19話 思い出と、のっぺらぼうとチワワの幽霊
「くあっ……!」
和樹は
浴槽のぬるま湯に浸かっていることを思い出すのに、数秒かかった。
上野を助けるために、果敢に異界に飛び込んだのだが……
「上野、無事か!?」
ババッと左を向くと、洗い場に座り込む上野の背中が見えた。
ずぶ濡れで、髪から大量の雫が滴っている。
彼は壁の鏡と向き合っているが……
「ナシロぉ……」
「はあ……??」
涙声に誘われ、鏡の中を見た和樹は絶句した。
信じ難いが、上野の顔が無かった。
顔面には、眉も目も口も鼻も無い。
「かずきくん……まさやくんが……」
チロだけが嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねている。
「ナシロ……オレの顔が無くなった……」
上野は肩を震わせて振り向いた――まるで、ホラー映画の一場面のように。
そこには、緩やかな球面を描く『のっぺらぼう』の顔面がある。
しかし、和樹にも成す術が無い。
あの黒いチワワが持ち去った上野のお面。
あれを取り返さない限り、顔面は戻らないのでは――
そう考えると気が遠くなった。
これでは人前に出ることも不可能だ。
(……和樹、あの水を使うんだ……!)
――父の声が聴こえた。
浴槽に残るぬるま湯の中から、確かに聴こえた。
途端に、脳裏に画像が閃く。
和樹は浴槽から出て、脱衣所に投げ置いたチノパンのポケットを探った。
『三途の川の水』を入れた醤油さしが二つ入っている。
「これだ、上野!」
醤油さしを、彼のオーバーシャツのポケットに突っ込んだ。
すると、フワワ~ッと上野の顔面が現れた。
上野は鏡を見て、顔を撫で、歓喜する。
「うおっ、顔が戻ったっ! オレの顔っ……ん?」
上野は目を瞠った。
飛び跳ねるチロを見て――たちまち両目が濡れる。
「チロ……チロか!? おい~っ、チロがいるぞ!」
上野はチロを抱き上げ、泣きに泣いた。
チロも尻尾を大振りして、上野の顔を舐め回す。
「チロぉ~。お前、虹の橋を渡っちまったんじゃなかったのか!? 散歩中に車の音に驚いて、母さんの腕から飛び降りて……何で、ここにいるんだ!?」
「上野……ちょっと……」
和樹はコソッと腕を伸ばし、上野のポケットから醤油さしを取り出す。
すると、再び上野の顔面が消えた。
抱いていたチロも、手をすり抜けて下に落ちる。
上野は、また鏡を見て絶叫した。
「うぉあっ!? また顔が消えたっ!! どうなってんだ!?」
「上野……ごめん……」
和樹はバスタオルを取り、嘆息した。
『三途の川の水』が、上野の
*
三十分後。
居間は、コーヒーの甘い香りに満たされていた。
だが、向き合う和樹たちの表情は暗い。
和樹のスウェットを着た上野は魂が抜けたように、膝に乗るチロを撫でている。
笙慶さんは、濡れた黒い法衣と足袋をドライヤーで乾かしている。
「つまり……和樹くんは、霊体離脱をして『悪霊』と闘っているのですね?」
笙慶さんはドライヤーを止め、少し冷めたコーヒーわ飲み干した。
和樹も首をすくめつつ、説明を繰り返す。
「はい、御先祖さまの幽霊の言いつけで、
和樹は小さな嘘を付く。
現れた幽霊が、父だとは言えなかった。
上野が「笙慶さんは、お前のお母さんを好きなんじゃ」と言ったせいで、真実を話すのを避けざるを得なかった。
「でも、和男くんがいた場所は魔窟とは違いました。一昨年の夏祭りの風景でした。上野のお面と云い、彼の記憶も関係してるのかも」
予測を告げると、上野は顔を上げた。
上野いわく「洗面所で手を洗っていたら浴室で水音が聞こえ、
「ナシロ……和男くんが連れてた女の子たちだけど……」
上野は、醤油さしをギュッと握る。
「その子たちは、オレのお
「えっ?」
「
「お
笙慶さんは身を乗り出し、上野はコクリとうなずいた。
「はい、姉妹三人とも。ひいお
上野は神妙に頭を下げる。
「あの、宇野さま……今は持ち合わせがありませんが、和男くんにお経をあげていただけませんか?」
「宇野さま……僕からもお願いします!」
和樹も、床に指を着いて頼み込む。
ひとりぼっちだった和男くんの魂が、上野を霊界に引き入れたのは運命だったのかも知れない。
生前の和男くんと静子ちゃんと幸子ちゃんは、仲良く遊んでいたのだろう。
その縁で、夏祭りに彼女たちの『思い出』を連れて来たに違いない。
「お代は
笙慶さんは法衣を着て――微笑んだ。
「ぜひ、和男くんのためにお経をあげさせてください」
そして――三人は脱衣所に移動した。
笙慶さんは、浴槽の向こうの異界に向かってお経をあげ、お
和樹と上野は肩を付けて座り、手を合わせる。
チロも、二人の手前で静かに腰を降ろしていた。
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