第8話 忌歌
閉め切ったドアの前に立ち、平岡真琴は一瞬、気持ちを落ち着けようと深呼吸した。“501号”と書かれた部屋番の下に、黒いマジックで書かれた“彼”の名を確認し、ノックする。
部屋の奥から聞こえた「どうぞ」という声に、すぐさまドアを開き中に入った。病室のベッドに座っていたその姿に、たまらず彼女は声を上げてしまう。
「――優ヤン!」
飛び込んできた真琴の姿に、ベッドに座る優司は目を丸くし驚く。そんな彼にかまわず真琴はドアを閉め、足早にベッドへと歩み寄った。
私服姿の真琴が、しばし病院着姿の優司を見つめる。優司の肉体に所々見える包帯や大きな絆創膏を確認し、彼女の表情が悲痛に歪んだ。
「優ヤン、大丈夫!? びっくりしたんだよ……大怪我だって聞いたから……」
「あ、ああ。心配かけてごめん。真琴だって忙しかっただろうに――」
「私のことなんていいよ!」
優司としては少しでも心配させまいと気遣ったつもりが、真琴に声を張り上げられ、身をすくませてしまった。いつもはあっけらかんとしている真琴の瞳が、潤んでいるのが分かる。
彼女はしばし、押し黙ったまま視線を泳がせていた。だが、すぐに大きく熱いため息を漏らし、がくりとうなだれる。
「良かった、優ヤンが生きてて……意識がないって聞いて……もし、目を覚まさなかったら、って思って……それで――」
彼女は下を向き、顔を見せないように体を震わせる。湧き上がってくる悲痛な感情と、目元に浮かぶ熱い雫をこらえているのだろう。
普段はなかなか見ない、珍しい姿だった。真琴の悲しむ姿に圧倒されていた優司も、彼女が自分のことを心配してくれていることに、なんだか胸が痛んでしまう。
優司はふうとため息をつき、あえて肩の力を抜いた。できるだけ自然体で、困ったように笑ってみせる。
「わざわざ、ありがとうな。ごめん、今回はちょっと“ドジ”踏んじゃったよ。でも、不幸中の幸いってやつさ。どうやらどこも折れてないみたいだし、全身打撲ってことで済みそうだ。もっとも、“これ”が治るにはしばらくかかりそうだけどね」
言いながら、優司は自身の肩を指差す。病院着の首元から、厳重に巻かれた包帯が覗いていた。
真琴は涙を拭き、顔を真っ赤にさせながらも前を向きなおす。その瞳はいつにも増して真剣な色が覗いていた。
「優ヤンも、襲われたんだよね。例の――“タケ爺”に」
問いかけてきた真琴に、優司はなんら躊躇することなく「ああ」と頷いてみせた。
「俺もいまだに信じられないんだ。けれど、あれは確かに“タケ爺”だった。あの恰好もそうだけど、なにより向き合った時のあの威圧感……いや、もっというなら――なにかこう、禍々しい“気配”みたいなものかな。俺が子供の頃、あの爺さんから感じたのとおんなじものだったよ。どこまでも黒くて、深くて――」
言いながらも、かすかに優司の手が震えていた。今もなお、思い出すだけで肉体が激しく拒絶反応を見せてしまう。なんとか深呼吸し、怯える自身の心を落ち着かせた。
「そうなのね……本当にごめん。私がこんなことに、優ヤン達を巻き込まなければ……」
「いいって、そんなの。もちろん、最初は真琴にお願いされたからってのが理由だったけど、今回の一件は俺が望んで深掘りしたことだからさ。それに、そもそも行った先に“タケ爺”本人がいるなんて思わないよ」
「警察の方ではすでに、捜索は開始してるの。だから、遅かれ早かれなにかしら、手掛かりは見つかると思うけれど……」
なおも申し訳なそうに告げる真琴に、優司はできる限りの笑顔を作って「そうか」と返す。表情筋をわずかに動かすだけだというのに、傷を負った節々がチリチリと痛んだ。
つくづく、良く生きていたものだと思う。山の斜面から滑落し、気を絶したかと思ったら、気付けば病院のベッドの上にいたのだ。思えば優司にとって、意識を失うなど初めての経験である。
目を覚ました時には全ての処置が終わっており、優司は何とか一命をとりとめた。医師曰く、全身に打撲を負ってはいたものの、特に骨折など大きな怪我はないらしい。真琴に伝えた通り、“鎌”でえぐられた肩の傷が最も深く、治癒までは時間がかかるようだ。
互いの状況確認していた二人だったが、再度、病室のドアが開く。大きく、重々しい足音に、優司と真琴は同時に振り向いた。
「あ……ひ、平岡さん」
「ぶーちゃん!」
突如現れた大柄な男の姿に、真琴の目が丸くなる。対し、大きな声を上げられたことに驚いたのか、ぶーちゃんこと染谷学はたじろぎ、抱えていた大きなビニール袋を落としそうになってしまった。
二人のやり取りがどこかおかしく、優司は苦笑を浮かべてしまう。軽く手を上げ、戻ってきた学に声をかけた。
「ぶーちゃん、おかえり。悪いな、使いっ走りみたいなことさせちゃって」
「と、とんでもないよ。優司君、動けないんだから。これくらい、どうってことないさ」
笑いながらも学は机の上にビニール袋を置き、病院の売店で買ってきた品々を取り出していく。ペットボトルのお茶にフルーツ味の飴、小袋のチョコレートやプリンなど、いずれも優司が頼んでいたものだった。
笑顔でお茶を渡してくれた彼に、優司は苦笑しながら告げる。
「本当にありがとう、ぶーちゃん。あの時、ぶーちゃんが来てくれなかったら、俺は今頃、ここにいなかったかもしれないな。石田や永友みたいに――今頃、“あの世”に行っていたかもしれない」
優司の口をついて出たおぞましい内容に、学だけでなく隣に立つ真琴も息をのむ。学はどこか物悲しい表情のまま、苦しそうに笑った。
「び、びっくりしたよ、本当に。大きな音がしたから見に行ったら、血まみれの優司君が倒れてるんだから」
学と真琴は病室にあった丸椅子へと腰掛ける。優司が茶で喉を潤す間、真琴が神妙な面持ちで学を見た。
「事の顛末を聞いた時は、さすがに混乱しちゃったわよ。優ヤンが“タケ爺”に襲われたってことはもちろん、それを偶然助けたのがぶーちゃんだったなんてね」
「ぼ、僕も、農場から帰るところだったんだ。店のサンドイッチに使う野菜を、育ててるんだよ。だから本当、ゆ、優司君を見つけれたのは偶然なんだ」
気を絶した優司を発見し、救急車を呼んでくれたのは偶然通りかかった学だった。彼は山のふもとに位置する別の農場から帰る途中、斜面を転がり落ちてきた優司を発見し、救ってくれたのである。
「ぶーちゃんが駆け付けたときには、“タケ爺”の姿は?」
「う、ううん。どこにも、そんなお爺さんはいなかったよ。ただ、もうかなり暗かったから、僕が見つけられてなかっただけかもしれないけど……」
真琴は「そう」と呟き、顎に手を当て思考を巡らせる。優司はほうとため息をつき、真剣な眼差しを浮かべる彼女を見つめた。
「今回の一件で、警察も大人数での捜索をはじめてるわ。いわゆる“山狩り”ってやつなんだけど、今のところ“タケ爺”と思わしき人物の痕跡は見つけれていないのよね」
「あの農園は確か、神社に続く道からしか入れそうになかったよな? 誰か、逃げていくタケ爺の姿を目撃とかしていないのか」
「残念ながら、特にそういった情報はないようね。もしかしたら、野山の中に身をひそめて、警察をまいているのかもしれないわ」
真琴から告げられた事実に、なんだか優司と学は薄ら寒い感覚を覚えてしまう。
穏月村は周囲を野山に囲まれた、過疎化した土地なのだ。その大自然のなかにあの老人が身を隠し、警察の追撃を逃れながら今もまだ、どこかにいる。そう考えただけでも、なんだか生きた心地がしない。
「もし、その老人が山中に逃げていた場合、隠れ続けることは不可能だと思うわ。相手がどんな狂人だったとしても、あくまで私達と同じ人間――それこそ“獣”のように野山の中で暮らし続けるなんて、至難の業よ」
「そうだと良いんだがな……けれど、あの爺さんならそれもできるんじゃないか――なんだか、そう思ってしまう嫌な“凄味”みたいなものがあったんだ。少なくとも俺に襲い掛かってくるあの姿は、まさしく“獣”のそれだったよ」
ありえない――真琴もそう笑い飛ばしたかったが、あいにく、軽々しく笑顔を浮かべることはできなかった。優司の言葉や態度から、“タケ爺”という存在の人間離れした存在感が伝わってきてしまう。
はたして、彼は何者なのか。
本当にかつての怨恨から、殺人を繰り返しているのか。
優司と真琴、そして学の三人はそれからも他愛のない会話をしばらく続けていたが、病室を包む重々しい空気が晴れることはない。窓から差し込む陽の光すら、三人の肉体から染み出した感情によって淀み、輝きを失っているかのようだ。
外は随分と風が強いらしい。ぎしぎしとガラスが軋むたび、誰しもが反射的に窓を見つめてしまう。
この村の中にまだ、“タケ爺”がいる――そんなシンプルな答えを、三人は幾度となく心中で噛みしめ、反芻してしまった。
***
優司のお見舞いを終えた真琴は、その足で単身、村唯一の“図書館”へと足を運ぶ。夕暮れ時になり館内は閑散としていたが、それでもちらほらと利用者の影が浮かび、仄暗い室内の光景はどうにも不気味でならなかった。
だが、部屋の片隅――司書専用のカウンター席に“彼女”を発見し、少しだけ肩の力が抜ける。向こうも歩み寄ってくる真琴の姿に気付いたようで、視線を手元の資料の束からこちらへと向けてくれた。
「ごめん、凛音。遅くなっちゃった!」
「いいえ、全然。それより、優司君はどうだったの?」
図書館の司書にして、染谷学の妻・凛音はにっこりと笑い、問いかけてくる。真琴は近くの席に腰掛け、バッグを下ろしながら答えた。
「全身打撲はしてるけど、ひとまずは大丈夫そうだよ。肩の怪我はかなり深そうだったけどね」
「そう。たしか、“鎌”でやられたのよね? じゃあ、やっぱり――」
「うん。聞けば聞くほどに、優ヤンを襲ったのは例の“タケ爺”って人で間違いないみたい」
真琴の表情が少しだけ曇るが、凛音は冷静に「そう」とだけ告げ、視線を手元の資料に戻した。背筋を伸ばしたまま椅子に腰かけた彼女の姿は、やはり幼少期の根暗なイメージとは随分と風変りしている。
真琴はバッグの中からスマートフォン取り出し、そこに書き記した内容を手早く凛音に伝えていく。そしてその内容を、凛音は時折視線をこちらに向けながら、黙って聞いていた。
こうして図書館に足を向けたのは、真琴の思い付きでしかなかった。優司の安否を確認し一安心はしたものの、彼から告げられた事実について一人で悶々と考えているうちに、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
結果、真琴はクラスメイトの一人・染谷凛音に、今回の一件を相談してみることにしたのである。
「なるほど。優司君の証言から察する限り、その“タケ爺”って人、明確な殺意を持って襲い掛かってきてるわね。それでいて、優司君を逃がさまいとする狡猾さもしっかりと秘めてる」
「ええ。一見すると狂ってるように見えるけど、しっかりとした知能犯っぽいところがあべこべで混乱しちゃうのよ。なんとなくだけど、優ヤンが一人になるタイミングをうかがっていたようにも見えるしね」
「ありえるわね。彼が襲われた場所――あの共同農園はいわば袋小路になってるから、逃げ場がないと分かっていて追い詰めたのかもしれないわね」
凛音は手元の資料をいくつかまとめながら、「それにしても」と意味深にうつむく。真琴はすぐさま、彼女のその意味深な言動を問いかけてしまった。
「どうかしたの? なにか、気になることでも――」
「いえ。その老人――“タケ爺”は、檜山君を襲う前に“歌”を歌っていたのよね?」
真琴は一瞬、その質問の真意を汲み取ることができなかった。だが、手元のメモを見つめ、たどたどしく首を縦に振る。
「ええ。優ヤン曰く、なんだか不気味な“歌”を歌いながら、姿を現したみたいね。その声が今でも、トラウマみたいに耳に焼き付いてるらしいよ」
「その“歌”の内容って、分かったりするかしら?」
真琴はこれまた一拍遅れ、「ああ」と自身のスマートフォンを差し出す。凛音はそこに記されていた内容――真琴が優司から“聴取”した内容に目を通し始めた。
「優ヤンもうろ覚えではあるらしいけどね。けれど、なんだか妙に耳にこびりつく歌詞だったみたい」
しばらく、凛音はそこに記された文字列――“タケ爺”が口ずさんでいたという“歌”の内容を見つめていた。
真琴が首を傾げる中、唐突に凛音が口を開く。
「『雷聞いたら出ておいで。天の御神の言うとおり。五つの夜なべに輪をこさえ。怪しい者皆、吊りましょお。鬼が入れば吊りましょお。赤子も男も吊りましょお。息が無いなら首落とそ。落として並べて、捧げましょ』」
突如彼女が口走ったその仰々しい単語の羅列に、真琴はギョッとしてしまう。凛音は画面を見つめたまま、どうにも険しい表情を浮かべていた。
「し、知ってるの、凛音?」
「これ、この村に古くからある伝承の歌ね。私達が生まれるよりも遥かに昔――それこそ、数百年前の古文書におんなじ歌が記されていたわ」
「数百年? あんた、そんな古い資料のこと、良く知ってるね……」
「昔から歴史が好きだったからね。それこそ、この図書館の隅に眠っているあれやこれやも、自分なりに何度も解読してきたわ」
真琴が「ほえ~」と間の抜けた声を上げる中、凛音はなおも“歌”の内容を睨みながら続ける。
「この穏月村には元々、“人身御供”の文化があったの。いわゆる、“生贄”っていう文化ね。大災害や飢饉が起こる度、それを“神”の仕業だとして、静まってもらうために人間の命を捧げたのよ」
「生贄ですって? そ、そんな野蛮なことが、この村で?」
「もちろん、まだ文明が根付く前の、かなり原始的な時代の行いね。それ自体はすぐに廃れちゃったけど、その内容を“歌”として残したのがまさにこれなのよ」
凛音の口から語られたとんでもない事実に、なんだか図書館内の温度が少し下がったような錯覚を覚えた。たまらず真琴は周囲を伺うが、相変わらず図書館の中には数名の利用者の影が見えるのみだ。
まさか、どこかに“タケ爺”が潜んでいるのではないか――ごくりと喉を鳴らす真琴に、凛音はなおも毅然と解説してくれる。
「しかも、穏月村にはどうも奇妙な“風習”があったみたいでね。というのも、誰も彼もを“生贄”にしていたわけではないの。どうやら、“生贄”になるべき人間を選別して、その人達を“首吊り”、あるいは“斬首”することで神への供物としていたみたいね」
「うげぇ、まじで……け、けど、その“生贄”になるべき人間、っていうのは?」
「はっきりしたことは書かれていないけど、どうやらなんらかの“精神疾患”を患った人を対象としていたみたいね。恐らくは気を病んでしまった人を間引くため、誰かがそういう口実を用意した可能性も大だけど」
なんとも胸糞の悪い話である。いくら文明が遅れていたとしても、いわゆる“口減らし”のために弱い人種を選別し、そして理由をつけて“生贄”として処分していたなど。現代社会を生きる真琴からすれば、正気の沙汰とは思えない蛮行である。
「けれど、どうしてその“タケ爺”って老人が、そんな古い伝承にしか登場しない歌を知っているのかしら。私みたいな物好きでもない限り、知り得ない情報よ」
「お年寄りの知恵、ってやつかな? ほら、代々受け継がれてる、昔話みたいな感じの」
「そうともとれるけど、それにしたって内容が内容だからね。当時、この村で起こっていたことは後世の人々からすれば、隠し通したいことばかりだろうし」
言われてみれば、わざわざ“生贄”などという過去の風習を、後世の人々に語り継ぎたいなど思いもしないだろう。凛音の言う通り、そんな太古の忌まわしき記録を、“タケ爺”という老人が知り得ていたこと自体が妙に思えた。
どこか不穏な空気が流れる中、凛音はようやく真琴を見つめる。静かで鋭く、それでいてどこか険しい色がその瞳の中心に渦巻いていた。
「私は昔からオカルトが好きだったけど、そのほとんどはただのフィクションで、人々を怖がらせるための作り話でしかなかった。けどね、その中には時々――常識では理解できないような、“本物”としか思えない何かが潜んでいることもあるの」
まっすぐ告げられたその一言が、真琴の心臓を鷲摑みにしたかのようだった。気の知れたクラスメイトを前にして、なぜか真琴の全身を冷たい感覚が貫き、駆け抜ける。
咄嗟に言葉を返すことができない。呼吸を止め、瞬きすらできずに前を向く真琴に、真剣な眼差しのまま凛音は告げた。
「その老人――“タケ爺”は本当に、恨みなんてものだけで殺人を繰り返してるのかしら? もしかしたらもっと、私達の知らない“なにか”がそこにあるような気がするのよね」
なにもかも、所詮は憶測でしかない。だがそれでいて、凛音のその一言が今回の一連の事件に隠された“核”の部分を示唆しているようで、真琴はただ戦慄する他なかった。
この村で、なにが起こっているのか。
“タケ爺”は一体、何が目的なのか。
真琴も思わず、目の前に置かれた自身の端末――そこに並ぶ、“歌”の一つ一つを眺めてしまった。
一度たりとも、その老人に出会ったことはない。
だがそれでも、耳をすませば“彼”の抑揚のない掠れた歌声が、どこかから響いてくるような気がしてならなかった。
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