21話 黒い袴の女

 ソファーの下からずり出たマスクは宙を泳ぎ、座卓の脇を通り、胡坐あぐら座りの上野の踵の所にポンと落ちた。

 チロは「持って来たから誉めてワン!」とばかりに尻尾を振った。

 チロが視えない一戸は、目を丸くする。


「……マジックか?」

「……高校合格パーティーのために練習してる」


 上野は頬を引き攣らせ、和樹も全力で作り笑いをする。

「お前、余裕だな……ははははは……」


 が、チロは上野の後ろに回り込み、和樹は目を剥く。

 上野が尻ポケットに入れていた醤油さしのひとつが、上野の座布団の端っこに落ちている。

 それをチロが舐めているのだ。


「おぁおぉっ!!」


 和樹は目にも止まらぬ早さで醤油さしを拾い――しかし指が滑った。

 醤油さしは緩やかな放物線を描き、座卓の上に落ちた。

 

「……何だ、これ?」

 コーヒーカップの横で半回転したそれを、一戸は摘まみ上げる。


「醤油じゃなくて水が入ってるようだが?」

「母さんが、お店で売ってる御守りだよ。ほら、『御利益ごりやく』のある水ってやつ」

 

 和樹は笑顔で嘘を重ねた。

 母が占い師であることは、一戸も知っている。

 占い師の自宅に、そうしたグッズがあっても不自然ではない筈だ。

 しかし、一戸の反応は意外だった。

 醤油さしを握り、爽やかに微笑む。


「代金は?」

「ひゃくえん……とくべつ価格、税込みで」

 

 うろたえる上野に気付かないのか、一戸はズボンの脇ポケットから百円玉を出して和樹の手前に置いた。


「じゃ、これ買うよ。受験のお守りに」

 

 何で百円玉を持ってるんだと和樹は思ったが、醤油さしを返せとも言えない。

 友を巻き込まぬよう努めたつもりが、泥沼が広がっただけだ。

 


 


 こうして、一戸は機嫌よく神無代かみむしろ家を後にした。

 上野も、彼と連れ立って退散した。


 和樹は肩を落として、ベランダに出て二人を見送った。

 心ならずも、一戸にも醤油さしが渡ってしまった。

 鋭い所がある反面、友人の言葉は疑わないお人好しなのだ。


 彼にも害が及ばないか不安になり、岸松おじさんに電話をすると――


「あの水は、霊感の有無に関わらず、持っているだけなら無害だ。むしろ、そこらの浮遊霊などは、水を避けて逃げていくだろう。心配は無い」


 ――と言う返事だった。


 だが、気分は晴れない。

 こんな状態で魔窟で闘わねばならないと思うと、絶望感すら感じる。

 

 

 そうして――午後の六時すぎに、母は笑顔で帰宅した。

 餅の残りで作った雑煮を食べ、母の後に入浴する。

 母は、スマホで推しの配信動画を見ている。

 イヤホンをしており、浴室の異変には気付きづらいだろう。


 体を洗い、浴槽に浸かり、醤油さしの一つを開封して湯に垂らす。

 瞼を閉じ、あの世界の紅い月を想い起こす。

 腰の辺りに左手をかざし、『白鳥しろとりの剣』を抜く我が身をイメージする。


 途端に、湯の中から花の香りが立ち昇ってきた。


 ――出来る!

 ――魔窟に行ける!


 確信し、花の香りを吸い込み、唱えた。


(我は、神名月かみなづきの中将である……!)


 その瞬間に、意識が水底に沈んだ。

 真紅の花びらに包まれ、にしの装束に身を変え、深く潜行する。



  *


  *



 ――同じ頃。


 入浴を終えた上野昌也は、スウェットに着替えて廊下を歩いていた。

 横にはチロもおり、嬉しそうに跳ね歩いている。


 広い二階建ての家は、がらんとしていた。

 画家の父は、一週間ばかり郊外のアトリエから帰らない。

 自宅では集中できないとの理由で、空き家をリフォームして使っているのだ。


 母は専業主婦で、兄は大学の看護学科に自宅通学している。

 夕食では、兄が作った介護食の試食もした。

 将来は介護関係の職を目指すそうだ。

 

 (オレは、どーするかねえ……絵は得意じゃねーし、頭もイマイチだし)


 高校進学後の進路など、深く考えたことは無い。

 だらだらと大学生活を送り、その後は……



(……ん?)


 どこからともなく、花の香りが漂う。

 チロは足を止め、軽く唸る。


(これって……あの『三途の水』の匂いじゃねえ?)


 まさかとは思い、スウェットの尻ポケットに触れる。

 三個の醤油さしが入っているが……


(……ちょい、ヤバくねえか?)


 自答しつつ、そろそろと廊下を進む。

 そると――応接間のドアが開いていた。

 漏れる灯りが、薄暗い廊下を照らしている。

 

 中を覗くべきか、和樹に連絡すべきか――迷う。

 昼間に幽霊を見たし、和樹は今夜は魔窟に潜ると言っていた。


(……ナシロが闘うって言ってたんだ。ここで尻尾を巻けるか!)


 覚悟を決め、壁に背を付けて近付く。

 

 覗くだけなら、まさか心臓を止められるなんてことは無いだろう――

 チロもいるし――


 たかを括り、息を殺して三分の一ほど開いたドアの隙間に顔を当てる。


 応接間の壁を飾るのは、父の好きな画家モディリアーニの十二枚の複製画だ。

 本人と妻の写真を含めると、全部で十四枚。

 それに囲まれる応接セットは、オフホワイトのレザー調のシンプルなアンティーク仕様だ。


 その三人掛けのソファーに――誰か座っている。

 長い髪しか見えないが、女性のようだった。


(……こんな時間に客が来るなんて聞いてねえし……)


 上野は目を凝らし、首を伸ばす。

 すると――誰かに突き飛ばされた。

 倒れかかったが何とか歩を勧め、ソファーの背もたれに掴まった。


 だが、そこにいた筈の女性の姿は無かった。

 疑念を抱く間も無く、背後から首に手が回され――締め上げられた。


(げえっ……!)


 足元に目をやると、黒い袴が見える。

 視界の隅に、白磁の如き腕も見える。

 

(……て、てめえっ……)


 もがこうとするが、まったく身動きできない。

 息が詰まり、頭部の血管が重く軋む。

 チロが激しく吠える声が聞こえる。


 視界が急速にしぼんだが――不思議な既視感が五感を叩いた。

 後ろの人物が発する香りだ。

 確かに、この香りを知っている……。

 この香りを放つ女を知っている――。




『……霊名ひいなを唱えよ……』


 厳かな声が意識を揺らした。


『新しき名を定め、新しき力を得よ』


 声は胎内に吸い込まれ、そうが開き、飛沫に包まれる。


 彼は両手を広げ、異界の流れに身を投じた。

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