第20話 大召喚
魔導協定標準時にして、午前三時十九分 ―――
グランベル城を背にする高台を前にして、シクザール帝国軍はグリューグ川を挟んだ対岸の中央に皇帝陛下の本陣を置き、既に壊滅した第一陣、第三陣を除いて、重装歩兵が中心の第二陣を中央前線に配置し、正規の騎士団である第四陣が広く左右に伸びるように布陣していた。
先程からぽつぽつと降り始めた雨はすぐに本降りとなり、哨戒兵達は篝火を魔法の炎に付け替えねばならなかった。
分厚い雲が覆い隠した夜空は暗く、星明りのひとつも見えない。
アルフォンスからの投降の呼びかけは空しく、毅然と整列した隊列からは戦線を離脱した隊の存在は感じられない。
「構えよ!」
声高に告げる声に、数万の大軍が一斉に武器を構える重音が鳴り響いた。
次の瞬間、高らかに進撃を合図する角笛が鳴らされ、前線の歩兵達が走り出す。左右から次々と航空騎兵が空へ舞い上がり、手にした弓矢をつがえて、高台に独り佇む人影に向けて矢を放った。
だが、放たれた矢が高台に到達することはなかった。彼の足元から立ち昇る濃いエーテル流が壁となって矢を阻んでいるのだ。
歩兵達は組んだ梯子を崖に立てかけ、それをよじ登って行く。だがそれらの試みは高台の頂上へたどり着く前に、どこからともなく現れた鳥人達に行く手を阻まれ、或いは梯子ごと倒されて墜落を余儀なくされた。
高台を回り込むつもりで駆けていた騎兵達は、崖を回り込んだ辺りで黒竜の群れに掴まれ、或いは火炎弾の放射を左右から浴びることとなった。
「怯むな!進め!!」
号令を発していた上官は、だが、飛来した黒竜に頭を掴まれてそのまま上空へと連れ去られ、そのまま、力任せにどこかへ放り投げられた。
雨でぬかるむ大地はシクザール軍の味方ではなかった。
足を取られてその場に倒れ込む兵の、その上を騎兵が駆けて行く。そこに見えている高台の少年ひとり、数万の軍が群がっているにも関わらず、誰も到達できないまま時間だけが過ぎた。
そうして。
魔導協定標準時にして、午前三時三十分。
星明りひとつない暗闇は、突如として眩い雷鳴によって切り裂かれた。
カッと空を裂いた光の後にやや遅れて轟音が響く。
これまでとは異なる大気の震えに、シクザールの兵達は呆然として空を見上げた。グリューグ川の対岸、奥深くで本陣を張っていたシクザール皇帝までもが、その不思議な光景をただ見つめるしかなかった。
遥か上空から鳴り響く、低い地鳴りのような音。
それに混じって教会の鐘のような、それも、多くの音階の異なる鐘が一斉に鳴るような音が響く。
数万の軍が見上げる中、切り裂かれた夜の暗闇の向こう側、まるで蜃気楼のように揺らめきながら光り輝く『何者か』が、今まさに顕現しようとしていた。
それは、
ひとつの環の軸の内側に別の環が回転し、その環のまた内側には異なる方向へと回る環が連なっている。ひとつひとつの環は独立して回転しているように見え、その実それら全てが、まるでひとつの生き物のように連動しているようにも見える。環は美しく滑らかで、天球儀に添えられた環のように一定間隔で彫りが刻まれている。
最も外側に位置している環だけは、どこにも触れておらず、二枚合わせになったそれらだけは回転ではなく、まるで時計の針のように、かちり、かちりと時を刻むかのように動いてる。二つの車輪が重なったかのようにも見えるそれらには、純白に輝く巨大な翼があった。
淡く輝き、燐光を放つ翼は十二対。
合わせて二十四枚の翼が、波打つように不規則に羽ばたいている。
あまりにも高濃度の魔素がそこに集約しているせいだろうか。
それの周辺は常に蜃気楼のように歪み、ゆらゆらと揺らめき、激しいエーテル流を起こしていた。環自体は金色に輝いているにも関わらず、そこから見える空の色は青から赤、赤から黄色、黄色から緑、緑から青と、絶えず変化し続けていた。
その不可思議な、これまでに誰も見たことのない光景は、シクザール軍はもちろんのこと、ヴェルシュテック平原から遠く離れた西の大国リュクスエドからも確認できた程で、戦場に近いシクザール本国や揺籠からは、目視でも光り輝く大きな環と翼を見ることができた。
それ程の、規模である。
高台に立つアルフォンス自身からも、強烈な魔素が立ち昇っていた。
彼を狙って放たれた弓矢を弾く程の強いエーテル流は、ローブの裾をばさばさとはためかせ、アルフォンスの赤い紅茶色の髪を巻き上げた。
逆立った髪を軽く振り払い、アルフォンスは眼前に広がる平原を見下ろす。
足元に集結した数万の大軍 ――― それを微塵も怖いなどとは思わなかった。
大地に刺した錫杖を抜き取り、くるりと回して地面と平行に掲げる。
「代償を、払ってもらいましょう」
そう、静かに告げる。
終ぞ見せたことのない好戦的な目が、シクザール軍を捉えていた。
魔導協定標準時、午前三時三十七分。
平原に鳴り響く鐘の音と共に、金色の環から放たれた光線が大地を裂いた。
高濃度の魔素による衝撃で、大地が抉れて土と共にシクザール軍の兵士達も持ち上がる。
どおおおおおおん、という音は光よりも後からやってきた。
その頃には地面が爆ぜるように隆起し、直後、高熱によって焼き払われた。召喚された地点に近い者は蒸発するかのように跡形もなく消え失せ、光線が過ぎ去った地点ではグリューグ川の水が一瞬で干上がった。
その威力は凄まじく、最初の一閃でシクザール軍の大半が戦闘不能に陥った。
戦意などという人間が持ちうる『心』の力ではどうすることもできない、圧倒的で理不尽ですらある力の発露がそこには在った。一閃で消失しなかった者のうち、騎兵や航空騎兵達は思い出したかのように進路を南へと取り、無我夢中で駆けた。運良く右舷に布陣していた騎兵は、辛くも次の一閃を逃れることができたが、元より山脈側に位置していた多くは中央前線を横切る形となったせいで、次の一閃をまともに食らうこととなった。
中央前線の歩兵部隊が蒸発し、最初の一閃を辛うじて防いだ皇帝の本陣はアルフォンスと正面から睨み合うこととなった。互いに最奥部となるが、位置関係は真正面である。本陣を構成する幕屋は吹き飛び、調度品なども木端微塵ではあったものの、それでも、なんとか一撃を耐えたのは、さすがは皇帝陛下と褒め称えるべきか。
多くの魔法士を犠牲にしたのだろう。
折り重なるように伏した彼等と、傷だらけで膝をつく騎士団、それに比して、マクダレーナはいくらか傷を負ってはいたものの肩で呼吸をしながらも、まだ気丈に立っていた。
「何だ、あの攻撃は」
そう呟いて空を睨んだが、アルフォンスにその声が届く訳ではなかった。
「生かしておく訳にはいかない」
錫杖を鳴らして、高く空を指す。
互いに魔素を縒り集めた。
狙いを定めたアルフォンスの視界に、シクザール兵の波が見える。それらは既に戦意を失い、戦う意思のないことを何とか示そうと、手近な布を穂先に巻いて、地面に座り込み、或いは横たわっていた。
光り輝く金の環がオオオオオオンと唸る。
「いけない!」
咄嗟に莫大なエーテルの波を地面すれすれに放って、召喚された者からの攻撃の軌道を変え、錫杖を大地に刺して、そこから干渉膜を構成する。アルフォンスを起点として濃い緑色の光が大地を包むようにして伸びて行き、煌く光の膜となってシクザールの兵達を覆った。
シュンと空気を切り裂く音と共に、軌道が反れた光の帯がシュテイル山脈を捉え、切り立った山が高濃度の魔素によって持ち上がった。バラバラと岩塊を落としながら浮かび上がった山の一部が、爆発するエーテル流によって灰塵と帰して行くのを、緑の光に護られたシクザール兵達は恐れ慄きながら見つめていた。
シクザールとグランベルとの国境線でもある山脈が、ゆっくりと海に沈んで行く。
それはまさに、神にも等しい力であった。
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