第2話 単語調べなど滅びてしまえばいい




 んん……、と愛結が声を漏らす。


 友人になってから再び数日後のこと、学校帰りに悟が公園に向かうと、すでにいた愛結がベンチを利用して三冊の本をまとめて開いていた。

 代わる代わる読む本を入れ替えながらため息をついている。同時にシャーペンを走らせているが、動きを例えるなら亀であり、イラストで表すなら彼女の頭上からはモヤがでている。

 懸命な様子に悟は好感を抱くが、眺めて放置するのは冷たいというもの。


「英単語の意味を調べているんです」


 挨拶すると愛結は苦笑いをした。

 傍にある三冊の本。書き込み用のノートは愛結の膝であまり騒いでいない。

 左隣には、テーマであろうコウモリのイラストが添えられた英文の教科書がある。

 しかし、愛結が主に見ているのは英文でなく、教科書の下部にまとまっている新しく習う英単語の羅列ようだ。

 右隣には分厚くて重いアレが、どーん、と陣取っている。いい香りがするだろうそんな辞書も、勉強という面においては無限の文字の嵐。


 悟もれっきとした高校生。

 面倒な作業に辟易する気持ちは理解できた。


「宿題は他にもあるのか?」

「プリントが一枚だけ。ほとんど考えずにできる英単語調べから終わらせて、やる気を出し続けようとしています」


 愛結はまた両の手で頑張りだす。

 わざわざ公園にやってきて取り組んでいるのも、やる気を促すためか。

 ただ、ベンチにはカフェでいうテーブルが傍にいてくれない。両の腿を机代わりにするのは多少なり無理をする。姿勢も前のめりに縮こまっていて小動物のようなある種の可愛さがあるが、しゅっ、としていた方が健康的に良いともいえる。


「悪いが一瞬教科書を貸してくれるか」


 悟は作戦を練る。

 ここからいかに彼女に遠慮させず、こちらの望み通りにことを運ぶか。要は断られずに宿題を手伝うか。先の未来を読み抜かなければならないと、ポケットから取り出したスマホを有効利用する。


 英単語の羅列をカメラに収めた。


「撮った英単語は俺が調べるから、後で取引をしてくれ」

「と、取引ですか? いやでも……」

「あれは今から三年前のこと。当時の俺は若いなりに望む結果を出そうと、一生懸命に勉強に取り組んでいた」

「……えっと」


 愛結がまた困ったように苦笑いするが気にしない。

 こめかみに指先を当ててまぶたを細め、地平線を目指して遠くを見る。想いを馳せるような仕草は、愛結に割り込ませないためのバリアなのだ。

 前回のカクテルように勢いに任せて押し通してしまえ。


「英単語調べも当然あった。ノートに定規でマス目を引き、辞書に書かれている意味を抜き出し、きれいに収まらなければ消しゴムでやり直したものだ。……だが、ある時、それを母に手伝ってもらい気づかされた」


 そういえば今日はお互いに制服であると新鮮に感じながら、悟も学校用のかばんを探る。紙さえあればいいので、適当なノートに対象の単語を書きなぐる。

 これから検索に使うスマホは辞書と比べると非常に軽い優れものだ。


「『あ、これ勉強じゃなくて、作業だ』と」

「……」


 単語の調べを宿題とする教師は多いが、正直あらかじめ意味の書かれたプリントを渡すだけで事足りる。

 ならば過程など気にしない。徹底した速さ重視だ。加えて今は、二人で協力することによるモチベーション向上も狙う。


「共に助け合い、楽しいことに変えよう」


 胸の前で軽く握りしめたガッツポーズ。ナルシスト風味に寒気がでないうちに、携帯へと指を走らせる。

 視界の端で、愛結も同じように辞書をめくりだすのが分かった。先ほどよりは楽しそうに紙たちが音をたてる。考えてみれば、同い年の子が隣で勉強している光景はいくらでも見るが、年下の子となると非常にまれだ。


 がんばろう、と悟は思う。


「それで、手伝ってもらう見返りにわたしは何をすればいいんでしょうか?」

「こちらは古典の単語を暗記しなければならない。そっちの宿題が終わった時に、覚えきったかどうか確認をしてくれると助かる。任意の項目を読んでもらい、こちらが意味を答えるというテスト的なあれだ」


 単語の意味が書かれた部分を手で隠し、順に確かめるのが王道のやり方だろうが、ランダム答えられた方が習得できたと言える。それに、誰かに問題を出してもらう方が誤って答えを知ってしまうリスクを減らせる。

 愛結がコクリと頷いた。


「水野さんは、古典にあまり意味を感じていないのですか?」

「いや、ネットで調べれば古典をやる理由は挙げてくれる。納得できるものでもあった。しかし、俺にとっては効率よく取り組む方に魅力を感じた」


 意味調べ終了。

 書きなぐったノートの一ページを切り離すと、渡された愛結は瞳をぱちくりとさせた。時代を先駆する大いなる小型機械。その速さと有能さ驚いているのだろう。それでも「ありがとうございます」を欠かさない彼女は、多くの人に好かれていくに違いない。


「……こちらも終わりました」


 やがて愛結も息を吐き、プリントに走らせていたシャーペンを赤紫色の筆ケースにしまった。共にたどり着けたことが素直に嬉しい。


「ならば、乾杯だ」


 今日はクーラーバッグは持ち歩いていない。

 しかし、ビニールで包装されている紙コップのタワーは、学校用のバックにも常時備えられている。


「いえ、この前ももらいましたし、さすがに……」

「心配するな。水だ。加えて、自宅の浄水機から組んだだけの優れもの」


 五百ミリリットルペットボトルのタブをすべるように回す。絶妙な角度で傾ければ、水は小さくコップへ踊っていく。


「水は優秀だ。ジュースどころかお茶以上に他人に受け取ってもらいやすいのに、コスパがこの上なく良い。いや、コスパが良いからこそ絆を育めると言うべきか。喉が乾いていないなら、少量にしておくがどうする」

「は、半分くらいで……」

 以前と同じようにコップをもって立ち上がる。今回は、彼女も立ち上がって近づいてきたために、一瞬お見合いをした。三つあるうちの中央のベンチは、向かいあう二人に何を想うか。


 また、悟の頭に豆電球が出る。


「こういった作業系のものは、他の同級生たちと協力して一気にやってしまうのもありだな。それぞれ調べる単語を分けて後で照らし合わせる。一人の時と比べて達成感が桁違いだろう」

「そういうのって、時間よく集まれるものですか? それに誰かがやらなかったりしてこじれてしまったり……」

「べつに場所と時間は合わせなくていい。家でやって登校した時に報告する。うまく行かなかった場合も気にする必要はない。試すのは自由だ」

「……なるほど。機会があったら試してみます」


 水を飲み終えた愛結が再びこちらへやってきた。


「では、今度はわたしが手伝いますから、古典の教科書を貸してください」

「世話になる」


 その後のやりとりは十数分ほどで終わった。

 教科書が移動する度にお見合いをするのは、真ん中にいるベンチからすればうっとうしかったかもしれないし、もしかすれば面白かったかもしれない。


 二人が本に集中する真上では、空が青く輝いている。

 雨が教科書をしわくちゃにすることはないだろう。



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