第19話 前触れ
城に急ぎ戻り、クリスを私室の寝台まで運び入れた。
傷らしい傷は利き腕についた、ほとんど掠り傷のようなそれだけだ。だが魔素の流れを視てみれば、そこから禍々しいまでの『呪い』のようなものが渦巻いているのがわかった。
普通の毒ではない。
おそらく、生き物の念を凝縮して作る邪法の毒だろう。
腕にまとわりついたどす黒いそれは、肩へ、体へと広がり、ゆっくりとではあるが確実にクリスを蝕んでいる。
解毒することはできるが、設備も時間もかかる。生き物を使った呪毒の類はアルフォンスは苦手中の苦手で、いっそ、自分で解毒するよりも揺籠に運んだ方が早く確実に解毒できると思われた。
「アル……」
熱のせいで朦朧とした様子のクリスは、額から大量の汗を流しながら掠れた声でそう名を呼んだ。
「苦しいですか。少し、冷やしましょうか」
「揺籠へ、帰れ」
「こんな状態のあなたを置いては行けません。それに、揺籠なら一緒に行きましょう、あそこでなら治療ができる」
「いいから、帰れ。お前だけでも」
話すのもやっとのはずだが、クリスはそれでも、ふわりと微笑んでみせた。
頬に触れようとする、その手を両手で握り締めて、アルフォンスは子供のように首を横に振った。
「嫌です、僕だけなんて帰れない。一緒に揺籠に行きましょう。国なんて、また、作ればいい。民は助けたじゃないですか。だから二人で、揺籠に居ればいい」
「駄々を捏ねるな。子供かよ」
くつくつと、クリスが笑う。
「子供でも何でも良い。僕だけなんて帰れません。あなたがここから動かないなら、僕もここに居ます。だから……」
アルフォンスはそこで言葉を飲み込んだ。
自分が何を言おうとしたのか、何を望もうとしたのかを、ようやくそこで理解した。
喪う訳にはいかないのだ。
「だから、何だよ」
「僕を、独りにしないでください」
「何だよ、そんなことか。まったく、お前はほんと強情だな」
わかったよ、と半ば諦めたようにクリスは言おうとした。目を閉じたままで、声は掠れて出ずにいた。指先が冷たくなった手を、アルフォンスはもう一度強く両手で握り締めて、それからそっと、胸の上に置く。
「心配いりませんからね。呪毒を停滞させるために、魔素の巡りを遅くしています。次に目が覚める時は、きっと治療も終わって、爽やかで美しい朝ですよ」
アルフォンスは優しく話しかけた。
「きっと、全部元通りにして、差し上げます」
それは自分への誓いに近かった。
大広間を抜けて、城門から外へ出た。
クリスの姿がないからだろう、黒竜達は城壁の上で翼を休めたまま動こうとはしなかった。
魔法陣を宙に描いて呼び出した赤い孔雀の背に飛び乗り、シクザール軍の前線が目視できるところまで来ると、無詠唱魔法で地面を隆起させ、高台を作ってその先に降り立った。地鳴りを聞きつけたシクザール兵達が俄かに慌ただしくなり、篝火から次々と松明に炎を移して行くのが見える。
ざああっと中央の隊が左右に捌けて、騎士団に護られた魔法士達がやってくる。
例の、水の膜による通信の準備はすぐに終わり、空中に不機嫌そうなマクダレーナの顔が映し出された。
『おや、そちらの王とやらはどうした? 毒にでも当たったか』
崖の上に居るのがアルフォンス独りだとわかった途端、マクダレーナの表情がぱっと愉快そうな笑顔に変わる。
それを、アルフォンスは自分でも驚く程無感情に見つめていた。
「よくお聞きください。すぐに軍を撤収し、以後、グランベルに対し如何なる戦闘行為も行わないのであれば、この度のことは不問にします」
抑揚に乏しいアルフォンスの声に、マクダレーナは一瞬、呆けたように首を傾げて動きを止めた。そうして、ひと呼吸の後には烈火の如く怒りを露わにした。腰掛けて居た椅子から立ち上がり、手にしていた磁器のカップを床に叩きつける様子が映されている。
『もう我慢ならぬ! 誰でも良い、あの赤毛の魔導師の首をここに持って参れ。持ってきた者には身分を問わず将軍の位を授ける』
「停戦も降伏も望み薄ですね」
『当たり前ではないか、お前など八つ裂きにしてもまだ足りぬ。このわたくしを軽んじた罪を思い知るが良い』
「思い知るのは、あなた方のほうですよ」
そこで一度、アルフォンスは言葉を切った。
「僕は望んで、人を殺したくはない。ですが、グランベルを踏み躙るというのであれば、僕は容赦しません。それがたとえ、世界のすべてを敵にするとしても」
するり、とアルフォンスが腰に佩いた剣を抜いた。
真っすぐに腕を伸ばしてエーテルを流し込むと、剣は瞬く間に姿を変え、錫杖と呼ばれる杖の形を取った。
それをそのまま大地に突き刺すようにする。
シャラン、と幾重にも連なった金環が擦れ合う音が響く。
「期限は、一刻。シクザールの民達も、よく聞きなさい。逃げるというのであれば、僕は追撃をしない。逃げる者は南の高台を目指すがいい。向かってくるというのであれば容赦はしない。一刻の間に、僕を倒そうというのも、不可能だと言っておく。逃げるか、死ぬか、よく考えることです」
『魔導師だからと小癪な。総員、構えよ!将軍どもはどうした、あれの首を取って参れ!!』
ぶつり、と通信が途絶え、水の膜が消失する。
アルフォンスは薄く笑った。
はなから説得できるなどと思っていた訳ではない。ただ、自軍の兵すら自身の魔法の糧にするような者に仕える民が不憫だと思った。先王バルトロメウスも、そしてクリスも、自身が民を庇うことはあっても、犠牲にすることなど絶対にないと言い切れる。グランベルでは考えもつかないことが、シクザールでは当たり前のように行われた。
氷柱の雨に貫かれた多くの兵を、マクダレーナは露程にも気に掛けていない。
だからこそ、選ばせてやりたいと思う。国に仕えることが全てではないのだと。
大地に深々と刺した錫杖を右手で握り締め、アルフォンスは全神経を集中させて自身と大地の地脈を結び付け始めた。
足元から順番に、自分という殻の内側だけで循環していたエーテルの流れを開放していく。体の輪郭がぼやけるような、そんな錯覚を起こす。アルフォンスという個の意識を保ったままで、エーテルの循環だけを大地と共有する。
その昔、生まれる前にそうであった頃のように。
すべての結節点を大地の地脈と結び付け、そこから更に、流れていた奔流を引き寄せて循環の方向を変える。自らの中に自然の莫大な力が流れ込んでくるのを確認して、アルフォンスはゆっくりと、召喚の為の魔法陣を構築し始めた。
***
地鳴りのような音が響き、それに続いて、狼が遠吠えをするような、それが何百何千と重なり合っているような不気味な音が広がって行く。オオオオオンという低い唸りが、まるで山彦のようにあちらからも、こちらからも、四方八方から鳴り響く。
グランベルとシクザールが鍔迫り合いをしている場所から程近い、ここ揺籠でもその異変は感じ取れた。
鐘の塔の主、エルシアは震え始めた大気と大規模な魔法陣を察知して、寝床にしていたソファから跳び起きた。
「イツセ!」
いつになく緊迫した声で名を呼べば、部屋の隅、暗闇の中からすうっと音もなく男が現れた。真夜中だというのにきっちりとクロスタイをし、白い手袋までつけている。
「こちらに」
「起こせる限りの全員を起こせ。干渉壁を張る」
「規模は?」
「どれくらいになるか、さっぱりわからん。下手すりゃ大陸ごと覆う規模になる」
「すぐに」
言うが早いか、イツセと呼ばれた男は文字通り影の中に消えて行った。
いくらもしないうちに、揺籠の外環を巡る大回廊に紫色の篝火が灯される。浮かび上がった白い環を起点として魔導師達が整列し、それぞれに思い思いの使い魔達を連れて魔法陣を宙に描く。
鐘の塔の尖塔から眩い光の環が広がり、魔導師達の描いた魔法陣を絡めとるようにして打ち上げる。それは揺籠の遥か上空まで昇った後、再度、大きく弾けるようにして夜空を覆った。
***
同じ頃、北の大国シクザールでも異変は起こっていた。
獣を思わせる唸り声と共に、幾度となく大地が震える。その度に宮殿のシャンデリアが大きく揺れて、軋んだ窓がガタガタと大きな音を立てた。
国内を警護する軍も、執政を始めとする内政官達すらも、今は皇帝に付き従って戦場に出ている。その
先刻、揺籠の魔導師を名乗る少女が陣中から将軍をひとり連れ帰ったとは言うものの、怪我の状態が酷く、残っていた治癒士が総出で治療にあたっていると聞く。
そんな中、閑散とした謁見の間に簡素な姿のマクダレーナが現れたものだから、官吏達は腰を抜かす程驚いた。
が、すぐさま、その若い女性がマクダレーナではなく、彼女の双子の姉であることに思い至った。思いは至ったのだが、官吏達の誰も、その名前すら思い出せずに「ああ」とか「ええと」と、言葉に詰まっていることを何とか誤魔化そうとしていた。皇族の名前を忘れるなど、マクダレーナであればその場で首が飛んでもおかしくない大失態だからだ。
額と言わず背中と言わず、全身に冷や汗をかきながら、官吏達は頭を垂れる。
それを軽く手で押し留めて、彼女―――エルネスタは困ったように微笑んだ。
「良いのですよ。わたくしはエルネスタ。陛下の姉にあたります。あなた達は内政官の官吏ですね」
静かな問いに、官吏達が「はっ」と頭を下げたままで答えた。
「どうぞ、頭を上げてください。宮殿に魔法士はどのくらい残っていますか」
「いくらも。治癒士が少し残っていますが、将軍閣下の治癒にあたっていると」
「わかりました。ではやはり…魔導師様の手をお借りする他、なさそうですね」
口元にそっと手を当てて、エルネスタは謁見の間の天井を眺めていた少女のほうを振り返る。
エルネスタと官吏達の会話など興味もないのだろう。
月の光を巻き取ったかのような、冴えた金色の髪を顎の辺りで軽く整え、黒い導師服に身を包んでいる。一目で揺籠の魔導師とわかるそれは、上質な聖銀の糸を水で縒り合あわせたもので、まるで竜の鱗の如く、あらゆる魔法に対して耐性を持つ。
「なんだ」
抑揚に乏しいが、鈴を転がしたような澄んだ声で少女は言った。ぶっきらぼうではあるものの、存外、人には親切であるらしい。
「おそらくは、大きな魔法攻撃があるのでしょう。都市を護る防衛障壁を動かしたいのですが、あいにく、わたくしでは魔力も足りませんし、今は魔法士達も戦場です。魔導師様のお手をお借りする訳には参りませんか」
「……わかった。手伝おう」
「ありがとう存じます。お礼は、国が助かりましたら、必ず」
「気にするな。エルシアからも手伝えと言われている」
無表情に無愛想を足して二を掛けたような表情で述べる少女に、エルネスタはにっこりと笑った。
「まぁ、それは頼もしいですわね」
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