20話 そこが夢の中でも

 読経どきょうが終わり、笙慶さんは帰り支度したくを始めた。

 今日の檀家周りは三軒で、神無代かみむしろ家で終わりだったとのこと。


「和樹くん、昌也くん。困ったことがあったら、すぐに知らせてください」

「ご心配をかけて申し訳ありません。宇野さまも、お気を付けて」

 

 和樹たちは玄関に座って、笙慶さんを見送る。


「あの、宇野さま……母には、悪霊退治などの話は……」

「分かっています。禁句ですね」


 笙慶さんの答えに、和樹は安堵あんどした。

 母には霊感がある。

 いつまで誤魔化せるか分からないが、心配をかける時間を少しでも短くしたい。

 


 笙慶さんを見送り、二人は居間に戻った。

 紙コップにコーラを入れ、枝豆スナックを開封し、仏頂面で向き合う。

 チロは、ソファーの上でヘソ天寝をして夢の中だ。


「とにかく、醤油さしの予備をたくさん用意するよ。寝る時も手放すなよ」

「……泣きてえよ」

 

 上野は、ガックリと首を垂れる。


「親や兄貴に知れたら、どうするよ。すっぽりかぶれるマスクを買うわ……」

「ごめん……僕が、黒い犬を逃がしちゃったせいで」


「でもよ、祖母ばあちゃんのことも、ちょびっと分かったしな。チロには会えたし、お前の秘密のヒーロー仕事も知った」

「誰にも言うなよ。お前の顔面は、絶対に取り戻すから」

「分かってるって」


 上野はポケットに入れていた醤油さしを、テーブルに置く。

 ふぉーっと上野の顔面が消えた。

 和樹は口をゆがめるが、上野はスナックを両頬の真ん中に押し込み、コーラを飲む。


「うん、普通に食えて飲めるんだな。アテにしてるぜ、ナシロ」

「ああ……頑張るさ」


 和樹は答える。

 だが、ここでも和樹は真実を告げなかった。

 上野のお面を奪ったのが、黒いチワワだと言うことを。


(チワワってのも見間違えかもしれないし。暗かったからな……)


 そう言い聞かせても、自分に嘘を付き通すのは無理だ。

 和樹が見たのは、黒いチワワに違いなかった。

 

(黒チワワは、どこに逃げたんだろう……)

 

 不安を片隅に押しやりつつ、重い空気を払うべくテレビを点けた。

 再放送の恋愛ドラマが映り、蓬莱さんに似ている若手女優が男子生徒の告白を受けていた。

 二人は無言で、そのドラマに見入る――。

 


  *


  ж

 


 そして午後の九時半。

 

 ようやく、父の裕樹が浴槽に帰って来た。

 和樹は父の手を取り、掠れ声で今日の出来事を訴えた。

 だが、父の反応は予想とは少し違っていた。


「分かってる。けれど、毎日ここに来れない。父さんは『霊道れいどう』を開いてここに来ているが、やり過ぎると『霊道れいどう』が閉じなくなるそうだ。そうなれば悪意を持つ幽霊たちのターゲットになり、お前と母さんに霊障が降り掛かる」


「じゃあ……僕が魔窟に潜るのも難しくなる? 父さんがいないと無理だよ」


「温泉では、お前の意志で潜れただろう? 三途の川の水があり、お前の意志が強ければ、出来ないことはない。それに……」


 父は、湯桶の中を見て微笑んだ。

 湯桶いっぱいに、醤油さしが積まれている。

 和樹は肩をすぼめて父を見る。


「うん。上野のために買い込んだんだ。とにかく、この湯を詰めとく」


 湯桶を引き寄せ、醤油さしを浴槽に投げ入れ、蓋を開けて次々と詰めていく。

 

「……子どもの頃の水遊びみたいだ……」


 父の前で水遊びのようなことをしたのは、これが初めてだ。

 幽霊であろうが、こうして父と話が出来る。

 一緒に風呂に入っている。

 

「ねえ、父さん……」


 ふと正面を見た時――父の姿は消えていた。

 湯からは、まだ異界の花の香りが立ち昇っている。


 和樹はすべての醤油さしに湯を詰め、湯桶に入れ、止水栓を引いた。

 湯は排水溝に吸い込まれ、花の香りも何処かの底に沈む。


「また、来てくれるよね?」


 和樹は目を拭い、シャワーで浴室を洗い流す。

 本当は、父と――もっと話がしたかった。

 勉強のこと、受験予定の高校のことも。


 けれど今夜の父は、少し淡泊だった。

 心ここにあらず、な顔をしていた。


(まさか、笙慶さんの気持ちに気付いたとか……)


 上野ですら気付いたことだ。

 霊界で自分たちを見守っていた父が、毎月訪れる笙慶さんの想いを察しても不思議じゃない。

 

(僕が父さんの立場だったら……)

 

 愛する人たちの幸福のために、静かに離れて行くだろうか。

 それは、哀しく美しい姿だ。

 

(やだよ……そんなの……)


 歯を食いしばり、壁の水滴を吸水スポンジで拭きとる。

 父と会えたのに、話が出来たのに、一か月も経ずに別れるなんて耐えられない。

 

 

 乱れる心を抑え、後片付けを済ませて居間を覗くと――母は、歌番組の録画を見ていた。

「疲れたから、早く寝るよ」とひと声かけて、急いで部屋に戻る。

 

 ビニール袋に小分けした醤油さしを、ベッドの下やバッグに隠す。

 明日には、その殆どを上野に渡すことになる。



 けれど、闘いは続く。

 上野の顔を取り戻さねばならない。

 蓬莱さんに悪霊が憑いたら、魔窟に潜って闘う。


 けれど、今日は疲れた――。

 前途の多難は忘れたい――。

 

 枕の下に醤油さしをひとつ置き、明かりを消して瞼を閉じる。

 

 瞼の裏で、提灯ちょうちんの灯りが揺れた。

 ワタアメの袋を下げた幼い自分が、父に抱き上げられている。

 母は指にヨーヨーをぶら下げ、あんず飴を買いましょう、と笑っている。


 その夢は、誰かの現実かも知れない。

 和樹は微笑み、眠りに吸い込まれる。


 母がドアを叩き、「もう寝たの?」と聞いたが、聞こえない振りをしてやり過ごした。

 舌先で口の中をなぞると、飴の甘味が広がったような気がした。

 

 それは、いつかの夏祭りで味わったあんず飴の味だ。

 母に手を引かれ、三日月を眺めた夜の思い出の味――。

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