8話 白鳥の剣
王都に続く道は、現代のバスがすれ違えるほどの幅がある。
黒い土は踏み馴らされ、人が行き交った痕が残っている。
だが、道の左右は膝丈ほどの枯れ草で覆われた荒れ野だ。
点在する木々の葉は落ち、骨ばった枝のシルエットが版画のように浮かんでいる。
その背後に浮かぶのは、巨大な紅い月だ。
幻想的であるが、極めて異様でもある。
沈む気配も昇る気配もなく、地を見つめるのみだ。
『ロッシュの限界』を超えてるな、と受験生らしい感想を抱いたが――向こうから近づいて来る物体に気づいた。
遠目には、黒い四角い箱に見えたが――やがて牛車だと分かった。
牛飼い
だが、人も牛も車も『影』である。
行者と違い、装束も黒で塗り潰され、ギコギコと車輪が回る音だけが鳴り響く。
「放って置け」
行者は、冷淡に言い放つ。
「寺社に参拝に行こうとしているのだよ。己が影と化したことも分からず、災禍以前の行動を繰り返している」
「……まさか……三千年も……?」
和樹の背筋が震える。
殆どの人々の魂は闇に取り込まれ、灘を逃れた少数はこうして動いているとのことだが――
これが幸運と言えるのだろうか。
道の端に寄って牛車に中央を譲ると、
その声は低く、子どもらしい明るさはなかった。
けれど、母を慕う心は失われていないのだろう。
和樹は我が身と重ね、行者に問う。
「……あの人たちを救えないんですか?」
「王宮に居座る『宵の王』を倒さねば、この闇の世は終わらぬ」
「『宵の王』……?」
「王宮の御神木に憑依した邪念よ。その内に、人々の魂が捕われておる。そやつに挑んだ者たちはいるがな……」
行者は、沈黙をもって挑んだ者たちの末路を語る。
車輪の音は遠ざかり、やがて消えた。
あの牛車は、いずれ引き返して来るのだろう。
そして、また――
やりきれない思いに、唇を噛む。
父の導きで訪れた世界は、まさに『地獄』だった。
意思を奪われた影たちが歩き回る末世だった。
怒りも喜びもなく、虚しい時間が刻まれるのみである。
これを見過ごして良いものか、と拳を握る。
『地獄』を知った以上、顔を背けて眠れない。
「行者さま。泉を離れる時に、子どもの声が聞こえました。僕に『ご武運を』と言いました……」
「
当然の指摘を受け、返事に詰まる。
剣は持っているが、使いこなせる筈がない。
しかし、和樹は己を見降ろす。
(この衣装は何だ? なぜ、剣を持っている? それに、あの声……僕を『
もう一度、剣の柄に触れてみる。
しかし、柄を握ることは出来ない。
抜刀すれば、後戻りできない気がするから。
迷っているうちに、
行者は立ち止まり、鼻先で笑う。
「腹でも痛いのか? 悶絶した顔をしているが、ほれ……」
長杖で斜め上を差し――
すると、目の前の夜景が霧を裂いたように晴れた。
先には、巨大な山門がある。
三階建ての校舎ほどに高く、四脚の支柱は太く、傾斜した屋根は
長い年月を経たように、支柱は灰色に風化している。
中央にある門扉は閉ざされ、侵入者を拒んでいる。
「門が閉ざされてから、十五年になるかの。わしは家に戻れず、あの牛車は行きつ戻りつを繰り返しておるが……ほれ、門番が来るぞ」
行者は長杖で地を叩き、犬たちは周りに集まる。
和樹は目を凝らすと――行者の周りの空間が、薄く波打っているように見えた。
一種の結界だろう。
だが――行者の言葉通り、門扉に異形の影が浮かび上がった。
伸ばした腕を突き出し、唸り声と共に影は実体化した。
真っ先に目についたのは、平安時代風の白い直衣である。
だが大量の血がこびり付き、雫が足元に垂れている。
頭は二つあり、唇が裂けた青い鬼面を被っている。
もつれた頭髪は渦巻いて宙を彷徨い、二メートルはあろう身の丈を更に大きく見せている。
右腕は二本で、左腕が一本。
そう、数が足りない。
「あの左腕か!」
和樹は、無意識に身構えて叫ぶ。
蓬莱さんにしがみ付いているのは、間違いなく門番と呼ばれた異形の左腕だ。
つまり、この異形を倒せば彼女を助けられる――。
「抜け、中将」
行者の鋭利な声が飛ぶ。
「剣を抜け。闘わねば、誰も救えぬぞ!」
その声は腹の底を打ち、眠っていた何かを呼び覚ました。
こだまが身を駆け抜け、芳香が頭の霞を吹き払う。
ご武運を、と言った子。
母を慕う幼子。
黙々と歩く従者と牛。
屈託なく笑う久住さんたち。
友人たち。
父の温もり。
母の想い。
そして、あの旅装姿の
蓬莱天音に似た、降る白い花びらの中に立つ乙女――
体が動いた。
両足を軽く開き、左手で鞘を水平に持ち上げ、右手で剣の柄を握る。
――この剣を抜き、闘いを重ね、そして……
「
叫び、
剣を引き抜き、
鞘を後ろに引く。
――思い出した。
――これは、『
――最期を迎える前夜、賜った神剣だ。
記憶の欠片が輝き、目尻を熱く染める。
姿を現した刃は白銀の光を放ち、異形を威嚇する。
だが――異形たちは掠れた声を上げた。
「おにいちゃん……こわい……」
「めをつむろう……リクヤ……」
静かなる怒りが沸き、剣の切っ先を下げる。
倒すべき敵は、眼前の哀れな異形ではない。
異形を動かす『宵の王』だ――。
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