第8話 勉強に挑む


 


 ゴールデンウイーク明け。

 ここ最近、勉強が二人をつなぐ。


「水野さん、すみません。どうしても分からない問題があって……教えてもらうことはできますか?」


 遠慮は不要と、二つ返事で立ち上がる。

 膝に問題集を置いて大人しくしている愛結のそばによった。


 愛結の指さす内容は、数学の図形の証明問題。

 学習内容からして愛結は中学二年生らしい。


 カッコいいところを見せようと、悟は鼻をふんっと鳴らす――ことはない。事実をもとにできることをやるのが悟だ。


「その解答書も貸してくれるか?」

 悟は教師ではない。


『さすが先生!』

『この人は私たち生徒のことを考えて教えてくれる……!』


 ――と、威厳的な何かを得る必要はない。

 知的にみせようと意気込まなくていい。


 携帯のカメラで問題と、そして解答の部分を撮る。そしてまた右端のベンチへ。


 中学の問題とて侮ってはいけない。ならば、『もしもの時にそなえて解答を見てしまおう』作戦。大切なのは解答を分かりやすく伝えることに尽きる。


 ノートに書きこんでいく。


 問題の解き方だけではない。説明の仕方も含めて、だ。

 解き方を理解してもすぐには教えにいかない。話し方の段取りを整え、分かりやすさを磨き上げる。即座ではなく正確さ。

 日頃からクーラーバッグにノートを常備しているという事実と、今回のことは運命的な何かで結びついているに違いない。


「大丈夫そうだ、今教えて構わないか」

「もちろんです」

「なら、少し失礼する」


 そっと、愛結の隣に座った。


 使われるベンチが一時的に左端だけになる。触れそうになる互いの肩。居心地の悪さはなかった。緊張もさほどないゆえ、愛結もそうであればいいと願う。距離をとる契約があるわけでもないのだから、きっかけがあればこうはなる。


 柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。

 女の子とはやはり不思議であった。


「三角形の合同条件は覚えているという認識で大丈夫か?」

「大丈夫です」

「ならまず、証明する二つの三角形を同じ向きにする。そうやって見やすく書き出した後に、必要な条件を一つずつ明らかにしていく。最初は――」


 どうせ勉強するなら後で使いこなしたいというもの。


 解いていく過程で、そうする根拠を話し、最後に何をすればいつでも解答できるようになるか話す。愛結が分からない様子を見せたら、どこの部分か尋ねる。一歩一歩、確実に。

 これぞ、真心。

 同時に、対等な関係だと考える。お互いに協力して峠を乗り越えていく。


「ありがとうございます。とても分かりやすかったです」

「光栄だ」

「私のクラスの担任になってください。楽しく勉強できそうです」


 愛結の冗談がピリオドとなり心地よく終わった。

「なおさら光栄だな」と答えると、「半分本気ですよ」と愛結は微かに笑った。



 ♦ ♦ ♦



 人間はうにゃうにゃである。


 ゴールに向かわず、あっち行ったりこっち行ったり。それが積もり重なって高さをつくり、少しずつ上を目指していく。悟も例外ではないし、愛結も同じだろう。

 二人の会話もよく、ほいほいと階段を上らず面白いことになっていく。


 やることがなくなり悟の心身がぷらぷらし出したころ、愛結は「もう一つ聞いてもいいですか?」とどこか身を強張らせた。


「勉強は、楽しいですか?」


 彼女の右手が左腕を押さえている。

 緊張しているのだろうか?


 もし可能ならばこちらも時間を停止させて言葉を用意したかった。

 勉強を教えるのと同じように、言葉を組み立てられないのが悩ましい。


「俺は……、楽しくはなかった」


 断言。

 ここは、プラスへ、捻じ曲げなかった。


 言葉に力が欲しかった。

 例えすぎると曲がることがあるから。勉強の意味を探してさまよっている愛結に手を貸したいなら、ぶっぱなすのが一番だった。


「勉強が楽しくなりたいと常々思った。根っこから覆したいと。勉強が楽しいは人生が楽しいに等しい。将来社会で働くことになったとしても、同じことを思うだろう」

「はい」


 勉強する理由を探す時点で、嫌いだと言ってしまっている。それを承知の上で覆したいと思う。だって、その方が幸せになれるから。これ以上ない理由だろう。


「『意味』というわけではないが、授業やアルバイトをしていて切に学んだことがある。林道さんでも常々思っているかもしれないが」

「『まだこれしかたっていない』と思うのが一番つらい、とかですか?」


 互いの視線が確かな握手を交わした。


「そうだ。耐えようとすればするほど耐えられなくなる。だから今日の自分より明日の自分へ、常にやりがいをもって走り続けなければならない」


 相手を讃え、応援しているようだった。


「あくまで理想を言っている。ただ、目標という道しるべがあるのも確かだ」


 切り抜ける条件は分かっている。

 勉強を楽しめばいい。


 後はいかに手段を考え、つくすか。

 言うのは簡単だが、辛いのが嫌なら、やるしかない。


 とても難しいことだけど、

 叶うならば、やってみたい。


 そんな想いを共有していた。



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