7話 三千宵(みちよい)の都
「はい……お初にお目にかかります。
名乗ろうとしたその時。
行者の長杖の丸まった先端が、口元を捉えた。
唇には当たらず、寸前で停まったが。
「おっと。よもや、そなたの国での『名』を名乗ろうとしたのではあるまいな?」
行者は、苦笑まじりに言う。
「ここは、死者の魂が行き交う『黄泉の川』を超えた地ぞ。親に与えられた『名』は禁句と心得よ。名乗れば肉体と霊体が切り離され、いずれ肉体は死を迎える」
「ええっ!?」
和樹は驚き、三歩下がって
物心ついた時に、岸松おじさんから教わった。
仏壇は、浄土と繋がっている。
ゆえに、そこには遺影や遺品など生前と繋がるものを置いてはいけない、と。
死者の世界と生者の世界は、不干渉の法則があるようだ。
和樹は安堵し、しげしげと行者を直視した。
影と化した顔から表情は伺えないが、敵意は感じない。
犬たちも、嬉しそうに付き従っている。
立ったまま挨拶した無礼を反省し、片膝を着いて頭を下げた。
「ご指導、ありがとうございます。私は、
「ほう……分かっているようだな」
行者は長杖を引っ込め、二度三度頷いた。
「さて……この地に何用かの? ここにはゲーム機もハンバーガーも無いぞ?」
素っ気なく言い捨て、回れ右をして歩き出す。
和樹は首を捻り、その後ろ姿を注視する。
行者は「百年ぶり」と言っていたが、ずっと霊界を歩き回っているのだろうか。
ゲーム機だのハンバーガーだの、当時の日本には存在しなかった用語だ。
が、追わない手はない。
せっかく、意思疎通ができる霊体と出会えたのだ。
蓬莱さんにしがみ付く悪霊の居場所が分かれば、トントン拍子だ。
「お待ちください、行者さま。僕は、友達を助けに来たんです」
すぐに追い越し、行者の斜め手前で再び片膝をついた。
「友達が悪霊に取り憑かれました。青白く光る腕が、胸にしがみ付いているんです。心当たりがあれば、お教え願えますか?」
「わしが知っているとでも?」
「父の霊体が現れ、僕が悪霊退治を頼まれたんです。父の導きで家の浴槽に潜ったら池に出て、この姿に変身しました。この霊界の事情は分かりませんが、友達を救いたいんです。でも、どこに悪霊がいるか見当もつきません」
思いの丈を語る。
巨大な月、一面の枯野、池。
奇怪な世界で、頼れるのはこの行者しかいない。
「ここは……『魔窟』と呼ばれておる。そなたの言う『霊界』とは違うぞ」
行者は立ち止まり、月を見上げて語り始めた。
「かつては、花が咲き誇る美しい国であった。民は米を作り、薪を割り、衣を縫い、日々を謳歌した。だが禍々しい力に呑み込まれ、今はこの有り様よ」
「……禍々しい力……?」
「邪念が地を貫き、人も獣も闇に取り込まれた。難を逃れた千人ほどは影と化し、地を徘徊しておる。己が何者かも忘れてな……」
「そんな……」
「死した者の魂は、『黄泉の泉』から川を下って霊界に行く。そして転生を果たす。そなたが池と呼んだのが、その泉だ。だが、闇に取り込まれた魂は泉に導かれることが叶わず、闇の
和樹は唇を歪め、身震いした。
三千年前と言えば、縄文時代後期だろうか。
大昔に、霊界を超えた地で災禍があったとは信じられない。
隔世の悪霊が、蓬莱さんに憑り付く理由も想像できない。
それに、行者と犬たちは自我を失っていないように見える。
「……その犬どもは、護りが強かったのであろう」
和樹の疑問を察したのか、行者は侘びしくささやく
「わしもな……。だが、
「そうでしたか……」
納得して頷いた。
ゲーム機やハンバーガーを知っている理由が分かった。
自分以外にも、この異界に迷い込んだ者がいたのだ。
だが――その人たちは、無事に元の世界に帰れたのだろうか。
訊ねようとすると、行者は唐突に振り向いた。
「そなた、剣を持っておるな」
「はい……なぜか、腰に吊るしいてます。でも、振ったことはありません」
「わしに付いて来い。王都に案内しよう」
「おうと?」
「この国の王宮があった街だ。わしのあばら家もあったが、今は街の門が閉ざされて入れぬ。わしの護衛を務めれば、国の話などを聞かせよう」
「は……はい。やってみます……」
護衛とは穏やかではないが、止むを得ない。
頼れるのは、この行者しかいないのだから。
和樹は、今一度剣を眺めた。
直剣で、木製の白銀の鞘に納められている。
銀粉が塗られたかに見える鞘は鮮烈に美しく、目を凝らすと細かな文様が見える。
金の
かくも美しい剣だと、今の今まで気づかなかった。
剣に何の縁もない自分が持つには、恐れ多い惚れ惚れする代物である。
ぼーっと見とれていると、小犬たちが袴に鼻を擦り寄せてきた。
行者と少し距離が離れ、速足で追う。
――ご武運を。
背後から、あどけない男の子の声が聞こえた。
振り返ったが、誰もいない。
枯草が揺れ、朱の月光にも染まらぬ澄んだ泉が輝いているだけだ。
空耳かと思ったが、行者から聞かされた悲劇が真実なら……
(……頑張ってみるよ……)
声の主に語りかけ、地を踏みしめ、前を向く。
*
*
「ほっほっほっ……クソ
透けた
形よい乳房を隠すのは、胸にかかる豊かな黒髪である。
身の丈より長い後ろ髪は畳を埋め、傍らの網かごの中には四匹の猫がうずくまっている。
大きさからして、母と子であろう。
「……お静かに……」
笑う女と向き合うのは、尼君である。
白と灰桜色の
肩の下で切り揃えた髪を揺らし、碁盤に黒の碁石を打つ。
寝殿の母屋で碁を打ち合う女たちは若く、そして瓜二つである。
間に鏡を挟んでいるが如く、同じ目と眉と鼻と口。
だが、片方は揚々と。
片方は、鬱々と俯く。
「
「はい、奥方さま」
四人が
「今宵も月は美しい……ここから
白い碁石を打ち、女は指で髪を
尼君は入れ替わりに月を見つめ、愛しき名をささやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます