第9話 下がったとして……だから?


 


 愛結の元気がない。


 会って話す回数はそれなりになった。

 だからこそ、そんな彼女とも出会うことになったのだろうか。


 喉からこぼれる長い息。仰ぐ虚ろな表情。こめかみに触れる指先。いくつかの小さなサイン。


 悟は内心で唸りながら考えていた。

 小さな『つらい』というメッセージに、緊急性はないとみる。

 だがここ数回、必ずといっていいほど垣間見ている。愛結からすれば一か月近く悩みが続いているということか。


 踏み込むことに決めた。


「……学校で、自分がかなり嫌いになりまして」


 紙コップを手渡すついでに問いかけると、愛結は応えてくれた。


「最近クラスの同級生が嫌がらせにあっていたんですけど、自分がどういうふうに動けばいいか分からなくて、そのまま時間がすぎて何もできませんでした」


 人間関係。

 部外者である悟だが、目を細めた。

 関係の修復とは、当事者たち全員を納得させるということだと悟は考える。しかし、人間は各々の価値観が細かく違いすぎる。どこかで無理やり強制し、折り合いをつけることがほとんど。


「その言い方だと、多少なり区切りがついたように聞こえるな」

「そう、なんでしょうね」

「……」


 悩んでいる人を外から見ていると、悟は度々思う。

 自分を優しく抱きしめて、温かくなればいいのに、と。


 しかし、簡単ではない。どんな悩みであっても、悩んでいる者にとっての悩みは重い。

 神様が、そう定めたらしい。


「今、何を願っている」

「全部まるごと解決する素晴らしい方法を知りたいです。……いえ、違いますね。ただ、苦しいのを全部どっかへ消し去ってしまいたい」


 共感した。

 仕組みや段取り、過程はどうだっていい。とにかく何とかして欲しい。辛いのは嫌だ。幸せになりたい。

 答えが存在しないのも、定番である。


「子供でも分かる真理がある。未来はどうなるかわからない、だ。嫌がらせをしている子をぶん殴ると報復が返ってくる可能性がある。親の権力や、身内への脅しも飛びこんでくる。世界を滅ぼそうとする大魔王は正しいかもしれない。全部なくしてしまえば、苦しんだり怯えたりする必要がどこにもなくなるから。未来を想像しようとすると、不安を手に入れることになる」


 それでも、愛結にむけて『辛いな』という一言で終わらせたくはない。

 頼ってくれたのだから。


「だったら――『今』しかない。やりたいようにやる、しかない」


 頭を回転させる。

 こほんと悟は整えて、伝えたいことを正しく伝えられるよう喉を控えさせた。『今は準備する』も立派な今である。


「なんとか、ならないですかね……」


 彼女の声がかすれだした。

 ありきたりは、届かないとよく分かる。


「すこし聞いてくれるか」


 悟は自身の引き出しを開ける。

 過去の記憶をもってくる。


 今でも忘れることのできない。七年前のたった数秒間の光景。

 それをあまり重く抱き過ぎずに、ぽんっ、と出す。



 ♦︎ ♦︎ ♦︎



 十歳の頃だ。

 父親に頭をぶっ叩かれた。


 叩かれた原因を覚えていない。手が振りあがったのは一瞬な気がする。父の顔がこちらを睨んでいる。


 痛みだけは、覚えている。

 欠片も違えず感じ取れる。


 悟はキレた。直後、父親に反撃した。掌底もどき、だった。怒りのまま、やめろ。やめてくれ、と嘆きながら、握れなかったこぶし。父親の頬をかすめた。

 父親は、また悟の頭をはたいた。


 痛みだけ、覚えている。


 腕を押さえつけられ、無理やり椅子に座らせられた。

 拒絶を、覚えている。

 やめろ。やめろ……!



 ♦︎ ♦︎ ♦︎



 今では決着がついている。

 そこまで苦しい過去ではない。


 悟はその後も、二、三つと、過去のエピソードを愛結に話した。


「林道さん、かつての俺は滑稽だろうか?」

「……どこが、滑稽なんですか?」

「そうだ。どんな理由があって、どんな行動になって、どれだけ恥をかいても、決して馬鹿にするようなことではない。決して」


 どのタイミングからだったか。

 愛結の瞳が濃くなっていった。


「一方で、自尊心や傷ついた心はそれを否定する。程度はあれ、どんな人もそういう自分を認めない」


 最初に理屈を言い、後で感情をぶちまける。悟にはそういう口癖があった。

 今回も変えはしない。


「そんな『辛い』『苦しい』を、ぶっ倒してやりたいと思わないか。傷つくよりも、勝った方が、ずっとずっと楽しい」


 故意にでも目を血走らせる。

 人は、過去の行いを見直す。そして、他人からの非難や自責の念には攻撃的なパワーがある。負の感情には潰す力がある。だからこそ、思い出したくない過去の出来事を見直すときは呑まれやすい。


「打開策は、こちらも感情でぶっ倒してしまうこと」


 悟はそう抱いている。


「もし傷つかなければならない理由があるとすれば、それは――傷つくという人類最大の難関をぶっ飛ばすためだ――そんなふうに突っ込んでいっていいと思わないか。そっちの方が一千万倍面白い。自分の負に打ち勝つことは、俺にとって人生最大の目標だ」

「……」


 これをこうして、あれをああすれば解決する。そんな段取りは用意されていない。

 でもやはり、辛いのは嫌だ。

 死んでたまるか。自分が悪いかどうかなんて知るか。

 ただ、立ち上がりたい。ぬ


 悟は、そう伝えた。


「少し休んで、一緒に頭を冷やそう。分からないことだらけだが、思いつめるのがいけないこともこの世の真理だから」


 無理しすぎないほどに考える時間を、愛結に作ってあげたい。いつものように紙コップの飲み水がクッションになってくれればいいのだが。


 クーラーバッグをあさる悟の手は、しかし、愛結の言葉で止まる。


「どうして話してくれたんですか?」

「同じ位置で話したかったからだ」


 とくに込めることなく返した。

 若いなりに悟も悩んできたが、大抵は自身で答えを出すしかなかった。本当に悩んでいる人に納得する答えを与えるのは難しい。


 それでも話した。

 何かにつながってくれと。



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