13話 湯桶の中からこんばんは
食事処で頂いた『すき焼き御前』と『カニの網焼き』は美味で、量も充分だった。
肉が苦手な母には『カキ鍋御前』が出され、母もぷっくり新鮮なカキを堪能した。
他の宿泊客も、笑顔で料理に舌鼓を打っている。
五人の外国人家族もおり、「和風旅館を選ぶとは分かっているな」と岸松おじさんは和樹に耳打ちした。
食後に部屋に戻り――和樹と岸松おじさんは、館内の家族風呂に向かう。
家族風呂には、源泉かけ流しのヒノキの浴槽がある。
カランが三つ、シャワーヘッドが二つで、広さは八畳間ほど。
貸し切り時間は五十分だ。
「和樹、なかなか趣のある浴槽だぞ」
岸松おじさんは木桶で浴槽の湯をすくい、頭からかぶる。
「おー、良い湯だ。お前もかぶれ」
「はい……」
誘われるままに掛け湯をし、微かな硫黄の香りに包まれる。
温かい湯が肌をほぐし、和樹の心も
「すごく気持ち良いです。ありがとう、おじさん」
「よーし。体を洗ってから湯に浸かるぞ」
こうして、二人は温泉を存分に楽しんだ。
並んで浴槽に入り、足を伸ばす。
が、和樹は心から寛げない。
例の天狗面が、頭の中でチラつく。
一刻も早く闘わねばならない相手だが、問題はこの状況だ。
魔窟に移動するには、父の導きで『三途の川の水』が必要だ。
ビニールポーチに例の醤油さしを入れて持ち込んだが、事態を見抜いているらしい岸松おじさんが隣にいる。
洗いざらい白状して、手助けをお願いすべきか――。
迷っていると、岸松おじさんが語り始めた。
「さっちゃん……沙々子を我が家に迎えたのは、二十二年前だったな」
目を細め、湯気で曇った窓を見上げる。
「おじさんの妹の紗都子が沙々子を連れて来た翌日……紗都子は姿を消した。北海道を出たことは勘で分かったが、どうしたものかと悩んだ。沙々子は、霊感を持っていたからな……」
「……霊感……」
「おじさんが御山で修行した話は知ってるな? 沙々子にも修行をさせようかと思っのだよ。あわよくば、おじさんの後継者にしようかって考えが頭をかすめた」
「…………」
「だが、沙々子は言った。『ごはんを炊いて、味噌汁も作れます。目玉焼きも、野菜炒めも』ってな。その瞬間、おじさんは自分が嫌な大人だと悟った。八歳の子どもに何を言わせたんだ、とね」
「……初めて聞きました……」
「それから、おじさんの子育てが始まった。おじさんの後継者に、なんて馬鹿げた考えは、すぐに消えてくれたよ。沙々子を大学にも通わせたかったが、本人が『霊感があるし、占い師になって迷っている人に助言したい』と言って譲らなかった。そして『占いの館』に勤めた年の夏に、裕樹くんと巡り会った。その結果が、ここにある」
岸松おじさんは、和樹を見つめた。
「孫も同然の男の子は、母親思いの優しい子に育ってくれた。隣に住む幼なじみに恋をして……」
「それは言わないでくださいっ」
「はははっ……だがな、和樹。おじさんの目は誤魔化せんぞ」
タオルで顔を拭い、真顔を見せる。
「夢で視たんだ。お前と裕樹くんが、三途の川を挟んで向き合っている姿をな。二日続けて同じ夢を視て、只事でないと確信した。こうして向きあって見れば……お前の後ろに、お前に似た少年がいるのを感じる。烏帽子を被って、剣を腰から下げている男だ」
「……ポン酢です」
「は?」
岸松おじさんが唇をへの字に曲げた時――
洗い場に置いていた木桶から、湯が溢れ出した。
「父さんだ……!」
和樹は浴槽を出て、木桶の前に膝を付いた。
岸松おじさんは浴槽に浸かったまま、厳しい眼差しで怪現象を注視する。
やがて木桶の湯が噴水のように高く弾け、鎮まり――
木桶の中に、人形サイズに小型化した父が現れた。
「……父さん?」
「……こりゃ、どっかの妖怪の親父か?」
岸松おじさんは、腹を押さえて横隔膜を震わせる。
和樹は椅子の上に木桶を乗せ、顔を近づけた。
腰にタオルを当てた父が、肩をすぼめて正座している。
木桶の湯に半身を付けながら、岸松おじさんに会釈をした。
「ご無沙汰しております……」
「はあ? 補聴器を外してるので良く聞こえんぞ?」
「申し訳ありません、僕の不注意で沙々子と和樹に苦労を掛けています!」
「忠告はしたぞ? 山には行くな、と。それを無視して遭難しよって……馬鹿者が!」
笑いを止めた岸松おじさんは、少し声を荒げたが――すぐに眉尻を下げた。
「いや……今さら、𠮟ってもどうにもならんか」
そして和樹を見たが――その視線は、背後に忍ぶ異世の剣士に向けられているようだった。
「裕樹くん。何が起きているのか、説明してくれるか?」
「はい、岸松さん。けれど、時間が無いんです。和樹、行ってくれるな?」
「うん。天狗の敵だね?」
和樹は、浴室内の掛け時計を見た。
あと十五分で、貸し切り時間が終わる。
「でも、どうやって? 浴槽に三途の川の水は入れられないよね? 次のお客さんが入るし」
「タオルをこの木桶の湯に浸けて濡らすんだ。湯は減らないから心配するな。そしてタオルは太腿に置いて」
父の言葉に従い、濡らしたタオルを股間に置くと、父はタオルの上に飛び乗った。
「そして、タオルをもう一枚。同じように濡らして頭に乗せて。そうすれば、あの世界に潜れる。木桶の湯は薄めていないから、念じれば行けると思う」
「うん、行くよ! 塾のみんなに災いが及ぶ前に!」
ポーチからハンドタオルを出し、桶に突っ込んで頭に乗せた。
花の香り漂う湯が顔を濡らし、背筋が張り詰める。
あの場所に――
そう願うと同時に、体がストンと落ちたように感じた。
目を凝らすと、真下に異界の流れが視えた。
導かれるより先に、
『僕は、
言葉尻に小さく『ポン酢』を付け、頭を下にして降下する。
流れに身を浸した途端に髪が伸び、武装具が全身を包んだ。
小袖、袴、二枚の
そして腰帯と『
(いける……! 闘える!)
剣の柄を握り、深く深く潜行する――。
紅穹の月~夜巫月の四将の物語~『黄泉月の物語・改訂版』 mamalica @mamalica
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