お話→尊死

「ほあたぁっ!」

「ぶべら!」


 強烈な衝撃で目が覚めた。

 頭に雷でも落ちて来たかのような痛みと鈍い音、それはまさしく霹靂だった。

 一体何が起きたのか。僕は確かお嬢様のあまりの尊さで天へ召されて……。

 痛みが響いている後頭部をさすりながら状況を思い返せば、記憶とさほど変わらぬ光景が広がっていた。

 変わっている所と言えば、お嬢様が目を垂れさせてこちらを見ている点と、先程までいなかった人が一人増えていることだ。


「エスティ、あなたはいつになったらお嬢様の前で突然気絶する癖が無くなるのですか?」

「ああケイトさん、申し訳ございません。お嬢様があまりにも可愛らしかったものですから、つい」

「……なら仕方がありませんね」

「え、ええ!? 仕方がないの?」

「ないのです」


 お嬢様の疑問をきっぱりと切り捨てた眼鏡の女性。

 僕よりも頭一つ大きな背に細い体はスレンダーと言う言葉が似合うだろう。無駄一つない動作に鋭い目線からは彼女がデキる女性であると感じられる。

 彼女はケイト、この屋敷のメイド長だ。僕なんかより何倍も優秀で、お嬢様の乳兄弟。

 もしお嬢様が僕を選んでいなければ、お嬢様の傍仕えは間違いなくこの人であっただろう。


 ケイトさんは怜悧な見た目に見合うように厳しく、僕は何度彼女の鉄拳の餌食となったか数えきれない。

 今僕の意識を一瞬で覚醒させたのも、小石程度なら粉砕してのけるその拳によるものだ。

 骨が砕けず後遺症も残らない、しかし泣くほど痛いという絶妙な力加減。

 これでも僕がうっかり死ぬとお嬢様が悲しむという理由で手心を加えられているのだという。

 そう、僕の命よりもお嬢様の心のほうがケイトさんにとっては尊いのだ。

 

 要するに、だ。

 ケイトさんもまたお嬢様を信奉する一人であり、天に召された僕の気持ちをわかってくれる人だ。

 僕は知っている。ケイトさんがお嬢様の可愛さで心がいっぱいになった時、彼女は別の部屋で鼻血を吹いていることを。

 僕と彼女は同僚であり、お嬢様を愛でる同志でもある。

 そんな彼女だから、さっと手の甲を払いながら僕の失態を見逃してくれるのだった。

 

「それで、一体何があったのですか?」

「あーっとですね……」

「エスタが女の子になっちゃったの」


 どう伝えた物か言葉を濁していた僕の横から、お嬢様が結論だけを告げる。

 するとどうなるか。勿論男の子が女の子になるなど簡単に信じられるはずもなく……。


「なるほど。それは素晴らしいことですね」

「ケイトさん!?」


 何ということだろう。信じられるを飛び越して称賛されてしまったではないか。

 思わず叫ぶように名前を呼べば、ケイトさんはむしろお前が何を言っているんだという顔で首を傾げた。

 

「なんですかエスティ。お嬢様が仰ることに疑いを挟む余地もないでしょう。大体あなたは元から男であると信じられないくらいそのメイド服が似合っているというのに、どうして男などになっていたのですか。余計な物が切り取られてお嬢様にとっても、我々にとっても都合の良いことです」

「容赦ないですね!?」

「実際のところ性別が変わったこと自体は問題ではないのでしょう? あなたにとっては、演技だったことが本当になる。我々にとっては何も変わらず、お嬢様はあなたにより安心して接することが出来る。なによりあなた自身は、自らが男であることにあまり意味を見出していなかったでしょうに」

「それもそうなんですけどね……」


 核心を捉えた言葉ではあるのだが、こうもあっさりとした反応だとそれはそれで怖い。

 ケイトさんが言っていることは間違いではない。

 僕はお嬢様と出会った八年前から、ほぼすべての時間をメイドとして過ごしている。例外は湯あみの時くらいだ。

 僕が男である事を知っているのはこの屋敷ではお嬢様とケイトさんだけ。

 何故そうしているのかといえば、一つは男性が苦手なお嬢様のため。もう一つはエスタ・ネイフという男はからだ。

 この屋敷には当主様の御意向で僕以外全員が女性なので、ばれるとこれまた厄介であるという事もあるにはあるがこれはおまけのような物。

 

 だから対外的には僕はエスティリアという、当主様の隠し子として産まれた女の子となっているのである。

 ケイトさんが僕をエスティと呼ぶのはそのためだ。

 周りの人に気を遣ってもらってまで僕が女性として生きていかねばならなくなったのは、六年前に起きた事件のせい。

 お嬢様の男性恐怖症が決定的になり、エスタ・ネイフという男が死んだ誘拐事件。

 僕達にとってそれはどこまでも忌々しい記憶で、同時に全てをお嬢様に捧げると決めた契機。

 

 そんなわけで、僕は自分が男であることをどちらかといえば不便に思っていた。周囲に女性しかいない中で、男だとばれないように気をつかい続けるのは面倒でしかない。

 何よりお嬢様は僕が男であることをふとした瞬間に思い出して、悲しそうな顔をするのだ。

 例えば手が触れそうになった時に一瞬手が縮こまり、その後意を決して恐る恐る触れてくるなど。

 そのような時にはお嬢様が僕を相手に男性恐怖症を克服しようとしているのが嬉しくもあり、また自分がお嬢様を怯えさせる男であることに罪悪感も感じるのだ。

 

 そう考えれば女性になったこと自体は全く問題ではない。

 問題なのは、これがもたらされた経緯だ。


「こうなったのがザック王子が持っていた神代魔道具アーティファクトによるものでして」

「あの豚が……」

「豚はいくら何でも酷すぎるんじゃないかな」

「「いいえ、あいつは豚で結構です」」

「あ、あはは……」


 王子の名を聞いた瞬間ケイトさんの目が絶対零度の殺意を光らせる。

 聡明な彼女のことだ、面倒事の気配も察してくれたのだろう。少しお待ちなさいと言って屋敷に戻っていく。

 恐らくは庭園の人払いを延長することと、他のメイドさんたちへの指示を先に済ませてしっかりと時間を確保してくれている。

 そして十分と経たず戻ってきたケイトさんに、僕は先程あった出来事について説明するのだった。


 *


「なんという……」


 額を抑えて天を仰ぐケイトさん。その気持ち、とても分かります。

 話を一旦まとめるとこうなる。

 

 ザック王子はお嬢様の男性恐怖症改善にかこつけて、傍仕えであるメイド(僕)を性転換させた。

 そのため僕は男になっているはずである。

 しかし実際には僕は男であったため、女性になってしまった。


 なお目撃者がいないためザック王子を訴えることもできず、仮に訴えたところで身分の差によってどうにもならない可能性が高い。

 相手も相手で他の貴族の屋敷で神代魔道具を使用するなど前代未聞なので公言はできないだろうが……。

 しかし次に王子が来たとき、男になったはずの僕がまだメイドとしていてはおかしなことになるだろう。

 男にしたはずなのになぜ、と。

 不審に思った彼らが応えに行きつくと非常にまずい。

 何がまずいって、お嬢様の立場も僕の命も危うくなる。それほどに僕が男であるという事実は不都合を孕んでいる。

 

 一方で男としてここに居続ければ相手の思惑通りになってしまう。

 男性恐怖症など嘘ではないかと言われた時の反論が難しい。

 当然あの屑はこれ幸いとお嬢様は男性恐怖症ではないと流布して婚約の外堀を埋めに掛かるに違いない。

 そしていずれは婚約が実現してしまう。


 星見の御子という御伽噺がある。

 それは未来視を出来る女の子が、人々を滅亡から救いこの国の初代国王に仕えたというきらびやかなお話だ。

 遠い昔の、実在すら疑われる寓話。

 そしてこの国の貴族の間にだけ、星見の御子の血脈が現代も続いていると知られている実話。

 

 星見の御子の子孫、それこそがお嬢様のアリフレタ公爵家であり、お嬢様は限定的にだが未来を視る力を持っている。

 だからお嬢様は望んでもいないのに星見の御子という肩書を背負ってしまった。

 

 そして星見の御子に伴侶として選ばれれば、未来視の力で国を繁栄させることが出来ると信じてやまない人間たちがいる。

 婚約が成立すれば、そういった貴族が第三王子の派閥に就くのだろう。

 それが例え虎の威を借るに過ぎないとしても。

 未来視の力が、言葉ほどに素晴らしい物でなかったとしても。

 

 本当に、腹立たしいほどに悪知恵だけは回る王子だ。

 あんな奴にお嬢様を渡すくらいなら死んだ方がましだ。いや、死んでも渡さない所存だ。


「というわけで、僕が不覚を取ってしまったためにお嬢様の立場が悪くなってしまいそうです。つきましてはお暇を頂きたいのですが」

「いやっ!」

「ですがお嬢様、このままですとあの豚との婚約がいよいよ現実味を帯びてきてしまいます」

「それも嫌、だけど……エスタを犠牲にするのはもっと嫌!」

「お、お嬢様!」


 感動のあまり抱き着いてしまいそうになる。

 落ち着け、僕は男なのだからお嬢様に抱き着くなど言語道断……あれ? 今は女性だっけ。ならば抱き着いても……いやいやそれでも主に抱きつくなんて許されるはずが、ああでもこの溢れ出る感情を伝えるには全身全霊を使わねば足りない……! ……ぬいぐるみよりお嬢様は愛らしいのだから、その香りや柔らかい体を抱っこして味わうことも許されるのでは?


「落ち着きなさい」

「がべら!」


 鉄拳。脳裏に火花が散って視界が明滅する。


「気持ちはわかりますが自制なさい。でなければ……わかりますね?」

「は、はい!」


 にっこりと。

 普段のケイトさんから想像もつかないような満面の笑顔で暗に告げられた言葉の意味は単純である。

 ころす。

 そこに冗談は髪の毛の先ほども含まれていない。

 

 お嬢様に手を出すべからず。

 それは僕とケイトさんならびにお嬢様の魅力に心奪われたこの屋敷の使用人の間で結ばれた暗黙の了解だ。

 例外として許されるのはお嬢様から求められた時だけ。

 破ったものは漏れなく私刑、よくて追放という代物。

 幸いにして未だ破ったものは居ない不文律である。


 僕の場合、ケイトさんに容赦なくぶちのめされるだろう。

 この人のお嬢様愛は使用人の中でも随一なのだから。

 だがしかしお嬢様の傍仕えをする中で培われた鋼の精神を舐めてもらっては困る。

 こうして困ったかのように柳眉を下げるお嬢様が目の前にいてもぐっとこらえられるのだ。


「ど、どうしたのエスタ。腕、広げて……」

「いえ、これは何でもありません」


 無意識にハグをしようと開かれていた両腕を瞬時に引っ込める。

 あとは使用人として、眉一つ動かぬ鉄の表情を取り繕うに限る。

 そんな僕を見てお嬢様は何を思ったか、きょとんとした表情を少しだけ赤らめると立ち上がり、とてて、と近寄ってきた。

 そして。

 

「えっと、じゃあ、えいっ」

 

 ぽふり、と僕の胸に飛び込んできたのである。

 

 いい匂い、いつも僕が髪を整えて差し上げる際にもする香りだ。それが嗅覚を満たす。

 柔らかい、こんなに柔らかくて温かくて心地いいものがこの世界にあったろうか、いやない。やはりお嬢様はこの世界において唯一無二。触覚が悲鳴を上げる。

 可愛い、この世で最も愛らしい存在が、愛らしい掛け声とともに愛らしい仕草で飛び込んできた。しかも自分から飛び込んできたのに、表情が恥ずかしさを隠しきれていないのだ。この感情は言葉で表現しえない。こうして視覚と語彙力が焼き尽くされた。

 聴覚は始めから限界を迎えていた。


「ど、どう? あ、エスタ、本当に女の子になってるんだ。胸がある……」


 つまるところ僕はお嬢様の至高の尊さに、全てを奪われたのである。

 いうなれば、死。人間は尊さが限界を超えると死に至るのだ。

 ああ、でも、幸福だ。

 我が人生に一片の悔いなし。


「あれ、エスタ? エスタ? ケイトもどうしたの?」


 全てが停止した世界の中で僕は見た。

 ケイトさんがハンカチを鼻にあてながら、親指を立てて屋敷の中へ走っていくのを。

 許されたということらしい。ならもう十分だ。

 ほら、もう天使がそこまで迎えに……。


「エスタ、もしかして抱き着かれるの嫌だった?」

「滅相もございませんいえただ僕が今この瞬間にこうして生きていられることを切実にそれこそ意識が飛んでしまうほどに心から感謝を女神様に申し上げておりましたですからどうかそんな泣きそうな顔をなさらないでくださいお嬢様は笑っている顔が一番可愛いのですから」


 あ、危ない所だった。

 お嬢様に悲しそうな顔をさせるなどなんという大罪を犯そうとしていたのだろうか。

 あまつさえそんなお嬢様を放っておいて死を受け入れるなど。

 僕の女神様であるお嬢様は決してお許しにならない愚行である。


 息を吹き返した勢いで一息に謝罪を捲し立てる。

 するとお嬢様は嬉しそうに笑って、背中に手を回してくるのだった。


「なら、もうちょっとだけ。えいっ」


 あっ……。

 僕は自分の全てが灰となって風に流されていくのを感じた。


 *


「そ、その、ごめんね? エスタに触れられるって思ったら、つい……」

「いえ、お嬢様は何も悪くございません。ただ私達の心が弱すぎるのです」

「そ、そうなの……?」

「「間違いなく」」

「そう、なんだ」


 どれくらい経ったかわからないが、僕とケイトさんは何とか一命を取り留めて復帰することが出来た。

 ケイトさんは鼻血などなかったかのように素知らぬ顔をしているが、顔が少し青い。

 僕はと言うと頬の裏を思い切り嚙み切ったのでそれなりに大きな傷が出来ている。

 無論そんな気配はおくびにも出さない。


「でもどうしましょうか」


 そう、幸せな惨状があったけれども問題は何一つ解決していないのである。

 第三の選択肢である『僕がこの場からいなくなる』ことをお嬢様に拒まれては、かなりできることが限られる。

 さてどうしたものかと首をひねった所で、ケイトさんが手を挙げた。


「当主様に相談されてみてはいかがでしょうか」


 その瞬間少しだけ、お嬢様の表情に影が差したのだった。

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