10話 終わりの国の最果ての神
「ほう……では決まりだ」
「……ああっ!」
行者はププッと鼻息を漏らし、和樹は「しまった」と頭をしかめる。
悔いても手遅れだ。
「ぼっ僕の『名』は、『
「声を出して名乗らずとも良い。お主の人格を護るための大切な『名』だ」
「……改名できませんか? 『ポン酢』を『
「ん~?」
「『方丈記』を記した鴨長明をご存知でしょうか。行者さまのお陰で、闘いに勝てました。ですから、行者さまにあやかった『名』を拝借したいと思ったのです」
早口で言うと、行者は鼻の頭を掻いた。
「わしを褒めても無駄よ。一度決めた『名』は変えられん。お主が暮らす世では、名を頻繁に変えられるのか?」
「……『ポン酢』で良いです……」
急に疲れが押し寄せ、ガックリ肩を落とす。
口は災いの元、と言った先人の見識を痛感した。
それにしても――前にも、似た体験をした気がする。
同じようなことがあったような……
「わん、わわん!」
親犬たちが吠え、我に返った。
子犬たちは下がり、怯えたように鳴く。
生温い風が、じわりと吹き頬を撫で上げる。
目前の山門の分厚い扉が、こちら側に開き始めた。
木が軋む不快な音が、鼓膜を貫く。
開き切るまで、三分はかかっただろうか。
ぽっかり開いた門の幅は、十メートルはある。
茜色の月光が門の内に射しこむが、茶色の土以外は何も見えない。
前方は、黒一色だ。
見つめていると、最果てに吸い寄せられる錯覚に陥る。
「……奥に、次の敵がいるってことですか?」
さすがに連戦はきつい。
ここに来てから一時間は経過している気がするし、入浴中の本体がふやけているのでは、と不安も募る。
「行者さま、もう帰りたいんですけど……友達の様子も確かめたいですし」
「ならば、帰れ。次の異形も出て来ぬし、敵も己の都を荒らされたくないのだろう」
行者は左の手のひらを、和樹に見せる。
そこに
表面には、古式ゆかしい衣装の若者が映り込む――。
「また会おう……わしは、お主らを待っておる」
行者がささやき、
風も止み、静寂が訪れる。
「……お前たちは泉に戻れ。闘いが終わる時まで、おとなしゅう過ごせ……」
すると――犬たちは寄り添い、駆け去った。
行者は茫洋たる月を見上げ、重々しく唱える。
「……古き
行者は跪き、長杖を置き、月に向かって拝礼をする――。
「ぐ……ぐえっ!」
小声を上げ、和樹は
開いた口に、花の香りのする湯気が吸い込まれる。
「無事か! 怪我はないか?」
父は耳元に口を当て、和樹の腰を支える。
「大丈夫だったか? 悪霊を追い払えたのか?」
「……とぉさん……」
――言葉が出ない。
目の前に父がいて、浴槽に浸かっている。
生きている――
生きて、現実に戻れた――
父の手を握り、正座して幼児のように涙をこぼす。
大きな声は出せない。
ほろ酔いした母は、音量を上げてテレビを観ているだろう。
叫んだら聞こえてしまう。
「うん……追い払った……」
そっと頬を拭い、作り笑顔で父をなだめる。
剣を振るい、跳び、鬼を倒した。
一連の出来事が、空夢のように思える。
だが――
溢れる花の香りと、父の顔。
手のひらに残る剣の柄を握った感覚。
放たれた山門の扉の向こうにの闇の色。
鮮明な情景と感触が、実体験だと告げている。
「和樹……父さんは、そろそろ帰る。お前も風呂から上がるんだ」
父は、湯の中で息子をゆっくりと離した。
「大変な要求をしてしまって……すまん。父さんも戸惑ってるんだ。事態は、想像以上に深刻なようだ……」
「明日も……来てくれる?」
両目を拭いながら訊ねる。
もっと話がしたい。話を聞いて欲しい。
すがりたい。
甘えたい。
だが――母を不安にさせたくはない。
このことを知られては駄目だ。
穏便に、事を運ばなければならない。
それを話すと、父も同意した。
「和樹……弁当用の『醤油さし』がいい。明日、持って来れるか?」
「えっ……あの魚の形のやつ?」
父の唐突な提案に戸惑いつつ、親指と人差し指で輪を作って見せる。
すると、父は大きく頷いた。
「そうだ。この湯を入れて、ポケットにでも忍ばせて置け。そうすれば、お前の声が父さんに届くだろう。父さんの声も届けられるかも知れない」
「分かった。用意するよ」
父の言葉は心強い。
父と繋がっていられると思うと、勇気が湧く。
しかし、ふと疑問が浮かんだ。
「あの……父さんは『魔窟』って知ってる?」
けれど――言葉が終わる前に、父の姿は消えた。
霊界に戻ったのだろう。
落胆しつつも浴槽の湯を排水し、風呂場全体をシャワーで洗い流す。
手早くスウェットに着替え、濡れたままの髪で居間に戻る。
テレビは消えており、母は和室の布団で寝入っていた。
カラになったチューハイの缶が、座卓の上に転がっている。
壁の時計を確認すると、入浴時間はいつもと変わらない。
『魔窟』で過ごす体感時間は、現世とは一致しないようだ。
ともあれ、母には気づかれていない。
寝入る母の向こうに、父の遺影がある。
遺影に微笑み、そしてベランダの窓から外を見た。
斜め向かいに、蓬莱さんの清むマンションがある。
彼女が暮らす部屋の窓は、ここからは見えない。
スマホには、メールもメッセージも入っていない。
彼女は無事だろう――。
お
彼女が『運命の恋人』かはともかく、異界の兄弟たちも倒さずに済んだ。
不安はあるが、現世に戻ったせいか奇妙に落ち着いている。
しかし――ここでスマホのボタンが点滅した。
久住さんからのメッセージだった。
『天音ちゃんも塾の特別講習を受けるって ナシロくんとはあんまり会えないね』
(……特別講習……)
呟き、貯蓄額を思い浮かべる。
久住さんが通う塾の講習だろうが――
(……講習に出れば、彼女に会えるよね……)
闘いは、まだ続きそうだ。
出来るだけ会う方がいい。
今の生活を守るためにも。
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