夢で見た光景

「レティシア! ……くっ!」


 一歩遅れて動き出したがすでに目の前にはレティシアの姿はなく。


「殿下!」

「セドリック王子!? そりゃ……っ」


 駆け寄るサイモンにブゥンと黒い斬撃が襲う。

 自分の左手からは黒い影により鋭利な刃が形作られ、さらに切っ先を増やしながら辺り構わず振り乱し始める。

 暴れる自分の腕を身を削られながらも体全体で抑え込むが、今度は自我を乗っ取らんと、上体への侵食を開始する。


(まずい、このままでは再び乗っ取られる……っ) 


 ぎちぎちと肉体を食い荒らされるような激痛が腕を這い上がり、意識を刈り取られそうになるが声を絞り出す。


「お前たちっ、今すぐ俺の腕を切り落とせ!」

「しかしっ」

「構うな! やれ!」

「っサイモン、押さえろ!」


 騎士二人に向かって叫ぶと一瞬躊躇するも、俺の言葉に衝かれヨハンの剣が一閃する。


「……ぐっ、うあぁ……!」


 ごろり、と激痛と共に切り離された腕は転がり落ち、黒い影が群がる様にその肉体を食い尽くす。

 やがて依り代を失った影はあてどなく宙を彷徨い始め、そのまま力なく霧散していく。


「く……くく、あっはっは! 僕の勝ちだ! 僕が消えても、この世界は……」


 断末魔のなか最期の言葉を残し、黒い影は完全に消滅した。


「レティ、シアは……っ」


 俺の腕に応急処置を施す傍らの男たちに声をかけるも応答はない。

 脂汗の滲む顔をあげ、彼女の姿を追うように眼前の泉に目を向ければそこにあるのは――


「なん、だ、これは」


 真紅に染まる泉。

 どこまでも深く、血のように赤く染まったそこは波紋ひとつ描くこともなく、水面なのかすらも判別できない。


「――異界門」


 誰ともなく零れた呟き。

 そんなバカな。あの魔族の執念が目的を成就させたとでもいうのか?


(ならば、レティシアは、レティシアは――)


 膝をついたまま呆然と赤い泉を見つめる。

 現実感のないその光景に意識が揺らぎ、最早自分が呼吸をしているのかさえ分からない。脈打つ鼓動と腕から伝わる激痛が遠いノイズのように頭の中に木霊しひどく騒がしい。


「レティ――」


 何かに縋るような悲痛な声が漏れたその時。


 ――ドッ、ゴォオオオン


 激しい地鳴りと衝撃音が鳴り響き頭上から瓦礫が降り注ぐ。


「セドリック殿下!」

「ちっくしょう! 今度は何だよ!」


 固まったままの俺を庇うヨハンとサイモンの奥から見えるのは、天井があったはずの頭上に広がる闇色の空と、


「おい、どういうことだこれは⁉」

「グゥアオウ!」

「見ての通りなのだろう」


 聞き覚えのある二つの声と大きな生物の嘶き。


「あに、うえ……っ」


 近づくその人影に声をかけるもそれ以上言葉が続かない。

 なぜ兄上がここに? その疑問を押しのけてこみ上げる感情。

 兄上なら――


「セドリック、アルフレッド、そしてお前たち。後のことは任せる」

「ルーファス⁉ まさかおいっ」


 ――どぷんっ


 それはあっさりと、一切の躊躇もなく。

 いつもと変わらない淡々とした言葉だけを置いて、その身は赤い泉の中へ消えた。


「ルーファス!」


 アルフレッド卿の声だけが遠のく意識に響いていた。


 ◇ ◇ ◇


(冷たい、いや温かい?)


 全身を覆う感覚に意識を集中するも、曖昧な解しか得られない。

 思考はできるものの視界は闇に閉ざされ静寂が辺りを包み、ゆらゆらとした浮遊感だけが意識に寄り添っている。


(浮遊? 浮いてるの? 違う、落ちたはず――)


 微睡みそうになる意識を無理やり掬い上げ必死に思考を巡らせると、途切れた記憶の糸の断片をつかみ、思い出す。


(そうだ、私は)

 

 脳裏に浮かんだのは、目の前で苦悶に顔を歪めるセドリック様。その眉根が、握り込んだ拳が綻んだ瞬間、襲った出来事。


(あれは魔族の欠片? セドリック様の内に僅かに残っていたのね)


 そう理解する前に胸を貫かれ、泉に落ちた。

 そうだ。私は刺され、沈んでいるのだ。


(セドリック様は大丈夫かしら)


 だというのに、思考は悠長に流れる。

 今はまず自分の身の心配が先だろうに。

 胸の傷を確認したいところだが、手足はまるで動かない。そもそも手足はついているのだろうか?

 感覚がまるでない手足に気付き、悪寒が走り息を吞む、が。


(息、してるのかしら? 苦しくはないわね)


 先ほどから揺蕩っているこの場所、冷たくもなく温かくもなくゆらゆらと、不思議と居心地はいい。

 もう随分と長い時間こうしている気がする。ここは泉の中ではないのだろうか。


(いけないわ、早く戻らないと。皆が心配するわ)


 戻る、どこへ?

 再び思考の中を弄り記憶の断片に触れる。


(そう、メリルとカインが晩餐の支度をして待っているんだもの、早く――)


 違和感に気付き、慌てて別の記憶に手をかける。


(違うわ。あれはそう、妖精よ。赤い目をした巨大で白いモフモフした妖精の大群が……これも違う)


 握っていた記憶の糸はいつの間にかバラバラと千切れ、手から零れ落ちていく。


(廃墟……泉で、ひび割れの隙間の先、傷ついた男の子が、泣かないで。泣いているのは……誰?)


 心に浮かぶ小さな二つの面影に懐かしさを感じ、目頭が熱くなる。

 実際には零れる涙も瞳もすでに朧気で、自分の体が形を保っているのかどうかも怪しい。

 私はこのまま消えてしまうのだろうか。


『また泣いてるのかい? そんなときはね、おまじないを唱えるのさ』


 不意に割り込んできた声にぱっと瞳を開くと、視界に光が溢れ、そのまま意識を包み込んでいく。

 ――やがて視界を取り戻し、周囲を見渡す。


(ここは、どこ?)


 よく晴れた空、足元には緑の生い茂る草原。遠くに見えるのは……グランドールの本邸で。

 庭に立つ大樹の木陰で誰かが呼んでるわ。

 慌てて小さな手足を一生懸命に振って跳ねる様に駆けだす。途中、土のこぶに足を取られ勢いに任せてころころと転がるも、すぐさま立ち上がり再び目的地を目指す。


『おばあ様!』


 甲高い声が響き、木陰の揺り椅子に腰かけるその人に駆け寄る。

 小さな体をいっぱいに伸ばしその膝によじ登ると、いつものように皺だらけの手が優しく頭をなで、赤く腫れぼったくなった瞼をそっとなぞる。


『また怖いものを見たのかい?』

『おばあ様、倉庫の暗闇の中にね、お化けがいるのよ! すごく嫌な感じがするもの』

『そうさね、じゃあ泣き虫さんにはお化けを追い払うおまじないを教えてあげようかね』

『おまじない?』

『そうさ。精霊様のお力で怖いものからあんたを守ってくれるのさ』

『精霊様? すごいわ!』


 おばあ様のその言葉でさっきまでの怖い気持ちが嘘のように吹き飛んだわ。

 まん丸く大きな瞳にキラキラと星屑を浮かべている私を見て、おばあ様は楽しそうに笑っている。


『でも精霊様って見えないでしょう? お化けとは違うのかしら……?』


 そんな考えがよぎると急に不安になり、また青ざめた表情に変わる。


『精霊様はね、あんたやばあやの遠い遠いご先祖様のそのまたご先祖様なのさ。ほら、あんたにはもうひとつの名前、真名があるだろう? それで精霊様と繋がっていて、いつも見守ってくれているのさ』


 もうひとつの……真名? 何かしら、最近聞いた気がするわ。

 そう疑問が首をもたげたとたんに、ぐにゃりと視界が揺らぐ。


『ほら、もうお行きなさい。あんたを待ってる人がいるんでしょう?』


 いつの間にかおばあ様の背を追い越し大人の姿になった私の頭を骨ばった小さな手でくしゃりと撫でる。

 おばあ様だったものはいつの間に闇に溶け、夢の世界から投げ出された私一人だけが暗闇の中に立ち尽くしている。


(そうだ、帰らないと。……帰るってどこに? 待ってる? 誰が、そもそも私は――誰?)


 浮遊感はもうない。その代わり、立つ足元が弛み、ゆっくり沈みこんでいく。

 重く足に纏わりつく感覚から逃げようにも、どこに行けばいい?

 辺りにはくぐもった音が反響し私の焦りを加速させる。


「――――!」


 必死に藻掻きながら、意識は鳴り響く音に傾く。

 違う、これは音じゃなく……声?

 次第にはっきりと輪郭を帯びていくその声には聞き覚えがあって、


「――――!」


 ずっと聞きたいと願っていたその声。

 判然としないその単語は何度も繰り返され、まるで私を呼ぶように。


「――――!」


 そうだ、それは私の名前。

 おばあ様から貰ったもうひとつの名前で、私の魂を形作る真名もの

 私の名前は――


「「ティーエ!」」


 二つの声がはっきりと重なったその時、すでに全身を呑み込まんとしていた足元の闇からずるりと引き上げられ、力いっぱいに体を締め付けられる。


(……温かいわ)


 懐かしい温もりと匂いを確かめる様に腕を回し、その人の胸に顔を埋めた。

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