第13話 シクザール帝国
パリン、と派手な音を立てて豪華なクリスタルガラスが砕けた。
磨き抜かれた白い大理石の床にキラキラとしたガラスの破片が散らばってシャンデリアのように煌く。その美しさとは裏腹に、その場に居合わせた全員が冷や汗を垂らしながら極度の緊張の下、身じろぎひとつできずに縮こまっていた。
「三万もの兵を以てして、未だに障壁ひとつ落とせぬとはどういうことか」
戦況を記した巻紙を持ち帰った伝令はその問いに答えようにも答えられず、ひゅっと息を飲む。誰が見ても生きた心地がしない状況ではあるのだが、同時に、誰が見ても助け船など出せはしない状況である。
見るからに苛々と不機嫌そうな若い女性は、幾重にも豪奢な絹の織物を重ねたソファに深く体を預けていた。片方はひじ掛けにもたれ、右手は側用人が熱心に爪の手入れをしているところだ。
しかし、まだ若いと見え、この緊迫した空気の中で手元が狂ったのだろう。
やすりがけをしていた途中で女主人の指先を擦ってしまった。
「……っ!」
ちくりとした痛みと熱さに思わず小さく舌打ちをして、女主人―――つまり、シクザールの皇帝となったマクダレーナは、とっさに手を引き、そこから思い切り裏手で側用人の頬を張り倒す。勢いあまって足元に倒れ込んだ彼女の髪を鷲掴みにして揺さぶり、そのままに、目の前で小さくなっている伝令を睨みつけた。
「どれもこれも、忌々しい。命じたことすらできぬと言うのか」
吐き捨てるように言ってからマクダレーナは握っていた髪を乱暴に手放し、その代わりとばかりに、ぐらりと体勢を崩した側用人の肩を蹴り飛ばす。ぐうと低くくぐもった声と共に床に倒れたところに足を乗せ、優雅に足を組み直す。抵抗すればより酷いことになると良く言い含められているからなのか、先程割れたガラスの破片がその頬を傷付けていようとも、側用人の若い女は大人しく床に這い
蛮行と言っても過言ではない
口を挟めばその凶行が自身の身に起こることを、今や、シクザールの皇帝に仕える者達はよくよく理解していた。
「それにしても、魔導師とは腹立たしい。しかも赤毛の若い魔導師などと」
磨いたばかりの爪を歯噛みする。
苛立ち紛れに組んだ足をゆらゆらとさせるものだから、踏まれている側用人は苦しそうに呻き声をあげた。だがマクダレーナは足元に居るのが人間だとも思っていないのか、組んでいた足を解いた勢いのまま、側用人のこめかみ辺りに足を下ろす。まともに踏まれた衝撃で床に散らばっていたガラスの破片がじゃりっと音を立てた。
壁際に居並ぶ全員が思わず顔を背けて目を固く閉じる。
うっすらと鉄臭い血の匂いが漂った。
それでも悲鳴ひとつあげない側用人を
「興味が失せた。お前達は皆下がって良い。代わりに執政をここへ」
***
「無茶が過ぎる」
抑揚に乏しい声で少女は言った。
月の光を巻き取ったかのように冴えた白金の髪を顎の辺りで切り揃え、黒い魔導服に身を包んでいる。
向かい合うように座っているのはシクザール皇帝によく似た、だが随分と印象の異なる若い女性である。苛烈で傲慢さが見えるマクダレーナに対して、少女の前で深刻そうな表情のまま俯いている彼女は、繊細で儚げに見える。
名を、エルネスタと言う。
皇帝であるマクダレーナとは双子の『姉』にあたり、その生まれの為に半ば幽閉されるような形でシクザールの後宮奥深くの一室に起居している。
幼い頃には皇帝陛下の末の双子として公式の行事にも参列をした彼女だが、生来勝気で大人に対しても容赦のないマクダレーナに対し、体も弱く病気がちで、側用人達にすら遠慮のある気弱なエルネスタは、早い段階で皇位には向かないと判断され公式行事にも出なくなった。かと言ってマクダレーナの双子であるのだから、皇統転覆を狙うような良からぬ輩に利用されない為にと、大義名分を掲げたマクダレーナ本人からこうして幽閉のような扱いを受けているのである。
エルネスタを訪れるのは、ほんの僅かに残った側用人と、時折、揺籠からこっそりとやってくる魔導師だけである。今こうして向かい合っているのも揺籠からやって来た魔導師で、彼女は揺籠の長たるエルシアからの親書を携えて来たところだ。
親書の中身は至極簡潔に記されており、エルネスタに魔法の才があること、シクザールでの待遇は把握していること、身柄を揺籠で保護する用意があること、だが強制という訳ではなくエルネスタの意思を尊重することが美しい装飾と共に魔導文字で綴られていた。
本来ならば喜んで飛びつく内容であったが、エルネスタは決心がつかずにいた。
その要因は、妹である皇帝陛下が起こした対グランベルとの戦争である。
三万という大軍を将軍に預けたものの、短期決戦でカタが付くと思われた戦争はシクザール軍が優位ではあるものの、途中、グランベル軍が起動した立体魔法障壁によってすべての攻撃が防がれる事態になっている。その報せを受けてマクダレーナは怒りを露わに、更なる徴兵と編制を命じた。
諸外国には大国として見栄を張っているシクザールではあるが、その実、三万の軍はシクザールにとっても大軍であった。何しろ常備軍としては五万足らずの中からの三万なのだ。多くの国がそうであるように、シクザール帝国でも国内の治安維持は軍が担っている。常備軍の残り二万足らずのうち半分は、西にあるリュクスエドとの交易路の為に派遣されている。つまり、今は残りの一万足らずで警備や治安維持に当たらねばならない。
そこへ来ての更なる徴兵である。
予備役、退役問わず、適する全員を徴兵せよという勅命が下ったのが数日前のことになる。国内の動揺は大きなものではあったが、それを上回るのが皇帝マクダレーナへの恐怖であった。新帝として彼女が即位して以降、シクザールの民は勝ち気で大人に対しても容赦のなかったおしゃまな皇女がどれ程の非道を平然と行えるのかを痛感することになった。
小さな子供が大人をやりこめて得意げにしていた、その容赦の無さが自分達に向いた時、真実、何が起こり得るのかを目の当たりにしたのだ。
エルネスタとて勅命の報せを聞き、何度もマクダレーナに目通りを申し出はしていたが、勝気な妹は弱気な姉のことなど歯牙にもかけておらず、目通りが許されないまま時間だけが過ぎている。
だがいよいよ、マクダレーナ自身が軍を率いて戦地に赴くらしいという噂話を耳にして、ならばいっそ直訴を―――とエルネスタが口にしたところで、目の前の魔導師に「無茶が過ぎる」と窘められているところだ。
「しかし……三万でも大軍だというのに、次の徴兵では常備軍と同等に五万の兵を集めると聞きました。通常は軍役につかない男手も含めるとは言え、これ以上は国が滅びかねません」
それも、皇帝自らが戦地に赴くとあらば、どうあっても戦場は地獄よりも酷い有様になるだろうと予想できた。マクダレーナは人の命を数えない。彼女にとって歩兵の師団などチェスのひと駒に見えているのだ。
「それに、グランベルに圧を掛けて降伏を促すようなことはしないでしょう。陛下の狙いは、赤毛の魔導師だという、その人です。グランベルの王ですら眼中にないやもしれません……」
魔導師を取るために歩兵の犠牲が要る、と思えば、集めた五万が灰塵に帰そうとも迷わず送り出す。エルネスタはそう確信していた。
だからこそ、この出兵は止めなければと思うのに、自分にその力がないことが最も腹立たしかった。
「だから直訴をして止めると? 城から出てきた皇帝の前に飛び出して、自分が双子の姉だから無事で済むと思っているのか」
淡々と問われて、エルネスタは返答に窮した。
あのマクダレーナのことである。それが例え血を分けた肉親であっても、エルネスタが言葉を発するよりも早く手ずから首を刎ねるくらいのことはやってのける。そう容易に想像ができた。
「それは……」
「お前が自ら飛び出して直訴をするのは自由だ。それで首を刎ねられようと、お前自身はやるべきことをやったのだと満足だろうな。で? 何かが変わるか」
「……」
「お前はもっと
「したたか、ですか」
「この戦いは多くを失うだろう。お前は、国が立ち上がろうとする時に必要になる。直訴などをして無駄死にをするな。今のは揺籠の公式見解ではない。あくまでも、個人的な私見だ」
とってつけたように言って、少女はそれ以降黙ってしまった。
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