*9*

 きららは機織家に招かれ、お茶をいただいていた。

「この家に招くのは長い間、市のソーシャルワーカーと家庭訪問に来る有理香の学校の先生だけでしたわ。ですからお茶も普段私達が飲むものしか出せませんの。……ごめんなさいね。」

 初めて家庭教師としてお伺いしたときもよく似たやり取りだったわね―― ときららは1ヶ月前を思い出していた。

 市のソーシャルワーカー、というのはおそらく機織家がひとり親世帯だからだろう。

 自らの幼い頃を思い出しながら、きららはすすめられたお茶を啜る。

 今なら、ほとんど何でも話を聞けるだろう。

 きららは優海に問う。

「いつから、このように学校の勉強だけを重視するようになられたのですか。」

「それは有理香が小学校に入ってすぐくらいですわね。私立鳳凰ほうおう中学、貴女もご存知でしょう。」

 私立鳳凰ほうおう中学。

 家庭教師の一人として、きららも勿論知っている。

 中学、と今の話では呼ばれたが、正式な名称は『鳳凰中学校・高等学校』。

 このあたりでは、優秀な人材が集い、難関大学にも多数の合格者を輩出するとされる。

 平たく言えば、超エリート中高一貫校だ。

「ええ。存じております。その鳳凰中学がどうかしたのですか。」

 きららの返答に、優海は言葉をつづける。

「ならば話は早くて助かります。……お恥ずかしながら、私は高卒でございます。……私の元夫、有理香の実の父親は、鳳凰中学と高校から明紋大学、そして大学院も出て、とある機械工業の会社に就職しました。私と元夫は、そこで出会って結婚しました。最初こそあの男は優しいものでした。しかし、化けの皮なんてすぐに剥がれるものです。あの男は自分の年収や学歴、肩書を鼻にかけて私を下に見るようになりました。しばらくの間は有理香のためと思い離婚はしないと踏みとどまっておりました。ですが、有理香が小学校に入った頃、あの男はこんなことを言い放ったのです。……『お前みたいに学歴もない安月給は俺の言う事を聞いておけばいい』。」

「なんてことを! ……あっ、すみません……。」

 聞き終わるやいなや、きららは大声で叫んでしまった。

「ええ。怒っていただけてむしろ嬉しいですよ。もはやこの男とは家族では居られない。私はその日には荷物をまとめ有理香と家を飛び出しました。話が長くなりましたが、元夫がそんなでしたので、有理香には学をつけさせようと、どんなクズにも負けない女になって欲しいと、私は必死になっておりました。有理香も頑張ってくれたから、私は自分のやり方や信念は間違っているわけがないと、信じ込んでしまっておりました。」


 有理香さんは本心からお母さんのために勉強していた、そしてお母さんも心の底から勉強して学歴をつけるのが有理香さんの幸せだと信じていた。

 間違ってはいないかもしれないし、お互いがお互いを思っていたけれど、やり過ぎだ。


 きららは全てが腑に落ちていた。

「ちなみに職場は、相談して部署こそ離してもらいましたが、会社は同じところに今も勤めております。でなければ、石英先生への月謝どころかその日食う寝るにも困ってしまいますもの。……腹立たしいことに、あの男は出世はしているようですよ。いつか私達への仕打ちが明るみに出て、失脚するざまをこの目で見てやろうとも思っておりますが。ほほほ。」

「ずいぶん逞しい方でありますね。優海さん。」

 女手一つで娘を幼稚園から中学2年生、そしてこの先の成人まで育てようとしたら逞しくもなって当然だ、ときららは考えていた。

 ……私のお母さんもきっとそうだった。

「そうでも思わなければ、シングルマザーなんてやってられませんわよ。ほほほ。……あれ。石英先生。……ハンカチならございますよ?」

「え。……あ、ありがとうございます。」

 気づかない間にきららの目には涙が滲んでいたらしい。

「すみません。優海さんのお話を伺っているうちに、母のことを思い出してしまいました。……おおむね、優海さんと同じような境遇です。……今年の春の少し前に亡くなってしまいました。」

「そうだったのですか。お悔やみを申し上げます。」

「ええ。ですので私は天涯孤独です。……まあそれは置いておき。私は、父についてはあまり聞かされておりません。ただ母も優海さんと同じように、父のモラハラに耐えかねて、私を連れて家を出た。と聞いております。……元々、中学までは父は死んだと聞かされて信じておりましたので、ほとんど何もわからないですね。どこで何してるのか、気にもなりません。中学まではいじめられてばかりでしたけれど、高校や大学で友達は出来ましたし、今はこうして家庭教師としても楽しくやっていますよ。中学の時に優しくしてくれた、ある先生を目指しながら、です。」

 お互いの語りが済んで、場には穏やかな静寂が訪れた。

「石英先生。」

「はい。」

 優海の呼びかけにきららは答える。

「もし、お困りのことがございましたら、いつでもお声をかけてくださいな。お金はございませんが、お力にならせてくださいませ。」

「優海さん!?」

「お母さん!?」

 優海の発言に、きららも有理香もひっくり返ってしまった。

「ちょっと!? お母さん!? あれだけきらら先生を毛嫌いしてたのに!?」

 きらら以上に有理香の方が動転しているようだ。

「有理香。……ずいぶん久しぶりに、私は人を信じてみようと思ったわ。すごい先生を連れてこられたものね。貴女もだけど、私まで変えてしまったようですもの。この先生は。……石英先生はさぞかし良い先生になりましょう。」

「……優海さん。」

 優海はきららを見つめる。

 先生、私は貴女に一歩近づけたのでしょうか。――

 永遠の憧れである“彼女”に、きららは問いかけていた。

「もうすぐクリスマスですわね。石英先生。ご予定はございますか?」

 クリスマス。ご予定。

 そんなことを優海さんに聞かれるなんて、講習の予定を入れてくれという話を少し前なら想定しただろう。

 が、この文脈で聞いてくるとはどういうことだ。

 困惑しているうちに優海は続きを切り出した。

「今年のクリスマスは、有理香とゆったりと過ごそうと思います。……その晩餐に、石英先生をご招待します。」

 晩餐。ご招待。

「えと。それはどういう」

「たぶんね! お母さんはきらら先生に感謝してるの!」

 優海より食い気味に有理香が続ける。

「絶対来てね、きらら先生!」

 途中から有理香が流れを乗っ取っている。

「え、あ、……うん。行くよ。有理香さん。優海さん。」

 有理香に圧されながら、きららはスケジュール帳を確認する。

 午前中だけ別の子の指導が入っていたけれど、夜ならバッチリだ。

「……喜んでお伺いします。」

「やったぁ!!」

 なんだかとんでもないことになってきたなあ。

 と、数時間前の自分でも信じられないような展開に、きららは呆然としながらも喜びに溢れていた。


「……ところでそのサンタ服は着たまま帰るの?」

「あ。」

 有理香に言われるまで、きららはサンタ服を着ていることをすっかり忘れていた。

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