添い寝→おはよう

 はて、一体僕はどうして寝間着姿でお嬢様の部屋の前に、それもこんな夜の時間に立っているのだろうか。


 今日は確か王子がやって来て、それで僕が女の子にされてしまって……ああ、それから色々あってお嬢様と一緒に寝ることとなったのだった。

 いやなにゆえ? 何故? なんで? どうして?

 思い返してみても何が何だかわからない。


 お嬢様と一緒に寝る。そんなとんでもない出来事があっていいのか? もしかして僕は夢でも見ているのか?


「いった」


 頬をつねれば確かな痛みがある。夢ではない、と。なるほど。


「しかしまあ、不思議な感じだなあ」


 僕は女の子になってしまった。だから夜にお嬢様の部屋の前にいても、誤解を心配する必要がない。

 昼間はあれこれと考えることが多くてそれどころではなかったけれど、こうして男の時にはありえなかった状況に立って初めて実感が湧いてくるものだ。


 これまで夜にはなるべく屋敷を歩かないようにしていた。

 それは女性しかいないこの屋敷で事故を起こさないための自主的な縛りだ。

 もしいつか僕が男だとばれた時、他の人が傷つく要素は少ないに越したほうがいい。

 男でありながら女としてこの屋敷にいる以上、そのいつかは信頼が疑念に変わる時だ。

 その時に夜お嬢様の部屋に男が入っていっていたなどと噂になれば困るでは済まない。

 夜はお湯を貰って自分の部屋で体を拭き、出歩かずにさっさと寝る。人目を避ける時間。

 僕にとって夜は肩身の狭い時間だった。


 翻って今はどうだろうか。

 まだ人目を気にしないではいられないし、心に引っかかるものはある。

 けれど男であるから心配していた問題は起きえなくなった。

 全体で見れば、メリットの方が大きいだろう。


「これからどうなっていくのかな……」


 僕は男に戻ることが出来るのだろうか。

 仮に戻ることが出来たとして、戻りたいと思うのだろうか。

 ふと思い浮かんだ疑問の答えはすぐには思い浮かばなかった。

 思い浮かばないまま、目の前の扉が開かれるとお嬢様が顔を覗かせた。

 シルクのネグリジェという寝間着に、ナイトキャップで髪をまとめたお嬢様の姿。

 それは僕があまり知らないお嬢様の一面だ。


「あ、エスタ。どうしてそんな所でぼうっとしてるの?」

「ああ、いえ。申し訳ございません、お嬢様に扉を開けさせてしまうなど。こちらから来訪を告げるべきところですのに」

「い、いいよそれくらい。私だって扉ぐらい開けられるし、それに……なんだか落ち着かなかったから」

「う、ぐふっ」

 

 お嬢様はナイトキャップから垂れた星型のフェルトアクセサリーをその指先で弄びながら呟く。

 その姿はやはりと言うべきか、僕の心臓を撃ち抜いた。


「ど、どうしたの? 大丈夫?」

「大丈夫です。いつもの発作、ええ、いつものことですから」


 お嬢様が可愛いのは永劫不変の事実なのだから、その輝きを見た人の心がやられるのも当然なのである。

 どうしよう、この素晴らしさは僕の心の中だけに留めておくには惜しく、理性を総動員してもあふれ出してきそうだ。

 しかしだからといって多くの人に知らしめれば、王子のような良からぬ輩がこの天より降ってきた宝石のような美しさを狙うやもしれない。

 いや間違いなく狙うだろう。考えるまでもなく目に見えた結末だ。

 だからやっぱりお嬢様のことは知る人ぞ知る、という範囲に留めておくべきなのだろう。


 頑張れ僕の理性。血涙を流してでも踏みとどまれ。


「と、とりあえず中に入って」

「失礼いたします」


 促されて部屋に入れば、ぼんやりと灯ったランタンの光に迎えられる。

 お嬢様の好きな鈴蘭の香りが漂う部屋は、貴族のお嬢様としては質素なものだ。

 最低限(最低限といってもパーティ用、お茶会用など様々な衣装を使い分けるのでそれなりの数がある)の衣装を詰めたクローゼット、昔から使っている化粧台、本棚、そして大きめのベッド。

 あまり多くを望まないお嬢様の気質が、部屋にも表れているようだった。

 もっともこの部屋に立ち入る人間がほとんどいないように、他の貴族共はその気質を全く理解せずに自分たちの価値観を押し付けてくるのだけれど。

 そう、昔からお嬢様は外野に煩わされてきた。勝手に押し付けられる理想と、星見の御子という欲してもいないレッテルによって。


「? どうしたの?」

「ああ、いえ。この部屋も夜だとまた違った雰囲気になるものだなと」

「ふふ、そうね。エスタは日の出ている時間にしかこの部屋に入らないものね」

「誤解されては事ですからね」

「別にいいのに。この屋敷の誰も、あなたを責めたりしないの」

「そういうことではないのです」


 お嬢様に全幅と言っていいほどの信頼を頂いている。それは喜ばしいことだ。

 けれど過ちというのはどこまで行っても起きうるものであり、一度で全てを変えてしまう。

 結局僕も……。


 化粧台に立てられた鏡を見る。

 そこにはいつものメイド服とは違う、ネグリジェを身に着けた僕が映っている。

 腰まで伸びた黒髪はお嬢様と対照的な色合いだ。その艶がいつもより増しているように見える。

 髪と同じ色の黒い目は、ほんの少しぱっちりと開いて見えるようになっただろうか。

 詰め物や服で誤魔化していた体型も、今では華奢な女性そのもの。

 そして胸元には服の上からでもはっきりと陰影が出来るほどの膨らみがある。


 改めて見てみると、本当に女の子になってしまったのだと実感させられる。

 実利的にはむしろ面倒が減って嬉しい限りなのだけれども、やはり心はすぐに追い付かない。

 目の前にいるのは果たして本当に自分なのだろうかと思わずにはいられないのだ。


「エスタ、こっち」

「はい……うっ」

「?」


 呼ばれて振り向けば、ベッドに腰掛けたお嬢様が反対のスペースをぽんと叩いて僕に座るよう促していた。

 それはつまりいよいよお嬢様と同じ寝床で密着して過ごす時間が来るという事であり、覚悟していたとはいえ凄まじい破壊力を持っていたのである。

 いや違う、これは寝床を共にするなどといういかがわしいものではない。いわゆる女子会、パジャマパーティ、夜の花園だ。


「失礼します」


 心の中で穢れた思考が過ったことを懺悔しながら座る。

 だが試練はここで終わりではなかった。


「ん、しょ。ね、一緒に横になってお話しよう?」


 次にお嬢様はベッドと布団の隙間に体を潜り込ませると、布団を持ち上げて誘ってきたのだ。

 どことなく色っぽい雰囲気を思わせるその仕草に僕の意識は焼かれる。

 そして気付いた時にはその空間に入ってお嬢様と至近距離で見つめ合っていたのだった。


 あ、うん、これはもう、無理だ。

 幸せで死ぬ。

 心が眩しい何かではちきれそうになっている。


 ぱちぱちと瞬きしながら綺麗な相貌を見ていると、不意にお嬢様はにヘらと笑った。


「ふへえ。昔からこういうのが楽しみだったの。仲の良い子と同じベッドに潜って、ひそひそお話をして。楽しいな、幸せだなって思いながら眠るの。時には楽しすぎて朝まで話しちゃったり……それがエスタとできるようになるなんて」


 夢みたい、と。

 心の底から嬉しそうに言うのだ。

 僕は言葉を失って、そして瞬きを忘れてしまった。


 お嬢様が望んでいるささやかな幸せ。子どもらしさが滲むそれは、どれほどお嬢様が望んでも手に入らなかった物。

 立場が違った。性別が違った。それらを無視して命令することもできたろうに、お嬢様はしなかった。

 今日は性別が変わって、ついでに罰という大義名分が出来ただけだ。

 あの王子の気が変われば僕はまた男に戻されるかもしれない。そんな可能性を思えば今一緒に寝ることも避けた方がいいのだろう。

 

 それでも今くらいは。

 これ以上ない機会である今くらいは、この粉雪のような儚い幸せを温めよう。


「いいですね。今日は朝まで語り明かしちゃいましょうか。ケイトさんには怒られちゃうかもですけど……」

「その時には一緒に怒られるの。二人とも悪い子だねって。たまには私だって悪いことをしてみたいの」

「まあ、お嬢様がそんな悪い子だったなんて」

「あら、エスタは知らなかった?」

「いいえ? 昔はお嬢様が僕の話を聞いてくれなくて困りましたから。実はお嬢様が根っこの部分ではとても強情だと知っている身としては今更です」

「もう、本当に初めの頃の話じゃない! いい加減に、忘れてよ」

「残念ですが、人の記憶はそう都合よく消せるものではないので」

「全然、残念じゃなさそう!」


 ひそやかに笑いながらぽふ、とお嬢様が僕の胸に頭突きをしてくる。

 お嬢様としてはちょっとした悪戯なのかもしれない。

 確かに痛みは全くない。羽でも降ってきたかなという程度の感触だ。

 だが胸から直接摂取するお嬢様成分はあまりにも過剰で、僕の心臓は致命傷を負っていた。

 お嬢様成分は適量を摂取すれば寿命が延びるが、大量摂取すると幸福のあまり死ぬ。

 僕は後何度死ねるだろう。


「むう、エスタの胸、大きい……」

「僕としては動きにくくて困るのですが。突然のことで下着なんて用意していませんし」

「下着!」


 良いことを閃いた! そう言わんばかりにお嬢様の声色が明るくなる。


「そう、エスタは下着どうするの!?」

「どうするも何も。これまでと同じように布で締め付けようかと。詰め物をしない分勝手は違いそうですが大丈夫でしょう」

「駄目よそんなの! せっかくこんな、こんないい、む、胸に……なったんだから。気を、遣わないと」


 ところで、というべきだろうか。

 喋る傍らでお嬢様は僕の胸に興味深々と言った様子で、少し深く呼吸をしたりさりげなく頬ずりしたりしている。

 お嬢様の意外な変態性……いや、母君を早くに亡くされたから母性を求めているのかもしれない。

 それにお嬢様のしたいことにはこういう事も含まれているのだろう。

 子どもっぽい部分が見られたものだと納得することにした。

 例えお嬢様が本当にそういう嗜好を持っておられたとしても、全く問題ではない。

 僕の性別が変わったことでお嬢様がより幸せになるだけのことだ。


「だから明日はエスタの下着と服を選ぶね。その、ぴったりの物はすぐには作れないから、間に合わせになっちゃうけど」

「選ぶと言っても……どこででしょうか」

「それは街で……」

「お嬢様、僕は王子にとって女から男になった人間です。そんな人間が女物の下着を選びに行くのはまずいでしょう」

「あっ」

「それにフランク様の方針次第では僕の存在を外部に知られない方がいい状況もあり得ます。返事が届くまでは人に見られないよう外出も控えたほうが良いでしょう」

「そんな……」


 心底残念そうに言うものだから、すぐにフォローしなければと焦ってしまう。


「まあですから、状況が落ち着いたら一緒に街に行きましょう」

「ほんと!?」

「ええ、本当です」

「やったあ!」


 むぎゅ、と。

 お嬢様はとうとう胸に顔を埋めるどころか全身を使って抱き着いてきたのだった。

 可愛らしくて仕方がない。死ぬ。


「むふう、体全部柔らかい……本当にエスタ、女の子になったんだね」

「そうですね。突然のことで実感はあまりありませんが」

「そっか……」


 それだけ聞くとお嬢様は急に黙って、沈黙が流れた。

 微かに聞こえるのはお嬢様の深い呼吸の音ばかり。

 そうして暫く密着したままでいると、ねえ、とお嬢様が切り出した。


「エスタは男の子に戻りたい?」


 胸元でくぐもったその言葉は不安げだった。

 やはりお嬢様にとっては気にならないではいられなかったのだろう。

 けれど聞いてしまえば、僕がどう返事するかも大体予想がついているから聞きづらかったのだ。

 お嬢様は自分の為に僕が女のままあろうとすることに、罪悪感を抱かずにはいられないから。


 それでも聞いてしまうのがお嬢様の優しさで、答えが決まっているのが僕の意志だ。


「全くです。むしろ面倒が減って助かります。困っているのはあの王子のせいであって、別に女の子になったからじゃありません」

「そんな簡単に捨ててしまえるものなの?」

「もともと捨てていた物ですよ。お嬢様が僕の助命をフランク様に願ったあの日に、エスタ・ネイフという男は死んだことになったのです。その時からお嬢様の隣にいるのはエスティリアというとっても遠い親戚の女の子。そうでしょう?」


 目の前にある頭一つ分小さな身体を抱きしめる。

 温かくて、柔らかくて、か細くて、少し震えている。

 この頼りない人に、僕は命を救われたのだ。


 なぜならば。

 六年前に起きたお嬢様誘拐事件、その実行犯の中には僕の両親もいたからだ。

 公爵家の令嬢、それも星見の御子を誘拐したとなれば一族連名で処刑されるほどの大罪だ。

 事実僕の親戚は全て処刑されてしまった。


 僕は事件の時お嬢様と一緒に攫われて、大人しくしていればお前も安全に逃がしてやると両親に言われたわけだが……。


「そう、だけど。でも……」


 お嬢様の手が僕のお腹に触れる。そこには事件の時にできた刺し傷の痕がある。

 お嬢様を庇ってできた、一生消えることのない名誉の証だ。


 誘拐犯たちの目的はお嬢様を誘拐し、未来予知の力を手に入れること。もしそれが叶わないとなれば抹殺することの二つだった。

 全ては魔王復活の障害を排除するために。

 お嬢様は前者の誘いを拒んだ。そして僕は命を捨てる道を選んだお嬢様を凶刃から庇った。


「僕はあの時のことを一切後悔などしていません。むしろ誇らしいくらいです」


 薄れゆく意識の中で、助けに来たフランク様へ僕を助けて欲しいと縋り付いて泣き叫ぶお嬢様の姿を覚えている。


「素晴らしい主にお仕えできているという誇りの前に、僕が男であるか女であるかということは意味を成しません。大切なのは心なのですから」


 涙をこらえながらも毅然と誘いを断る姿も、一人の従者のために必死になる姿も。

 すべてが眩しい物に見えたのだ。

 その時からこの心はもうお嬢様に奪われていて。


 病室で目覚めた時フランク様にエスタとして死ぬか、名前を捨てて生きるかを迫られた時も迷いはなかった。

 

「僕の心は変わらず、お嬢様の傍にあります」

「エスタ……」

「それともお嬢様は僕が男の方が良かったですか? そうであれば、何としてでも元に戻りますが」

「……ううん、大丈夫。私がただ、何もわかってなかっただけだって、わかったから」

「それはどういう」

「エスタはエスタなんだって。あの時私を守ってくれた、勇敢な人」


「だから私にとって、とても大切なの」


 そう言ってまた一段と強く抱きついてくるお嬢様に、温かい気持ちが際限なくあふれ出してくる。

 本当に、どこまでも愛おしい主だ。

 そしてじゃれるように抱きしめ合って、他愛ない話もして。


 朝を待つことなく睡魔に負けたお嬢様を見ながら、僕も眠りに就いたのだった。


 *


「……すた。……えすた!」


 優しい声がする。身体が揺れている。

 目を開ければそこには寝ぼけ眼のお嬢様がいた。


「おふぁよう、えすた」


 窓から差し込む朝日が後光のように見えた。

 これが、朝チュンというものか……。


「しゅわあ」

「えすた? ……えすた!?」


 僕は二度目の眠りについた。


 *


「二人揃って何をしているのですか全く……」

「「ごめんなさい……」」


 結局その後、僕の睡魔が移ったかのようにお嬢様も二度寝を敢行したらしい。

 お嬢様を起こしに来たケイトさんの雷によって起こされ、身だしなみと服装を整えた後にこうして二人揃って怒られている。

 そういえば二人で怒られるのもやってみたいとお嬢様は言っていたっけ。

 そう思って横目でお嬢様を見れば視線が合って、お茶目に舌を出す姿を見せてくれた。

 あ、かわ。


「聞いているのですか!」

「「はい!!」」


 僕達は怒られているのだった。

 背筋を正して姿勢を整えるも、ケイトさんの怒りは収まらぬようだった。

 ……半分羨ましいという私怨が混じっていそうな気もするけれど言わぬが吉だ。


「大体ですね、一緒に寝るからと言ってあんなに抱きしめ合ってうら、けしからんことで」

「失礼します!」


 キツツキのような慌ただしいノックと共に、メイドが部屋に入ってくる。

 それは常ならばあり得ない失態だった。少なくともこの屋敷の使用人で、お嬢様がいる部屋へこのように入室するなどということは普通ない。

 そしてここの使用人は滅多に変わらず、入ってきたメイドもよく見かける方。

 つまり常ならざる自体が起きている。

 勢いのまま怒鳴ろうとしたケイトさんも、その様子を見て何かを感じたのか一瞬で切り替えた。

 

「……何事ですか?」

「そ、それが……」

「邪魔をする」


 メイドの後ろから現われたのは、白を基調とした騎士服に身を包んだ男だった。

 一目でわかる研ぎ澄まされた雰囲気。理知的な白狼の姿を一瞬幻視させるその男は、部屋に入るなり告げた。


「第一騎士団長アルフレド・エス・キンドムだ。ザック第三王子の暗殺容疑でこの屋敷を捜査させてもらう」

「ザック……様、が?」

 

 お嬢様が顔を蒼褪めさせる。

 それを射抜くように見据える騎士団長に、僕は嫌な予感を感じずにはいられなかった。

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