第18話 いいんだよ、それで
色々ある。
気に入らない言葉ではあるが、人生だから。
たとえその言葉に重みを含ませることができなかったとしても、子供が人生なんて口にしてしまうような人生だから。
大きく上がったり下がったりする。
愛結が、かくん、と下がった時があるすれば、この日だったのかもしれない。
急な事だ。
悟からすれば間違いなく。
だが愛結にとっては、積もり積もったものが、一気に落ちたのだと考えられる。
目の前にいる誰かが懸命に生きているということを、しっかり認識することなんてできないのかもしれない。
「世界なんて滅べばいいのに……」
ひねらない、かすれたつぶやきが悟に届く。
前置きがないことが本音を示した。
聞こえなかったふりはできそうにない。
「……ごめんなさい。言うつもりなかったんですけど……いえ、ほんとに、言うつもりなかったのですが……」
「他人を害さなければ何を言おうが自由だ」
「気分を害しませんでしたか」
「まったく」
憚られると思う。
ただ、何があったか尋ねるくらいの権利はあるだろう。
「……君と同じ意味で、言っているかどうかは分からないが」
「……?」
大きく息を吸った。
そして、吐き捨てる勢いで、
「ああ、そうだ。世界なんて滅べばいい」
だが、悟の心が濁ることはない。
愛結を想う故だろうか。視線もむしろ上を向く。
「この世界は試練がたくさんだ」
生きているとどうしても人の醜さに触れる。子供なんだから伸び伸びとさせて欲しいのに、神様とやらはどうも許してくれない。触れてしまった醜いものはどうしたって嫌悪する。子供なのに、生きるのが嫌になることすらある。
「だが、言葉は行動が伴ってこそ力をもつ。小説でも見受けられるが、『人は醜い』と子供が言えば『発展途上』がでる。世界を渡り歩き、ありとあらゆる人に出会ってようやく、世界や人を語れる仙人になれるんだろう」
要は、凡人が言っても言葉に重みがない。
だれもが辛い想いをしている。
普遍した感情に誰かが強烈にひかれることはない。親しい者に愚痴を言ったとしても、慰められる程度だ。
たとえ、滅べと呟いても世界を滅亡させるラスボスは生まれない。
「だが、だからこそ俺は遠慮なく滅べと言う」
「……え?」
多少なり悟の声は低くなった。重みがあるかは微妙だろうが。
「滅べばいい、は何かを滅ぼさない。何も影響を与えないし、それこそ誰かを傷つけたりしない。だから、林道さんがそれを口にしてはいけない理由もない。いくらでも言えばいい」
簡単なことだ。
いい、のだ。
「シンプルに考えろと、林道さんも教えてくれただろう。強いて言うなら、空を向いて言えばいい。大声で叫べるなら尚のこといい。辛い想いを吐き出すのは幸せになるため。そう言い切って何が悪い」
「……はい。ありがとうございます」
「滅べばいい。世界なんて滅んでしまえばいいんだ」
不快感を抱く者がいたとしても、それはもう受け流さない当人の問題。刃物で刺したわけでもないのに責任を負うことはない。
まだまだ未熟な悟も、それは分かる。
「最近、肌寒くなってきた」
「……はい」
秋の虫が鳴く中で綺麗な夕焼けが見守っている。
しかし、時間が経てば必ず夜に場所を譲る。そうなれば黄昏ることは難しくなる。
愛結の吐き出した短い言葉。
だけど、彼女の『今まで』がなければそもそも、醜い、などと出ない。社会的に見て重みはなくとも、間違いなく想いは込められていた。
だからこそ、愛結は結局、元気にならなかったのだろう。
悟の語りはどうしても、愛結の言葉を聞いてその場で反応し、すぐに紡いだものだったから。
♦ ♦ ♦
それでも……次に出会った時、愛結が泣いていたのには驚いた。
強い雨が降っていたから、より辛そうに見えた。
目元をぬぐい、片方の手で表情を隠す。しかし歪んだ口は隠せない。遠目からでも分かる嗚咽は深呼吸を許さない。はっきりと項垂れた姿は初めてみた。彼女はいつも探していたから。
悟の足が完全に止まる。
幾度となく彼女の瞳がしっかり映る様を見た。
だが、途切れてしまったのだろうか。何かをきっかけにして、プツンと糸が切れてしまう様を悟は知っている。
(……)
あえて深い呼吸を繰りかえす。
余計を覚悟し、気遣ったハンカチを渡すくらいは許してもらう。
「こんにちは」
「……こんにちは」
正面から水たまりを踏み歩いても、直前まで気づかれなかった。ベンチまで来て、ようやく顔が上がったが、へばりつく髪と一緒にすぐ落ちてしまう。左のベンチの、さらに左端に座る姿が痛々しい。
真隣に、腰かけた。
「新たな道具の自慢をさせてくれ」
クーラーバッグから取り出すはスタンドだ。接合部を通じて傘と合体させれば、傘は足をもって自力で雨除けを担えるようになった。悟たちは雨の中での脱力が可能となる。
自らの力でベンチに立つ大きな傘。
愛結のことも一緒に守ってくれるだろう。
「心が懸命に戦った後にさらに雨に当たると、風邪と再戦することになる」
「あはは、相変わらずの言い回しですね」
赤い目元が笑ってはいる。
隣にいることは許されたらしい。焦る必要はなくなったので、雨がつくる静けさに身をゆだねるのも悪くない。傘から伝わり落ちるたくさんの雫が靴に落ちることもなさそうだ。
「何があったかは分からない。だがどうか、その涙で潰れないでくれ。すべての涙は悲しみを流すためにあるんだ。決して悲しみ潰えるためじゃない」
「……はい。……でも、どうすれば悲しみを流せますか?」
涙と嗚咽。頬や口をも、下へ下へ行ってしまって、四肢が力なく落ちている。
それでも、紐解きたいと思っているから言葉を発しているのだと思う。
「高い壁だ」
非情な現実がある。
悲しみという試練は、決してなくならない。
悲しむまいと意識するほど、できなくなるものだ。
「どうして……水野さんは強いんですか?」
強い、を見せた覚えはない。
――と、いうのは語弊がある。強くはないが、そう思われているだろう自覚はある。
強くない、と答えるのはある意味無視になる。
どこが強い? とはぐらかすこともしない。
それではないことくらいは分かるのだ。
「林道さん」
悟は語りだした。
こんな嫌な事があったんだ、と。
♦ ♦ ♦
よほど過去を後悔していたのか。
かつて、中学当初に悟が嫌がらせを受けたと知って、悟の母は悲鳴を上げた。
幼いころから習い事に触れさせ、何より愛情を込め、女手一つで育ててくれた母の方が、むしろボロボロに崩れていくようで悟は怖かった。
――もう絶対に辛い想いはさせない。
母は笑わなくなった。
最初に悟を無理やり連れて行ったのは都会のボクシングジムだった。強くなること。朝昼晩と食事を改善し、栄養を蓄えさせた。姿勢が心意気を決めると胸を張らせた。目線を正し、服装を整えれば舐められないと目利きする瞳が恐ろしかった。身体と心は一体だと、母は悟に強くなることを強制した。強くなりさえすれば何も心配はいらないと。
母は、心の痛みなど絶滅すればいいと思っていた。
母は、他者を平気で傷つけるクズは死ねばいいと思っていた。
……よほど、過去に後悔することがあったのか。
しかし、
――ああああああああああああああああ、と悟は叫んでしまった。
それが母の愛情ゆえだと分かっていても、結局悟は、母からの強制に耐えきれなかった。嫌がらせを受けた学校では耐えられたのに、母の前で壊れるなど皮肉にも程がある。
はつりめていた何かがプツンと切れて爆発してしまった。もうやめてくれ、と。
数日後、悟の母は亡くなる。
自殺か事故かは分からない。謝って車道に足を踏み入れたという。電話一本で、悟の世界は真っ黒になった。病院に駆けつけ。最期に必死で手を握りしめた感覚が、母に伝わったかどうかは分からないままだ。
……そして本当に、本当に皮肉な話だ。
母が死んでからようやくやる気が出た。
単なる生活改善に留まらない。呼吸法からツボ押しに至るまで、あらゆることを試した。ゲームやマンガ、逃避として利用したすべての娯楽は、休息と食生活に入れかわった。こんな形で終わらせてたまるか。母をあんな顔で終わらせてたまるか。
母のかつての言葉が染み入るようになった。
『ないものはないのよ。心を正直に、シンプルにまっすぐに。ごちゃごちゃ絡ませることはない。ただ幸せになりなさい』
『できることを尽くすの。いま、できる、ことでいいの。そしたら開き直れるから。それは必ず活かされるということだから』
『軽い言葉を言ってならない理由なんてない。誰かを壊さない言葉を吠えて何が悪いの? 誇るくらいで叫べばいいの』
『すべての涙は悲しみを流すためにあるのよ。泣いたらダメなんて言う人を、休むことを逃げだという人を、お母さんは絶対に許さない』
母はずっと与えてくれようとしていた。
数年たって、母からの教え悟の解釈で落とし込めるようになったが、今でも胸中には母がいる。自信をもって言葉を発し、何かを言われても立ち直れるようになった。
皮肉な話だ。本当に皮肉極まりない。
強いと評されるなら、間違いなく母がくれたものだ。悟一人では、決して今の悟になることはできなっかった。
母との辛い思い出とその糧を、悟はこれからもずっと背負い続ける。
正しい悪いとかではない。
漠然としていても、悟は幸せになりたい。
誰もが思う願いだと思う。しかし敢えて言う。
悟は幸せになりたい。
♦ ♦ ♦
話し終わった。
意識せず手を握ったり開いたりしていたと気づき、ため息が出た。
「家で寝つきが悪い時、拒絶した時の母の顔が脳裏によみがえる。そういう時は枕元に置いてある『ボイスラビリンス』に吠えた」
愛結に右手を見せた。
ごまかしていたその手は震えている。
「母が言っていた。傷ついても引きずらない人はそれだけで幸せなのだと。あの頃と比べて立ち直りやすくなったつもりだから、そういう面では恵まれているのかもしれない」
「いえ……そんな……」
愛結が、汲み取ろうとしてくれているのが分かる。
気まずい想いはある。が、話したのは同じ目線になるためだ。こちらがさらけ出さずに、離れた場所から愛結に声をかけたって、どうせ虚しく消える。
だけど、話せば違う。
「今ここで、一緒に顔を上げよう。苦しいことがあった時、人は幸せに向かうチャンスをもらっている。苦しみなんて正直いらない。でも、苦しみがあるから幸せを実感できるのはものすごく悔しい事実だ」
「……」
「『生きていれば嫌なことは必ず起こる』――というこの世界にある最も嫌な真実。それに潰されるか乗り越えるかの二択なら、少なくとも前者を選ぶしかないだろう」
だから言った。涙を流しても潰れるなと。
それしかない。
幸せになるしかないのだ。
「……そうですね」
愛結は目をはらしながらも、口元を微笑ませた。
「心はともかく、顔をただ上に向けることぐらいは楽勝ですね」
「そうだ。二人なら楽勝だ」
人間の脳は、時間が経つにつれて出来事を忘れるようにできているという。
トラウマになってしまって簡単にぬぐえない場合もあるが、当時のショックと比べれば、時間がたつことに少しずつ少しずつ和らいでいく。
何があったか、無理には聞かない。
今日、愛結に何かがあって、彼女は苦しんだ。
程度の大きさなど関係ない。彼女にとってとても苦しいことだった。
だから――空を見る。
たとえ空が雨雲だとしても首に力は入れられる。
土砂降りに鳴っても大丈夫だ。
二人で楽しむ力をもっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます