5話 魂響(たまゆら)の声
午後七時過ぎ――母の沙々子は帰宅した。
「ただいま~。ほら、オードブル頂いて来たわよ」
それは、『占いの館』恒例の社員クリスマスパーティーのメニューの一部だ。
ただし、「息子が待ってるから」と、参加せずに帰宅するのも恒例である。
今年は、酢豚・八宝菜・焼売・海老チリ・ごま団子が、二つのパックに綺麗に詰められていた。
和樹は座卓のノート類を片付け、夕食の準備をする。
「ナスとシメジの味噌汁を作って置いたから。とうもろこしご飯も炊けてるよ」
「ありがと。すぐに着替えるね」
「昼に、久住さんちのパーティーに呼ばれたんだ。バウムクーヘンも頂いたよ。転校して来たばかりの、蓬莱天音さんと大沢さんも来た」
「あら、こんな時期に転校生? 女の子?」
「同じクラスなんだ。看護師のお
「ふーん。昨日、転校して来たの?」
「うん。登校する時に、偶然に顔を合わせた。教室では自己紹介しただけで、面談に行っちゃったけど。母さんに話すのを忘れてた」
「そう……三学期は、三人で登校するのね」
母はそれ以上は聞かずに、仏壇のある和室に入って襖を閉めた。
昨日話しそびれたことを指摘され、心臓が縮まったが、何とか平静は保てた。
霊感のある母に、「転校生の肩に不気味な手が乘ってた」とは言いたくなかった。
ましてや、幽霊の父と巡り会い『彼女を守るために闘え』と言われたなど、絶対の禁句である。
(お
味噌汁を温めつつ、昼間の出来事を思い浮かべる。
「横浜に住んでたの。でも、ちょっと居づらくなって……叔父の家だったんだけど」
「横浜かぁ……ここは山に囲まれてるから、海沿いの街に憧れちゃう」
「いつかみんなで旅行しようよ。映画の舞台になってたクラシックホテル。あそこに泊まりたい」
「その時は案内するね。……
「いや、僕は遠慮するよ……ははははは……」
蓬莱さんに話を振られ、見つめられ――和樹は笑ってごまかした。
若手女優に似ているらしいが、確かに彼女の顔立ちは整っている。
肩にかかる髪は緩やかな曲線を描き、睫毛も長い。
紺色ワンピに白ブラウスのお嬢さまコーデだが、取り澄ました感じはない。
久住さんたちとすっかり馴染んだ様子で、屈託なく笑っている。
しかし……不気味な腕は、相変わらず彼女の胸元から動かない。
見せつけるように、青白いオーラを放っている。
どこ触ってるんだよ、と密かに睨んでも手は消えない。
それに、ミゾレの様子もおかしかった。
人懐っこい猫だが、隅のベッドから動かず、体を丸めていた。
上野にくっついていたチロの幽霊も、蓬莱さんが現れたと同時に姿を消した。
人よりも、動物の方が敏感なのだろうか。
汗ばむ手を何度もセーターの裾で拭い、味も分からずにケーキを口に運ぶ。
こうして、二時間半後にパーティーはお開きとなった――。
*
*
窓の外を、綿をちぎったような雪が舞う。
仏壇の水を取り替え、母子は和やかに夕食をとった。
いつもより遅い入浴を終えた母は、いつも通りに推しが出演した番組の録画を見始めた。
缶チューハイを片手にペンライトを振るのも、いつも通りだ。
その様子を確かめた後、和樹も浴室に入った。
急いで全身を洗い、浴槽に浸かると――花の香りと共に、湯が溢れ出た。
昨夜同様に、幽霊の父が浴槽の底から浮かび上がる。
「和樹……成績はどうだった?」
開口一番に父は訊ねる。
父親に成績を訊ねられ、構えていた心が少しゆるむ。
昨夜は、父もそんな余裕はなかったのかも知れないが……
「うん、志望校には滑り込めると思う。国語と社会で点数を稼げそうだから」
「そうか……」
「うん……」
「……」
「父さん。僕……悪霊を追い払いたい」
「和樹……」
「蓬莱さんが、僕の『運命の恋人』って言われたからじゃない。蓬莱さんにしがみ付いてた気持ち悪い腕を……放って置けないよ」
「……闘ってくれるか?」
「久住さんにパーティーにお呼ばれして……友達の大沢さんも蓬莱さんも、楽しそうだった。僕が頼りがいのある男だとは思わないけど、僕に闘う力があるなら、闘う。みんなに災いが降りかかるのを見過ごせない」
無邪気に笑う三人を思い出し、勇気を振り絞る。
ミゾレと、幽霊のチロにも危害が及びかねない。
そして、蓬莱さんのお
誰の涙も見たくない。
決心した和樹だが、父の口からは予想外の言葉が飛び出した。
「和樹。蓬莱さんに取り憑く悪霊は、この現世では退治できないらしい。悪霊たちの
「えっ!?」
想像を超えた展開に目を丸くする。
聖職者が悪魔と戦う映画を見たことがある。
戦う場所は、もちろんこの世だ。
人間が悪霊の
「そんな無茶な。絶対に無理」と首を振る。
が、父はその肩口に触れて諭す。
「だが、それ以外に手段がない。霊体離脱をして、悪霊たちの
「強い心……」
和樹は呟いた。
それに呼応するように、あの声が耳を揺らした。
「……中将さま……」
湯の底から聴こえた気がして、思わず浴槽の底を撫でる。
が、硬い樹脂があるだけだ。
父を見ると、怪訝な顔をしている。
今の声は、父には届いていないらしい。
そう、すべては昨日の朝に始まった。
蓬莱さんに出会い、平安装束の少女の幻を見て声を聴いた。
上野の愛犬の幽霊を見て、奇怪な腕を見た。
幽霊の父と再会し、悪霊退治を頼まれた。
何かが起きている。
ただならぬ事態が――。
「父さん……僕、闘うよ。霊体離脱なんて怖いけど、父さんのためにも」
和樹は、決意を固めた。
ここで拒否しても、異変が収まるとは思えない。
ならば、立ち向かうしかない。
「和樹……ありがとう……」
父は、眼鏡の隙間に指を差し入れて拭った。
「慣れるまでは、父さんが導く。さあ……手を」
父は、湯の中で両手を差し出した。
その手に触れたら、後戻りはでない。
母の不安そうな顔がよぎったが――父の手に己の手を重ねた。
父は瞼を閉じ、和樹も倣う。
温もりが交錯し、眉間に光が集まる。
光は膨らみ、体を駆け、
見ぬ記憶が、光の内に浮かび上がる。
母が、生まれたばかりの自分を抱いている。
父が、自分の小さな手をさすっている。
その幸せな姿は、スッと遠ざかる。
まるで、後ろ向きに落下したように。
「父さん……!?」
叫び、右手を伸ばして掴もうとした。
だが、おごそかな声に呑み込まれる。
――
――汝が
(……
ゆるゆると沈みつつ、上を視た。
遥か水面に、
水に、血のにおいが混じり始めた。
下を視ると、そこには血の塊がある。
それは卵子のようにも、ゆりかごのようにも視える。
『汝が名は、カミナヅキである……』
灼熱の痛みは、香る水が溶き流す。
彼は、
「我は、
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