3話 父の幽霊、十四年ぶりに帰宅する
「うあああああああああっ!」
和樹は絶叫して立ち上がる。
生徒たちは一斉に彼を注視し、副担任の刈谷徹先生も驚いて叫ぶ。
「何だ!?
「すいません、うたた寝して怖い夢を見ましたっ!」
言い訳が終わらぬうちに、爆笑が渦巻く。
野田先生は眉間にしわを寄せ、軽く腕を組んで
「
「はい、気を付けますっ!」
和樹は、顔を真っ赤にして着席する。
蓬莱さんは両手を握り締めて笑いを堪えているようだが、肩が重いとか感じていないのだろうか。
奇怪な青白い手に、右肩をガッシリ捉えられているのだが――。
眉の中央の『目が良くなるツボ』を押し、恐々と見つめ直しても、やはり青白い手は見える。
けれど、上野の頭にぶら下がっていたチロがいない。
気配も感じない。
不気味な手首を怖がって逃げたのだろうか。
(マジか……ホントに幽霊が見えるようになったのか?)
――自分は、母の霊感を受け継いでいたのだろうか。
とりとめのない不安だけが背筋を撫でる。
「では、先生は蓬莱さんとお話があるので、席を外します。後は、刈谷先生の指示に従ってください」
かくして、野田先生と蓬莱さんは速やかに退室した。
時期が時期なので、蓬莱さんの祖母を交えて進路相談をするのだろう。
「じゃ、出席を取るぞ。終わったら、体育館で全校集会だ。ピシっとしろよ」
狩谷先生は、歯切れ良く指示を出す。
体育会系に見えるが、音楽教師だ。
けれど、その声は和樹の耳をすり抜けて行く。
――以降の和樹の記憶は、曖昧だ。
体育館で校長の訓示を聞き、教室で通知表を渡され、長めの終礼後に、降雪の中を久住さんと下校した。
結局、蓬莱さんは朝礼以後は教室には戻って来なかった――。
久住さんは、これから母親とお出かけらしい。
彼女は、明後日から塾の冬期講習に参加する。
和樹はと言うと――動画サイトの『高校受験講座』を視聴するだけだ。
余計な出費は禁物だ。
しかし――人生の岐路で、とんでもない怪奇現象と出くわしてしまった。
「父さん……どうしよう」
仏壇の前に座り、父の遺影を手に取る。
父は、自分が一歳の時に世を去った。
大雪山系を単独登山をして、沢で変わり果てた姿で発見された。
写真家志望で、遺品となったカメラのSDカードには、色鮮やかな動植物が記録されていた――。
「……父さん……」
呼びかけても、父は応えてくれない。
気配は感じず、姿は見えない
上野のペットのチロは見えたのに、と愚痴も言いたくなる。
何にも集中できぬまま時間は過ぎ、午後七時に母の沙々子は帰宅した。
「どうだった? マキナくんのインタは撮れた? 母さんも映ってた?」
母は笑顔で、値引きシールが貼られた弁当をテーブルに置く。
「ほら、『いずみ屋』さんのメンチカツ弁当! 母さんのはカキフライね」
「うん。インタも母さんも映ってたよ。豆腐と玉ネギの味噌汁を作って置いたから」
「ありがと。すぐ着替えるね。あ~ん、いつかはマキナくんと共演したいな~」
沙々子は上機嫌で、洗面所に向かう。
幸い、息子の異変には気付いていないようだ。
やはり母には相談しない、と腹をくくる。
(そうだよ。見間違いかも知れないし……)
電気ケトルでお茶の湯を沸かし、コンロで味噌汁を加熱する。
録画した番組を観ながら、母子は和やかに夕食を摂った。
そして午後九時。
「……これで良し、と」
番組を編集してダビングし、音楽番組を録画したディスクと入れ替える。
入浴後に缶チューハイを飲み、ペンライトを振って推しの歌を聴く。
母の、ささやかなゴールデンタイムなのだ。
――早く大人になって、母に楽な生活をさせたい。
将来を考えていると、次第に異変の現実味が薄れていく。
「夢だったんだよ。受験勉強に集中しなきゃ……!」
小声で言い聞かせ、母と入れ替わりで脱衣所に入った。
「ふぅ……」
全身シャンプーで洗った後に、湯に浸かって息を吐く。
温かい湯でリラックスしたせいか、フワッとした眠気に誘われる。
「……べんきょ、べんきょ……」
眠気覚ましに唱えていると――違和感が鼻を突いた。
入浴剤は、無味無臭の物を使用している。
幼い頃は肌が弱く、蕁麻疹を発症することが多かったからだ。
なのに――浴室内に花の香りが漂っている。
桜の花の匂いに似て、どこか懐かしい――
「……変だな。お湯の匂いかな」
確かめるべく、湯に鼻を近づけると――湯量の変化に気付いた。
いつもは脇の上まで届いていたのだが、今は顎の下まで届いている。
(……お湯が増えてる? 入った時は、いつも通りに見えたけど)
立ち上がって確かめようとした時――突然、浴槽の底から湯が湧き出た。
溢れた湯は身体を持ち上げ、頭を濡らし、視界が覆われる。
(ぐえっ!)
鼻と口に湯が流れ込み、上下の間隔が失われた。
さして大きくない浴槽の中で、ありえないことが起きている。
が――たまたま伸ばした左手か浴槽の縁に当たった。
どうにかバランスを取り、足を付いて立ち上がる。
鼻と口の中の湯を吐き出し、瞼をこすった。
信じられないが、浴槽からはまだ湯が溢れている。
それが渦を巻いて、排水溝に流れ込んでいる。
呆然と浴槽を眺めていると――浴槽の中に人の姿が浮かび上がった。
膝元に、人の背中が見える。
それは――ゆっくりと上半身を起こした。
前髪をかき上げ、濡れた顔を手で拭っている。
その容貌を見た和樹は――息を呑む。
己と似た男が、浴槽の中にいる――。
「和樹……分かるか? お前の父の
湯の中から黒縁メガネを取り出し、耳に引っ掛け、唇に人差し指を当てた。
「落ち着いて……大声を出したら、母さんに聞こえるからね」
父を名乗る男は微笑んだ。
写真で見る父と同じ笑顔が、真正面にある。
幻なのか、夢なのか――
信じ難い光景だが、優しい笑顔に釣られて、波打つ鼓動は収まっていく。
和樹は股間を隠して、浴槽に腰を降ろして両足を抱えた。
湧き出していた湯は、いつの間にか止まっている。
「……父さん……なの?」
いまだ半信半疑で訊ねると、相手は頷いた。
「ああ。父さんは、『黄泉の川』を通ってここに来た。お前には、重大な使命があるようだ。お前の『運命の恋人』は、悪霊たちに狙われている。その悪霊たちを退散させるんだ」
――父は、想像を超えた言葉を口にした。
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