疇を越えていた。それ故に、先人達は“鬼”を様々な手法で封印することしかできなかったようですな」


 次々に語られる荒唐無稽な言葉の数々に、凛音も圧倒されてしまっていた。しかし、最後に和尚は肩の力を抜き、どこか困ったように笑ってみせる。


「とはいえ、どれもこれも実際のところは過去の伝記にのみ登場する、“御伽噺”にすぎません。私もこの神社に仕える身である以上、教養として語り継がれたものの、実際に“鬼”がいたというのはにわかには信じがたいというのが、ここだけの話でしてね」


 和尚の砕けた波長に、張りつめていた空気が一気に緩む。凛音も知らず知らずのうちに全身に巡らせていた力を抜き、思わずため息をついてしまった。


「なんとも壮大な話で驚いてしまいました。ちなみに、その過去の方々が“鬼”を封じた手法というのは、どんなものだったんでしょうか? 祈祷であったり、それこそ古来から続く儀式のようなものですか?」

「それもまた、流派によって様々らしいですね。しかし、なかでも特別な効果を持ったものとすれば、この神社にもいまだに継承されている“護符”の風習でしょう」


 凛音が「護符?」と繰り返す中、和尚はすくと立ち上がった。一度退出した後、彼は件の“護符”の実物を持ってきて、凛音の前に差し出す。

 目の前に置かれたのは、細長い木製の札であった。しかし、一般的な神社で取り扱うものに比べ、いささか特徴的な形状をしている。その独特のシルエットから連想した言葉を、凛音は“護符”を手に取りながら呟いていた。


「これは――“剣”?」


 20センチほどの長さの細い木札は、柄と鍔、まっすぐの刃を持つ“剣”の形をしている。表面には神社で書き込まれたであろう黒い筆文字が刻まれていたのだが、生憎、凛音にもその内容までは読み取ることができなかった。

 木の質感を指先で確かめる凛音に、和尚は大きく頷きながら解説してくれる。

 

「おっしゃる通り。こちらはこの神社に代々伝わる“破魔”の力を込めた札なのです。野山の木を削り出し、儀式の後に一枚一枚、魔除けの呪いを刻むのです。広くは知られていないのですが、今でも正月などに家に持ち帰られる方もおられるのですよ」

「へえ、初耳です。しかし、こちらがその“鬼”と、どのように関係を?」

「今でこそこうして厄除け程度の代物になってしまいましたが、元々はかつて“鬼”に対抗するため、僧侶達が石造りの“剣”を作り上げたのが始まりとされています。象徴などではなく、正真正銘、“鬼”を“斬る”ための武器として祈りを込めていたのだとか」


 なんとも物騒な話に、凛音は思わず手元の木札を見つめてしまった。無論、手元のそれには切れ味など微塵もないのだが、大昔は鉄ごしらえの刃にこの文字を刻んでいたのだろう。


「この神社にはそういった、過去の“鬼”に抗った様々な品々が残されているのです。それこそ、かつて事故によって破壊されてしまった“祠”も、元々は地鎮――すなわち、この村に宿った“鬼”の力を封じ込めるために、先代の僧達がこしらえたものだったらしいです」


 祠――その単語に、再び凛音の意識が覚醒していく。

 咄嗟に、かつて優司から聞き及んでいた、ある過去の出来事が脳裏に蘇っていた。


「それはまさか、かつて春日岳道さんという老人が起こされた、物損事故のことでしょうか?」

「これまた、よくご存じで。そういえば、以前もあなたと似た年頃の男性が、かつての事故について尋ねてこられましたが――」

「ええ。彼は私の友人でして、春日さんの過去の動向について色々と調べていたところなんです」


 “タケ爺”こと春日岳道はかつて、山の中腹にある共同農園に向かう際、車の運転を誤って道端にあった“祠”に突っ込むという事故を起こした。石造りの祠は無残に砕け散り、今となってはそれらの破片と思われる瓦礫の群れが放置されているのみである。

 なにからなにまで、かつて優司がこの神社で聞き取りを行っていた事実と合致していく。しかし、まさか村に古くから伝わる忌まわしき風習と、その“祠”の話までが繋がってしまうとは思いもしなかった。 


 和尚はそれ以上、深い理由は聞かなかった。だがやはり過去の事故を思い返し、その表情が微かに曇ってしまう。


「私が聞き及ぶかぎりでは、あの事故を境に春日さんは精神を病んでしまったと聞いています。全ては偶然の連鎖にすぎないと思いたいのですが、なかにはあの“祠”を破壊した“祟り”だという者もいましてね」

「祟り、ですか。随分と非科学的な概念に思えますけども――」

「ええ。私も神職についてはいますが、だからといって超常的な力全てを肯定するというわけではありませんからね。先程もお伝えしましたように、全ては偶然の産物なのだと考えています。ただ――」


 言い淀んだ和尚の顔を覗き込むように、凛音は「ただ?」と聞き返す。和尚はちらりとこちらを見つめた後、手元に視線を戻しながらゆっくりと語りはじめた。


「ここ最近、どうにも嫌な気配を感じるのですよ。おおよそ、一ケ月ほど前からですか……なんとなくですが、この村全体を妙な“気”のようなものが覆っている。今までと違い、村全体が暗く澱んだ水の底にあるような、不可思議な感覚を肌で感じてしまうのですね」


 非科学的なことを否定しつつも、心のどこかで和尚は自身の肉体――いや、本能が感じ取る不穏な気配に気づいているようだ。

 彼は凛音が手にしたままの“護符”に視線を移し、ほうとため息をついた。


「そういった道具で祓うことができるのならば、きっと簡単な話なのかもしれません。しかし、どうにもこの“気配”はもっと複雑で、どこか“因縁”のような禍々しいものを感じます。過去から続くなにかが、決して消え去ることなくこの土地に根付き、蠢いているような気がするのです」


 最期に和尚は「気のせいだと良いのですが」と、力なく笑って見せた。しかし、凛音は彼の言葉を軽く受け流すことは、到底出来そうもない。

 過去からの因縁――その一端を、既に凛音達は知っている。まだ全貌こそ見えていないが、確実に凛音達の世代と“タケ爺”という存在は、強固な因果でつながっているのだ。


 和尚への聞き込みが終わり、凛音が神社の駐車場に戻ったのは午後6時のことだった。愛用の軽自動車に乗り込み、鞄を助手席に置く。エンジンキーを回し車が唸り声をあげる中、あえて凛音は鞄の中から例の“護符”を取り出し、眺めてしまった。

 良ければ、と和尚が授けてくれたそれを見つめ、思いを巡らせていく。


 点と点が、繋がっていく――始めこそ、村に隠れ住んでいた狂人が、無差別に誰かを殺害しているだけなのだと考えていた。

 しかし、今となっては全てが密接に絡み合い、そして一本の線へと整形されようとしている。


 かつて村を徘徊していた、“タケ爺”こと春日岳道。彼を馬鹿にしていた石田が殺され、そして次から次へとクラスメイト達が命を奪われていく。

 穏月村という閉ざされた空間で、次々に引き起こされる殺人事件。それらはきっと無関係ではなく、すべて一本の線の上に置かれた結節点でしかないのだ。


 春日岳道はかつて、事故によって“祠”を破壊し精神を病んだ。“鬼”を封じるために過去の誰かが作り上げたそれを破壊し、彼は子供達から“鬼”と呼ばれ恐れられる。

 はたしてこれらを、荒唐無稽な偶然と片付けていいものだろうか。カーステレオからお気に入りの洋楽が流れてくるも、凛音の耳にはまるでそのメロディーが滑り込んでこない。


 ため息をつき、再び“護符”をしまおうとした。しかし、バッグの奥でスマートフォンが鳴動しているのを見つけ、慌てて手に取る。画面に映し出された名前――平岡真琴という字面に安心し、応答した。


「どうしたの、真琴。なにか“例の件”で進展があった?」


 凛音の言葉を受け、端末の向こう側の声が少し弾む。真琴はどこか少し興奮しているようで、焦らないように何度も言葉を区切り、とある“事実”を伝えてくれた。

 凛音もそれを黙って聞いていたが、徐々に表情が険しくなってしまう。目を細め、フロントガラスの外――神社の駐車場から見える村の風景を睨みつけながら、慎重に言葉を選ぶ。


「それは随分な“大当たり”ね。私達の予想通り――ってところかしら」


 軽口を叩いたつもりが、反対に気持ちはどこか沈んでいってしまう。予想が的中したことを喜び合いたいのだが、今、自分達が置かれた状況を考えるとそうもいかない。


 とんでもないことになってきた――凛音は密かに真琴と連絡を取り、彼女らだけが立てたある“仮説”を調べるため、それぞれが動いていた。

 凛音は村の過去を調べるため、かつて優司が訪れたこの“穏月神社”に赴き、住職から村の成り立ちや過去の風習についてのデータを収集しなおしていたのである。

 一方で、真琴は警察官という立場を活用し、この村でかつて起こった“事故”の内容を調べなおしていた。


 それはもちろん、“タケ爺”こと春日岳道という老人にまつわるものだった。しかし、凛音が和尚の口から聞いた自動車事故の記録などではない。

 二人が知りたかったのは、その後――春日岳道という老人が水死体として見つかった、もう一つの事故についてである。


 僕達が殺した――殺害された田畑が叫んでいた言葉が、凛音のなかに蘇る。手にしたスマートフォンを思わず強く握りしめながら、電話越しの真琴に告げた。


「ここから先は、皆の力を借りないといけないわね。でも、慎重に動きましょう。もし、私達の予想が正しいなら――恐らく、“タケ爺”はすぐにでも動くはずだからね」


 できることならば、今すぐにでも“核心”に迫りたかった。だが、二人の予想通りに事が運ぶとなれば、恐らくここから先は一手のミスが命取りになりかねない。

 慎重に、しかし大胆に――言葉数こそ少なかったが、凛音と真琴は電話越しに“覚悟”を決めていく。


 短い会話の後、凛音はスマートフォンを切り、ようやくハンドルを握った。ギアを入れ替え、ゆっくりと軽自動車を発進させる。


 何が起こるのか、まるで見当もつかない。だが一方で、村の中で起こっている全ての凶事に終わりが近いのでは、という漠然とした予感が沸き上がってくる。

 

 こんなこと、終わらせないと――涼しい顔こそしているが、それでも凛音は常に心の奥底に激情を秘め、刻一刻と悪化していく村の状況に歯噛みし続けてきた。

 誰も彼もと交流が深かったわけではない。だが、かつて同じ学び舎で育ったクラスメイトが惨殺され続けることに、胸がすくわけなどないのだ。


 軽自動車はぐんぐんとスピードを増し、山から村へと戻っていく。カラスがそこかしこで鳴く声を受け、穏月村は夕と夜の境目へと飲み込まれていった。

 “逢魔おうまとき”の不気味な雰囲気に気圧されないよう、凛音は強くハンドルを握り、流れる景色を睨み続ける。黒一色のシルエットとなった切り絵のような村の姿の中に、あの“老人”がいるのではと、本能的に目を凝らしてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る