第18話 ヴェルシュテックの悲劇
第一陣が壊滅し第二陣が前線となってしばらく、後方より飛来した氷魔の一軍に護られるようにして現れた氷竜の姿を夜空に見つけ、シクザールの兵達は歓喜した。
魔法士のローブに袖を通し、美しくも高価なドレスの裾を裂いた姿で竜に跨るのは紛れもなくシクザールの皇帝陛下であり、彼女こそが自分たちを鼓舞し庇護する存在であると、彼等は心から信じていたからである。今や最前線となった第二陣には多くの航空騎兵と魔法弓兵、そして魔法士部隊が陣形を成している。その上空に皇帝その人が現れたのだから、シクザール兵の士気は否応なく上がった。
ブウウウン、という空気の振動と共に、歓喜溢れる前線に巨大な魔法陣が形成されようとしていた。自分達の頭上に輝く魔法陣を見上げ、それがシクザール皇帝の成すものと理解し、彼等は一層自らを鼓舞した。ようやく、これからシクザールの反撃が始まるのだ、と。
進撃を意味する三連のラッパが鳴らされ、自在に空を駆けることができる様々な獣達がいくらかの助走をつけて、次々と夜空へ駆け出して行く。
弓兵達はそれぞれに魔法陣を形成する効果を持つ矢をつがえ、狙いを大型の黒竜に定めて号令を待った。その間にも魔法士部隊が立体魔法陣の形成展開の為に、基礎となる楔の構築を始める。
歩兵達は通常の戦闘とは違って、その大半が待機の命を受けていた。
槍や剣を携えた騎士達が魔法士の一団を警護し、周囲を警戒する。とはいえ、グランベル軍の中で、騎士達がまともにやり合えるのは地上に降りて来た竜ぐらいのものである。
だから余計に、頭上に眩しく輝く魔法陣の光を、多くの兵達が見守っていた。
自分達を護るものだと、信じて―――
夜空のただ中に留まる黒竜の背から、クリスはその光景を眺めていた。
右手に握った直剣の宝珠が彼の高揚を感じてか燐光を纏って仄かに熱くなる。
地表付近に広がる巨大な魔法陣の光は青白い。そこに美しい魔導文字が広がって行くのを見遣り、彼は対峙するシクザールの皇帝マクダレーナを睨んだ。
黒竜の傍に寄り添うようにして、赤い孔雀が長い尾羽を優雅になびかせている。
「皇帝陛下御自らのお出ましとは……歓迎ぶりに涙が出るな」
「冗談を言ってる場合ですか。あなた案外余裕があるんですね」
「王たるもの、見せかけだけでも常に威厳と余裕を持つべし、だぞ」
「お父上の教えですか」
「いいや、これは叔父上だな」
そんなことを言い合いながら、二人を目掛けて放たれる氷弾を剣圧で軌道を変えてかわす。視界を埋め尽くす弾幕のような氷弾が放たれたが、これはアルフォンスが水の膜を放って凍結させ、二人の下に辿り着く前にパラパラと細かな氷の塵と化した。
皇帝護衛の一団は前線の兵士よりも上級らしく、むやみに前へ出ようとせず、遠距離の魔法攻撃に専念している。氷弾による攻撃はそれ程脅威ではないが、相手の手数が多い分、避け続けることになる。
その合間合間に時折、槍を手にした将校らしい兵がじわりと間合いを詰めて一閃を入れてくるものの、数度撃ち合いをすると無理を重ねることなくさっと下がって体勢を整えていた。敵ながら冷静な動きに、クリスは思わず笑みを浮かべる。
「どうして笑ってるんですか、気持ち悪いですね」
「随分と良い兵が居るなと思ってな!」
「模擬戦ではないのですよ…。相手を称えている場合です?」
キイイインと甲高い音を響かせてシクザール兵の槍を受け止めつつ、アルフォンスは呆れたように言う。
そうしてから、弾いた剣を返して相手の槍を下から跳ね上げ、一気に間合いを詰めて横凪に剣を払う。が、これは槍の柄で相手に防がれた。今度は逆にアルフォンスの剣が跳ね返され、開いた胴を狙って槍が突き出される。体を
ガラスをやすりで掻いたような絶叫をあげながら氷魔がのたうつ。
制御を失って暴れる魔物を何とかなだめて体勢を整えようとする騎手に向かって、既に孔雀を下がらせたアルフォンスは容赦なく風の刃を叩きつける。無数の風に切り刻まれて、シクザール兵が氷魔と共に落下していく。
「すみませんね。僕は、クリス程余裕がないもので」
地上に落ちて行く敵兵に向かってそう呟き、アルフォンスは眼下の魔法陣に浮かぶ魔導文字を目にして、
「クリス!」
後方から飛んでくる氷弾を避けつつシクザール兵と剣を交えていた彼が、その声に一瞬気を取られた。シュっと鋭く空を切り裂く音がする。
相手の剣圧で裂かれた袖の下から赤い筋が見えた。
それだけで勝ち誇ったような表情をしたシクザール兵の首元を狙って、クリスが剣を横凪に振り払う。首を中程まで切られたシクザール兵は、だが、笑おうとしているかのような表情のまま、ぐらりと体勢を崩して氷魔から落下していった。返す刀で氷魔の首も切り落とし、直剣を振って血糊を落とす。
「危ねえな、おい。急にどうした」
「すぐに黒竜を下がらせてください。あの魔法陣、エーテル還元の術式が組み込まれているんです。近くに居ると危ない」
弓矢や魔法弾では傷もつかない竜の鱗だが、体内の魔素の流れを強制的に分解する魔法術式に対して、どれ程の耐性を持っているのかアルフォンスには判断ができなかった。四本爪の黒竜であれば、或いは、そういった術式自体を防ぐのかもしれない。だが、少なくとも竜騎兵の乗騎である三本爪の黒竜達では、術式の影響を防ぐことはできない可能性のほうが高い。
「還元ってお前、自軍の陣中だぞ?」
「わかりませんけど。事前に何か、防御用の魔法陣を持たせているのかもしれないですし、シクザール軍の者には反応しないよう術式が組まれているのかも。とにかく、早く下がってください」
アルフォンスの必死の訴えに、クリスは真顔でひとつ頷いて、黒竜の首筋を軽く叩き踵を返させる。
長い尾をしならせて反転する黒竜に、ここぞとばかりに魔法弓兵から矢が放たれ、夜空のただ中に網目のような模様が現れ、まるで追い込み漁のようにその網が絞られていく。絞る途中で竜騎兵達の乗騎の黒竜が網に引っ掛かり、苦しそうな声をあげてもがくのが見えた。
「面倒な」
「同感ですね」
二人の声に呼応するかのように、クリスの足元で黒竜が首をもたげて大きく息を吸い込むのが判った。
「おっと…」
体躯をほぼ垂直にまであげてから、黒竜は引き絞られて迫り来る網に向かって特大の炎を吐きかけた。首を伸ばして左から右へと凪ぐように吐き出された炎の柱は、夜空に光る網を伝って燃え広がって行く。焼き切られた魔法の網が炎を纏わせながら地上へ落ちて行き、網に引っ掛かっていた黒竜達が次々と夜空に放たれ自由を取り戻して行くのが見えた。
「よくやった、お手柄だな」
ぽんぽんと背を叩いて労ってやると、黒竜は嬉しそうに鼻を鳴らす。
そうして、何事も無かったかのようにクリスと黒竜が後方へと退避し、アルフォンスはそれに付き添いながら、地上の弓兵の動向を警戒していた。シクザールの航空部隊はあくまでも皇帝陛下の警護の為と割り切ってか、後方に下がる二人を深追いするような真似はせず、両翼に位置する部隊を僅かに前に出して以降は陣形を保ったまま留まっている。
だが、地上ではクリスとアルフォンスが下がった分だけ、前線が押し上げられているようだった。
既に土塊と還ったゴーレムの残骸を押しのけるようにして、第二陣の重装歩兵達が列を成して進軍している。その両側を固めるようにして地上騎兵が進む。彼等は元々第一陣が布陣していた辺りまで前線を押し上げると、そこで高らかにラッパの音が鳴り響いた。
先程まで第二陣が居た場所には、今は第三陣が布陣している。
彼等は二陣の歩兵や騎兵達と異なり、ほとんどが平服の上から、申し訳程度の胸当てを付け、腰には碌に手入れもされていないような剣を下げていた。切るというより叩き落とす為にしか使えないような、古びた装備を手にした、どう見ても間に合わせの兵達である。
彼等は自らの頭上に輝く魔法陣を恐れ慄きながら、不安げな表情で見上げていた。
重装の二陣と、後方の正規部隊である四陣に挟まれた彼等は、不安であっても、恐怖に怯えていようとも、戦場から逃げ出すという選択肢を取ることができない。グランベルに逃げ込もうと思えば二陣を越えねばならず、かといって戦場を退こうとすれば後方の四陣の目に留まる。
進め、止まれ、の二つの合図しか教わらずに戦場へと投げ込まれた彼等にできるのは、教わったラッパの通りに歩き、ラッパの通りに止まることだけだった。
その彼等の頭上に、今、光り輝く魔法陣が広がっている。
魔法陣の輝きが一層強くなった。
美しい光が魔導文字となって空中を走る。その美しい光を、どこか恍惚とした表情で歩兵達は見つめ、見上げていた。先程までの不安げな表情が消え去り、ふらふらと
第四陣前方に位置していた騎士達は、その光景を歯噛みしながら見つめていた。
三陣と違い、正規兵である彼等の胸には、魔法陣の効果を遮る為の術式が組み込まれた護符が階級章と共に下げられている。その命綱とも呼べる護符が淡く光を発し、それぞれの体を光の膜で覆うようにして、目の前の惨劇から護ってくれていた。
ふらふらと魔法陣へ向かって歩いて行く人の波に逆らって、襤褸を着た若者が飛び出した。
「助けてくれ、みんな正気じゃ……」
手を伸ばし、助けを求めようとした若者を、騎士のひとりが容赦なく切り捨てる。
それを合図に、第四陣の一線の騎士達が次々に剣を抜いて構えた。
生まれつき魔法耐性の高い者は、魔法陣の影響を受けないか、影響が出るまでに時間がかかる。ここから逃げようとする『自国の民』を切り捨てること、それが今の騎士達に下された皇帝陛下の命である。
そうして切り捨てた後、その体を引きずって魔法陣の近くへと放り投げる。
ふらふらと歩いて行く者達に紛れ、その体はすぐに魔素に還元されて魔法陣を構成する莫大なエーテル流となった。
どおおおおおおん、という派手な音を立てて幾本もの光の帯が夜空を貫くように立ち昇った。
大気を震わせるエーテルの奔流が夜空の上まで昇り、遥か上空で分厚く折り重なった魔法陣を展開する。
「来るぞ!」
アルフォンスはとっさに手を伸ばしたクリスの、その手を掴んで黒竜の背に飛び移る。黒竜が大きな主翼を畳むようにして体を護り、アルフォンスはその黒竜の周囲を護るように球状の魔法障壁を展開する。
カーーーンと金属を打ち鳴らすような音と共に障壁が貼られ、一瞬遅れて、夜空の遥か上空から怖ろしい数の氷柱が雨のように降り注ぐ。その大半はアルフォンスが貼った障壁によって阻まれ、いくらか、障壁をすり抜けた氷柱も黒竜の固い鱗によって弾かれた。
そうして難を逃れた二人の周辺で、自らが仕える皇帝本人の手によって構築された魔法陣の攻撃によって、撃墜された氷魔とシクザール兵が血に塗れて落ちて行くのが見えた。航空騎兵だけではなく、皇帝に随行していた上級将校達も無事では済まなかったらしい。
それよりも悲惨なのは地上部隊であった。
眼下に広がる第二陣は、まともに氷柱の雨を受けたらしい。それより後方の第三陣はまるで穴が開いたように人が消えていた。
「何を……」
絶句するアルフォンスのすぐ後ろで、クリスの体がぐらりと揺らいだ気がした。
めいっぱい体を捻ってクリスを仰ぎ見れば、額に大量の汗をかいている。
「クリス!?」
慌てて彼の体を支えた。
酷く鼓動が早く、そして熱い。
地上のシクザール軍の動向も気になるところではあったが、それよりも、とアルフォンスは黒竜の首筋に手を伸ばした。
「城へ戻ってください、クリスの様子がおかしい」
本来、主以外の命令は聞かないものだが、黒竜は事態を察してくれたのか、アルフォンスを乗せたまま全速力でグランベル城を目指し始めた。これまでどこに控えていたのか、両脇から十騎余りの黒竜達がすれ違うように飛び出し、二人を追おうとするシクザールの航空騎兵を撃ち落とす。
シクザール側もこの機を逃すまいと氷弾で応戦、追撃しようとするが、黒竜達はそれぞれに火炎弾を吐いて対消滅させつつ、深追いはせず、常に十騎余りがシクザール兵にまとわりつくように飛び交った。
「追え、逃がすな!」
後方からはそんな声が聞こえていたが、シクザールの必死の追撃も空しく、クリスとアルフォンスを乗せた黒竜はグランベル城の魔法障壁を越えて退避し、それを追うようにして、シクザールの兵にまとわりついていた黒竜達も次々と障壁内へと帰っていった。
自らも障壁を越えんとして、二人の後を追おうと近寄った兵を鋭い雷撃が掠めたのを見て、シクザールの将校達は歯噛みしつつもその場を引き上げざるを得なかった。
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