第17話 氷帝の逆鱗

 シクザール軍の幕屋の中でもひと際豪奢で贅を尽くしたそこに、軍装の襟を正してラファエラは踏み込んだ。

 布一枚を隔てただけなのに、魔法で管理された幕屋は温かく春の陽気を思わせる。

 まるで宮殿内のように贅沢な調度品で飾られた内部は、皇帝陛下の起居する場所として何の不自由もないようにとあらゆるものが揃えられている。

 巨大な幕屋の内側は数多くの衝立で仕切られ、天井には魔法で投影された星空が映っている。外の景色と連動しているのだろう。日中はおそらく、青空が映し出されるに違いなかった。調度品で飾られ、天蓋付きの寝台までもが持ち運ばれ、足元は絨毯で飾られた幕屋の内は、ここが戦場であることなど思いもよらない風情で溢れる。

 区切られたいくつかの場所のうち、謁見のために用意された場所で、ラファエラは静かに皇帝陛下の御成りを待っていた。

 そのうちにサラサラと衣擦れの音が響き、戦場だと言うのに、晩餐会を抜け出して来たかのような派手なドレスに身を包んだマクダレーナが姿を現した。

「ようやく、あの魔導師の首級くびでもさげてきたか」

 そう言って、マクダレーナは薄い絹織りの扇を口許にあてて愉快そうに笑った。

「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「勿体をつけずとも好い。首級が見当たらぬが、生きたまま捕らえたか?」

 機嫌良く革張りの椅子に身を沈めた彼女だったが、ラファエラの様子を見ると急に不機嫌そうに眼を細めた。良い報告ではない、と察したらしい。

「また大隊でも連隊でも壊滅したなどと、つまらぬ報告をしてくれるな。そのようなこと聞きたくもない。軍はお前に預けてあろう。才を以って動かし、必ずやあの魔導師をここへ連れて参れ」

「陛下に、恐れ多くも進言申し上げたきことがございます」

「言うてみよ」

 ぱたり、ぱたり、とマクダレーナは興味もなさそうに扇で手を軽く叩いている。

 ラファエラは自らが口にしようとしていることに、今更ながら体が震えるのを感じつつ、その震えが声に出ないよう努めて明瞭に話そうとした。

「これ以上の戦闘は、我が軍の損害が計り知れず。従いまして、恐れ多くはございますが、何卒陛下の民へのご寵愛をもちまして、グランベルとの講和を…」

 そこまで言った時、しゅっと何かがラファエラの頬を掠めた。

 掠めたものが当たったのか、それとも風圧だったのか、彼女の白い頬につうっと赤い筋が浮かぶ。だがラファエラはそこで物怖じ等するような性格ではない。

「グランベルとの講和をお願いしたく存じます」

 務めて冷静に、ラファエラは言い切ってじっと皇帝陛下を見上げた。

 マクダレーナは椅子に深く腰掛けて、左の肘掛けに半分体を預けたまま、薄く半目でラファエラを見下ろす。視線は酷く冷徹だったが、頬が怒りで僅かに紅潮しているのがわかった。

「先程の、言葉が聞こえなかったようだな?」

「何卒講和を。これ以上、無駄に兵を失う訳には参りません。既にいくつも連帯を失ってございます、陛下。何卒民に恩寵を賜りますよう…」

「わたくしに、意見を、するな」

 ぞっとする程の冷たい声が響いた。

 ゆっくりとマクダレーナは立ち上がり、膝を付いて頭を垂れるラファエラのすぐ前までやって来て、そうして怒りのままに思い切り彼女の顔を蹴り飛ばした。

 宝石で彩られた靴がまともに顔面を捉えて、ラファエラの体が後ろへ仰け反った。そこへ無数の氷弾が叩きつけられる。至近距離での被弾で、本能によるとっさの防御も間に合わず、ラファエラの体に幾本もの氷柱が刺さった。

 ごぼりと厭な音をさせて、彼女の口から血の塊が零れる。

 その、横たわったラファエラの腹を思い切り踏みつけ、マクダレーナは更に怒りに任せて四方八方へと氷弾の嵐を発生させた。その威力は警護の為に槍を携えた重装兵の鎧をも貫く程に強力で、身の回りの世話の為に仕える側用人などは、まさしく無数の氷柱に体を吹き飛ばされて絶命した。

 辺り一帯に血の匂いが漂い、何事かと駆け付けた警護の騎士が惨状を目にしてぎょっとする。

「剣を。もはや他人になど任せてはおけぬ」

 負傷した騎士達になど目もくれず、マクダレーナは言い捨てて幕屋を後にした。

 短刀でドレスの裾に切れ目を入れ、スカートを膨らませる為の骨を脱ぎ捨て、途中ですれ違った魔法士からローブを剥ぎ取って袖を通す。

 東の空に輝く魔法陣が見えた。

 そこから放たれる無数の稲妻が一瞬、空を明るく照らす。

「どれもこれも、忌々しい」

 吐き捨てるように、マクダレーナは呟いた。


     ***


「あいつら、バケモノか」

 傭兵部隊の中隊長として雇われていた男は、宙を自在に駆けて自軍の大隊を次々に壊滅させていく二人組を仰ぎ見て舌を巻いた。正規兵は女ばかりのシクザール軍に於いて、男が武器を手に天馬を駆って戦っているのは傭兵部隊だけである。昔のよしみで手を貸したものの、相手方に魔導師が付いているとあらば話は別だ。すぐさま中隊としての任務など手放して、近くの高台へと逃れた自分のカンの良さをとびきり褒め称えたい気分だった。

 案の定、魔法の詠唱を必要としない魔導師ならではの連続攻撃に、シクザール軍は手も足も出るはずがなく、瞬く間に部隊が壊滅していった。

「隊長、どうするんです。前金で半分はもらったといえ、脱走はへたすりゃコレですよ?」

 コレ、と言いながらおどけた調子の隊員は自分の喉を手刀で切る仕草をする。

「残りのカネよか自分の命だ、バカヤロウ。こっから近いのは揺籠だ。ほらさっさと支度しろ。全速力で離れるぞ。それと、いつまでも隊長なんて呼んでんじゃねえよ」

「ほいきた」

「それきた、あいあいさー」

「お頭もうこれでシクザールは出禁スね」

 ケタケタと愉快そうに笑う連中を引き連れ、男が天馬を駆って高台から飛び出したちょうどその頃、夜空をすれ違うようにして天虎てんこが優美な尾をしならせつつ駆けて行く。風が唸る程の早さのせいで、その背に騎乗している者の姿を確認しようとするよりも早く、虎の姿が小さな点になって夜空へ消えて行った。

「おい、お前ら急げ。嫌な予感がする」

 焦りを含んだ声色に、普段はおどけた連中が急に真面目な顔になった。

 こういう時、その予感が大抵大当たりすることを彼等はよく知っていたからである。一瞬顔を見合わせて、彼等はそれぞれに騎乗する天馬の首を軽く二度三度と叩いて急かした。

 ここから最も近い、砂漠の中央に聳える巨大な竜巻を目指して天馬は全速力で空を駆け風を掴むようにして翼を羽ばたかせる。

 その遥か後方でどおおおおおおんという爆音が響いた。

 衝撃の為か、それとも魔素の流れによるものか、背後から冷気が襲い来る。

 彼等が振り返っていたならば、空に輝く巨大な魔法陣から氷の雨が降り注いでいたのが見えただろう。

 その雨を避けて黒とも金ともつかない美しい巨体がしなやかに空を駆け、また、赤く燃えるような孔雀からは水の膜が放たれ、氷の雨を包むように固めては霧状に砕く光景も。

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