4話 僕は闘う、大切な人たちの笑顔のために

 地球は回り、夜は去り、朝は訪れる。

 そこに生きる者たちの思惑など、宇宙の法則は気にしない。


 和樹の母も、いつも通りに『占いの館』に出勤する。

 占い師には、稼ぎ時期なのだ。

 昨日はテレビの生中継も入り、興味を持ったカップルが訪れるだろう。

 

「和樹ぃ~、今夜の歌番組も録画セットしてね~!」


 そう言い残し、母は定刻より三十分早く家を出た。

 静まり返った居間で、トーストとワカメスープ、ハムエッグとサラダを食べる。

 温かいスープを流し込みつつ、居間をグルリと眺める。


 座卓、灯油ストーブ、テレビにレコーダーにキャビネット。

 カレンダーに、状差しに、額縁入りの絵画に、壁時計。

 神棚、母の推しの縫いぐるみ人形、『金のなる木』の鉢植え。

 隣の和室には、仏壇と父の遺影。


 判で押したように、昨日と変わらぬ情景がある。

 けれど――


 振り向き、短い廊下の左側を眺めた。

 そこに、幽霊の父と対面した浴室がある――。


  

  *

  

  *


 

「ホントに……父さんなのかい!?」

 和樹は、震える左腕を伸ばした。

 

 濡れて額に貼り付く前髪、意外と筋肉が付いている胸元。

 写真と短い動画でしか知らない父と、狭い浴槽で向き合っている。


 だが――左手の指先は、父には届かなかった。

 いや――すり抜けた。


 SF映画の立体映像のように、指は父の肌にめり込んだ。

 氷のような冷たさを感じ、慌てて腕を引っ込めて湯に浸ける。



「すまない、和樹……」

 父の手が、和樹の膝に触れた。

「父さんは、いわゆる『三途の川』の中にいる。現世と霊界を結ぶ川だ。二つの世界の水が交わる場所でしか、お前に触れられないんだ……」


「でも……父さんの声も聞こえるし……見えるし」

「湯気のおかげだ。『三途の川』の水を引いた狭い浴室だから、どうにか」


 それでお湯が溢れたのか、と何となく納得しつつ、濡れた顔を手のひらで拭う。


「……触っても……いい?」

 和樹は、湯の下で手を伸ばした。

 父の腕に触れると――確かに、人肌の感触がある。

 冷たくもなく、弾力もあり……温かい。


「……信じていい? ホントに僕の父さんなんだね? 登山中の事故で死んじゃった神無代裕樹ひろきさん……だよね?」


 すると――湯の中で、父は和樹の手を握った。

 ひと回り大きな手が、きゅっと優しく握り返してくれる。


「お前と母さんには、本当に申し訳ない。苦労させてしまって…」

「会えて……話ができて……嬉しいよ、父さん…」

 

 涙が止めどなく溢れる。

 和樹は、父の命日にも泣いたことがなかった。

 

 物心ついた時から、「母を守らなければ」との使命感が芽生えていた。

 仏壇と向き合う母の後ろ姿が、あまりに小さく見えたから。

 


「でも、父さん。その『運命の恋人』って……」

 鼻をすすりながら訊く。

「悪霊に狙われてるって……まさか……」


 昨日の転校生を思い出すと、一気に涙が引いた。

 彼女の肩を掴んでいた不気味な手。

 上野のペットの幽霊。

 目の前に現れた父の幽霊。

 冗談や幻覚で済ますには、とうてい無理がある。


 父も、顔を引き締めて話し出す。

 

「蓬莱天音さん、だな。父さんにも、詳しい事情は分からない。ただ、上司の指示でこうしてお前に頼んでいる」

「……あの世で働いてるの?」


「霊界に来た人々の戸籍係みたいな仕事だ。報酬は、次の転生場所や境遇を選べることかな」

「……十四年も?」


「長く勤務すれば、より良い条件を選べる。まあ……いつかは、母さんには謝りたいけれど……」


 父は言葉を濁し、黙り込む。

 和樹は、その心中を察した。

 和樹が父と同じ立場なら、妻の再婚を願うだろう。

 妻の生活のために――。



「それより、父さん……」

「そうだったな、すまん」


 我に返ったように、息子を直視する。

「上司は、こう言った。『君の御子息に、彼女を狙う悪霊どもと闘うよう促して欲しい』と。どうやら、蓬莱天音さんは霊界にとって重要な存在らしい」


「そんなバカな。僕に、ゲームの勇者の真似をしろと? チワワの幽霊と、蓬莱さんの肩を掴む手は見たけど……この街で『悪霊大決戦』が起きるとでも?」


 和樹は呆れ、父を凝視する。

 確かに、母には霊感がある。

 だが、霊感とは無縁な中学生に『悪霊と闘え』とはあんまりだ。



「和樹、父さんは明日の夜も來る。その時に、闘う方法を教える」


 そう言うと――父は、浴槽の中に沈んだ。

 止める間もなく、まるでエレベーターで降下したように消えた。

 同時に、満ちていた花の香りも収まる。


 数秒のうちに、浴室は見慣れた情景に戻った。

 湯の量もいつもと変わらない。

 ウトウトして、父の夢を見たようにも思えるが……。

 

  

  *

  

  *



「どうしようか……」


 食器を片付けながら、昨夜の突飛な出来事を思い返す。

 悪霊と闘うなど、無理難題すぎる。

 「エイヤッ」と念じて悪霊が退散してくれるとでも言うのか?


(……悪霊退治の漫画ってあるかな?)


 そう考え、居間に戻ってスマホを見ると――メッセージが届いていた。


『午前11時。ケーキがあるから来て』


 発信者は、久住さんだ。

 クリスマスケーキだと思い、ありがたく伺うことにした。

 両家は家族ぐるみの付き合いで、男手が必要な時は、父親のなおさんの手を借りている。


 すぐに返信し、壁の時計を見た。

 午前11時まで、あと二時間ある。



  *



 そして――指定の時間まで、あと三分。

 

 和樹は、少しシックなグレーのセーターを着て、隣家のインターホンを押した。

 近くのスーパーで買った、菓子箱を持参している。

 さすがに、クリスマスイブに手ぶらはない。

 飼い猫のミゾレのために、サーモン味とマグロ味のパウチも買った。


 けっこうな出費だが、貯えはあった。

 たまに訪れる母の伯父が、そっと金一封を手渡してくれるのだ。

 それらは大切に仕舞い、必要に迫られた時に少しずつ使っていた。


 (岸松おじさん、使わせて貰いました)


 心の中で合掌していると、玄関ドアが開いた。


「ナシロくん、いらっしゃい!」


 ドアを開けた久住さんは、満面の笑みだ。

 白いセーターに茶色のジャンパースカート、白と黒のボーダーのソックス姿で、制服姿よりも幼く見える。


「こんにちは。お父さんとお母さんは?」

「お母さんはお仕事で、お父さんは出掛けた。パーティーを楽しみなさいって」


「パーティー……」

「天音ちゃんと真澄ちゃんが来てるんだ。さあ、どうぞ」

 

 久住さんは、無邪気に居間を指し示す。


 居間のソファーには、蓬莱さんと大沢さんが掛けていた。

 ミゾレは、片隅の猫用ベッドで寝転んでいる。

 

 そして――蓬莱さんには、例の不気味な手がまとわりついている。

 昨日と違い、骨ばった腕が、彼女の上半身に貼り付いている。

 たすきを斜め掛けしたように。


 

 この瞬間――和樹は、覚悟を決めた。

 

 自分に何が出来るか分からない。

 けれど、見なかった振りは不可能だ。


 彼女たちに災いが降りかかる前に、それを払おう。

 

 闘わねばならない。

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