第2章 初陣

6話 夜半(よわ)の里の行者

 血塊にひびが入り、花びらのように開いた。

 花びらを染めていたべにが流れ落ち、真白に変わる。

 

 べには渦を巻き、落ち行く彼の御魂みたまを染める。

 真白の花びらは粉雪のように散り、彼を包む。

 

 彼は目を凝らし、我が身を確かめる。

 広い袖がひるがえり、長い黒髪がたゆたい、重い得物が腰を引く。


 驚愕と懐古がせめぎ合い、記憶が入り乱れる。

 だが、向かう先は分かっている。

 この黄泉の流れの果てに……


 

 

 

「ぐはっ!」


 和樹は水面に顔を出した。

 飲み込んだ水を吐き出し、腕を伸ばす。

 指先に何か触れ、そちらに向かって水を掻いた。


 すぐに手のひらが土を捉え、無我夢中で這い上がり、膝をついて咳き込む。

 霊体離脱をした筈なのに、呼吸が苦しい。

 鼻から入った水を、鼻息で絞り出す。


 胸を押さえ、うずくまること数分――。

 ようやく呼吸が落ち着き、無意識に額にかかる前髪を払った。



「……髪……?」


 指の谷間に長い髪が引っかかり、そっと引き抜く。

 見ると、和服を身に付けている。

 霊体離脱をした時は、裸だったはずだが――


 両手を掲げて我が身を確かめようとすると、手が夕焼け色に染まった。


 夕陽かと思い、見上げた空は――現実とは異なっていた。

 

 漆黒の空に、金色の薄雲がたなびいている。

 そして、巨大な紅い満月が鎮座している。


 その異妖さは只事ならず――しかし、目が離せない。


 地平より少し浮き上がった月は、衝突寸前ではないかと思えるほど大きい。

 夜空の半分を覆い、血走った眼球のように禍々しい視線を地に堕とす。

 鳥肌が立ち、肩が自然と震え出すが――だが、強い引力を感じた。


 滔々とうとうと右手を掲げ、赤い光をつかむ。


 

「ここが……霊界なのか?」


 月に背を向け、周りを探すが、父の姿はない。

 一気に心細さが増し、足元の草むらを探る。

 虫の一匹でもいないかと期待したが、暗くて分からない。


「そうだ……水……!」

 

 池に浸かっていたことを思い出し、そこに這い寄る。

 八畳間ほどの大きさの池で、澄んだ水を並々とたたえている。

 魚がいる気配はなく、鏡に映したように鮮明に姿が映る。


「……これが……霊体の僕……?」


 改めて、己の姿を確認する。

 

 薄灰色の小袖と、裾の絞った紫色の袴。

 袖の広い羽織を二枚重ね着た装束だ。

 上の羽織は白銀色で、下は山吹色。

 裾は、地面に着くほどに長い。

 

 平安時代風の烏帽子を被り、腰まで届く髪を後ろで束ねている。

 そして、ソックスっぽい内履きに、ローファーに似た皮沓かわぐつ

 胸には、薄瑠璃色の勾玉を繋いだ首飾りを垂らしている。


 それら装束も髪も、いつの間にか乾いている。

 霊体ゆえの現象かも知れないが――ふと、腰に重みを感じた。

 

 ここで、袴の腰帯に吊り下がっている直剣に気づく。

 まさか、これで闘わなければならないのだろうか。

 

 この手の武具は、竹刀しか持ったことがない。

 一戸いちのへから借りた竹刀で、素振りをした程度だ。

 「エイヤッ」と念じて闘うとは思っていなかったが、よもや剣術とは。

 


「おい、冗談だよな……?」


 身震いし、剣から目を逸らす。

 再び、水鏡に顔が映り――変異に気づいた。

 顔の造りは『神無代かみむしろ和樹』そのままだが、精悍な雰囲気がある。

 それに、若干年齢が上がっているようにも見えるが――



「わん!」

「うえっ!?」


 背後から吠えられ、危うく池に落ちかけた。

 振り向くと――夕陽色の月光に浮かび上がった影があった。


「……柴犬か……?」


 目を凝らし、そのシルエットから判断した。

 大きい影が二つで、小さい影が二つ。

 小さい影たちは、尻尾を振っている。


「犬の親子かな……?」


 手を差し出すと、小犬たちはキャンキャン吠えながらまとわりつく。

 親犬たちは、吠えることなく頭を下げる。


 目鼻立ちは見えず、まさに『犬の形の影』だ。

 ここを彷徨さまよう犬の霊体だろうか。



(……人の霊体はいないんだろうか……)


 立ち上がり、四方を見渡した。

 犬のおかげで、少し落ち着きを取り戻した。

 

 犬たちは、人慣れしている。

 人に虐待されていなかった証拠だ。

 

(この犬たちを可愛がっていた人たちは……)


 意思疎通ができる霊体がいないか気配を探ると――風音が激しくなった。

 草を踏みしめるような足音が近づいて来る。

 明らかに、二足歩行の足音だ。



(人間……?)


 思わず、剣の柄を握る。

 ここは敵地なのだ。

 犬の親子を見て油断したが、あの不気味な腕の主が潜んでいるだろう。



「わぉん!」

 子犬たちが鳴き、ぽんぽん飛び上がる。

 親犬たちは、音の方角を見て腰を落とす。


 どうやら、敵意を持つ存在ではないようだ。

 柄から手を離し、音の方向をじっと眺める。


 

 それは、闇から抜け出るように出現した。

 白装束を纏った人物だが、顔や首や手は『影』と化した人物である。

 身長は低めで、やや腰が曲がった老人のように見える。


 老人が近づくと、子犬たちはその足に擦り寄った。

 老人は無言で、和樹を見上げ――「ほう」とささやいた。


 老人が自分を認識し、犬たちが懐いている様子に胸を撫で下ろす。

 無礼とは思ったが、しげしげとその姿を観察した。


 袖に、袖なしの上衣、手甲、袴、脚絆きゃはん

 着ている物すべてが白一色だ。

 頭に布を巻き着け、草鞋わらじを履いている。

 右手に、木を削った長杖を携えている。


「……生霊がここを訪れるのは、百年ぶりじゃな」


 老人の声はしわがれていたが、冴え冴えと響く。

 顎ひげを蓄えているらしく、口が動くと髭も動いて見えた。



「……あなたさまは……」

 

 訊ねると、老人はフッと笑った。


「ほうじょう……方丈の行者ぎょうじゃと呼ぶが良い。死にそこねの、ただの老いぼれ爺よ」

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