第4章 上野昌也の災難
16話 脱がずに闘う方法は無いのか?
十二日は、和樹の父の
菩提寺の腰痛持ちの住職に変わり、二年前からは弟子の僧侶が読経に訪れる。
今年最初の月命日――母の沙々子は出勤した。
僧侶の接待を、冬休み中の和樹に託して。
作法も心得ているので素直に引き受け、母を仕事に送り出した。
そして友人の上野昌也を呼び、ふたりで受験勉強に励むことにした。
「他人の家で遊ぶ気か」と説教されたそうだ。
「あいつは推薦で『
上野はモナカアイスをかじりながら、タブレットを適当にタッチする。
「お前は『
「うん……上野は『
「通学には、『
「歩いて八分の腐れ縁だし。いつでも連絡くれよ」
和樹もモナカアイスをかじりつつ、テレビに目をやった。
コックがテロリストをバタバタ倒していく古い映画が映っている。
とりたてて勉強に身は入らない。
何より、座卓前のソファーでゴロゴロしているチロが気になる。
キャビネットの前で片足を上げ、上野の頭に乗り、隣の和室で寝転がる。
しかし上野の手前、見て見ぬ振りしか出来ない。
かくして、十三時を回った頃に、オートロックのブザーが鳴った。
和樹はインターホンに出て、一階入り口のドアを解錠する。
「一戸の叔父さんだ」
「おおっと。予定より早いな」
上野はカップ麺の容器を片付け、座卓の上を整理する。
和樹も仏壇の前に座布団を敷き、父の写真の角度を整える。
「やあ、こんにちは。今年はお初にお目に掛かります。お邪魔します」
月参りに訪れた僧侶の
黒いコートの肩口には、粉雪が付着している。
和樹はコートを受け取り、雪を払ってフックに掛け、丁重に挨拶をした。
「宇野さま、こんにちは。寒い中をありがとうございます。今年も、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、甥っ子の
「はい、頑張ります!」
上野も深々と会釈した。
チロの葬儀でお経を上げてくれた人で、上野の足元に坐るチロも尻尾を振って出迎えている。
かくして、三人と一匹は和室に移動し、仏壇の前に座った。
笙慶さんは
この僧侶は、一戸の母の弟だった。
一戸の父の実家がお寺で、その縁で出家し、現在に至っている。
やせ型で眼鏡を掛け、僧侶らしく
穏和で低姿勢で、檀家からの信頼も厚い。
やがて読経が終わり、笙慶さんは仏壇に拝礼して体の向きを変えた。
和樹は切手盆にお布施袋を乗せ、笙慶さんの前に置く。
「本日は、立派なお経をありがとうございました。父やご先祖様に代わって、御礼を申し上げます」
「いやいや……今日は、お母さんはお仕事に?」
「はい。お茶の用意をしていますので、少し休んで行ってください」
「そうだね。せっかくのご厚意だから、いただいていくよ」
「はい。ソファーでお待ちください」
和樹と上野はそそっと立ち上がり、台所のコンロで湯を沸かす。
急須に茶葉を入れていると、上野が小声で耳打ちしてきた。
「……なあ、笙慶さんだけどさ。お前、気づいてる?」
「何を?」
「……笙慶さん、お前のお母さんを好きなんじゃね?」
「はぁ?」
「何か、すげー残念そうな顔してたぞ」
「……そんなことないって」
和樹は否定したが、以前から感づいてはいた。
だが、幽霊の父と再会した今、それを指摘されるのは耳が痛い。
恨めしさに、ついつい上野を
「……オレ、トイレ借りるわ」
上野は、慌ててトイレに駆け込んだ。
当然のように、チロも後を追う。
それを尻目に、お盆に湯呑み茶碗と
「これは結構なお
笙慶さんは軽く手を合わせてから、茶をすすった。
「昌也くんは?」
「ちょっと……お
「それはいけない。大事な時期だから、体調には気を配らないとね。それにしても、
「……宇野さまは、お寺を継ぐのですか?」
「そうなるのかな。でも、まだまだ学び足りない。御仏の心も、世の広さも狭さも」
「……こんなことをお聞きするのは失礼ですが、ご結婚とかは……」
「ほぇぁ?」
笙慶さんの声がひっくり返った。
心ならずも、和樹は追い打ちをかけてしまう。
「お坊様って、結婚禁止じゃないですよね?」
「いや、はて、はは……そんなことは考えていないよ」
「……そうですか?」
――グイッと身を乗り出した時である。
「ぐああああああああっっっ!」
上野の悲鳴が響き渡った。
チロも、キャンキャン鳴いている。
「な、何だね!?」
「ふ、風呂場みたいです!」
和樹の背筋が凍った。
風呂場は、この家に置いては鬼門だ。
トイレから出た上野は、脱衣所の洗面台で手を洗おうとしたのだろうが――
「昌也くん、どうした!?」
ふたりが駆け込むと、信じられない光景がそこにあった。
浴槽の半分ほどの高さに水が溜まり、渦巻き、その中に上野が前屈姿勢で顔を浸けていた。
チロは床の上で右往左往している。
「だだだじゅげでっ!」
上野は、両手を浴槽の底に付いてもがいている。
「これは……昌也くん!」
ふたりは上野の肩をつかんだが、引き上げられない。
渦巻く水は、上野を引き込もうとしているように見える。
(くそっ、敵だ!)
和樹は、漂う花の香りに顔をしかめる。
間違いなく、異界――三途の川の水だ。
「昌也くん、どうしたんだ、これは!?」
「お湯を出します!」
和樹は給湯器の温度を上げ、蛇口を全開にした。
そして服を脱ぎ捨てる。
「説明は後です! 宇野さま、上野の体を離さないでください!」
全裸で浴槽の湯加減を確かめる。
ぬるいが、大丈夫だろう。
上野は派手に手足をバタバタさせており、意識はあるようだ。
しかし、一刻も早く浴槽から引っ張り出さねばならない。
「宇野さま、これは悪霊の
「悪霊って……君は!?」
「この湯の中だと『霊体離脱』できるんです!」
和樹は体を横にして、浴槽に腰を降ろした。
精神を研ぎ澄まし、心を花の香りにゆだねる。
体の芯が震え、射られた矢のように意識が解き放たれた。
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