第9話 力の均衡

 突如現れた燃え盛るような孔雀に、誰もがぎょっとした。

 だがそれに敵意がなく、また、背に乗せているのが見知った魔導師であるとわかって周囲の緊張が解ける。

「お前も、もう少し働いてくれるか」

 僅かな音を立てて地面に降り立った少年に見える彼が尋ねると、巨大な孔雀はひとつ鳴き声を返して再び空へと舞い上がっていく。

 それを、周囲の者達は何か不思議な光景を見るように眺めていた。

 その静寂を破ったのは、こちらも少年に見える彼―――クリスだった。騎乗する黒竜を空中に留めたまま、大声で言う。

「お前こんなところで何してる」

 存外、咎める声色ではない。

「いけませんか」

「いけなかないけど。こういう時、お前ほんと強情だよな。念の為に言っとくが、俺も結構手一杯だからな、お前のことまで守ってやれないぞ」

「あの、僕、一応指南役ですが。時々忘れてませんか」

「そうだな、指南役だな」

 半ば呆れて、半ば楽しそうに笑って、クリスは言う。

 宙に留まる彼をめがけて氷弾が降って来る。が、それを巧みな剣捌きで弾き飛ばし、更に衝撃波を込めて返す。細かな風の刃が相手の氷魔を切り刻むのが見えた。

「いいか、無茶はするなよ」

 言い終わると同時にぐっと手綱を引き寄せ、クリスは黒竜を再び上昇させた。黒の上に七色の輝きを浮かべた美しい鱗が煌き、その体躯を優雅に翻す。

 アルフォンスはその夜空を滑るように駆けて行く姿を見送って、城壁の一角に登り、眼下を見下ろす。

 環状に広がる立体魔法陣の『底』が眩しい光を放っている。

 各塔からは網目の様に光がほとばしり、その外周を、渦を巻くように魔素の激流が昇っていくのが見える。

 ゆっくりとではあるが着実に、流れをならして滑らかにしているのだとわかる。

 アルフォンスは腰に佩いた剣の柄に埋め込まれた宝珠を無意識に指でなぞった。見届ける義務があるのだと自分に言い聞かせながら、眼前、遥か下方に広がる軍勢を見遣る。押し寄せる波のようなそれを、アルフォンス自身は怖いと思わない。蹴散らすだけの力が自分にはあるのだろうと、どこかでそれを信じている。むしろ、蹴散らすだけの力を持った自分自身に恐怖を覚えるのだ。

 人の歴史を左右しかねない力。

 それを自身が持つ『意味』を、アルフォンスは計りかねていた。

 バラバラバラ!と大きな物音を立てて雨のように氷弾が降り注ぐ。それらを難なく弾き返しつつ、アルフォンスはただじっとグランベルの竜騎兵達を目で追っていた。時折、助け船を出そうとしかけ、ぐっと手を握ってそれを我慢する。

 人の運命を、一介の魔導師ごときが左右してはいけない。

 その戒めは強く、固く、アルフォンスの中に楔の様に打ち込まれている。

 何度目かの氷弾を避け、曲芸飛行を繰り返すクリス達の動きを目で追いかけながら、直接的に迫りくる氷魔だけを叩き伏せていく。

 何時間、そうしていたのだろうか。

 氷魔の群れは倒された分だけ後方の本隊から逐次投入されているらしく、一向に数が減らない。さしもの竜騎兵達も休みなく飛び回っている所為で疲れが見え始めたように感じる。また、地上のグランベル軍も隘路を活用しているとは言え、休みなく数で攻め立てるシクザール軍相手に防戦一方であることには変わりなく、こちらもまた兵達に疲れが見えていた。立体魔法陣は魔素の巡りが高まりつつある。だが、展開完了まではいま暫く時間を要するのだろう。

 あとどれ程かかるのだろう―――アルフォンスは負傷した竜騎兵に回復魔法をかけてやりながら、そんなことを思っていた。

 その時である。

 シュン!と耳元で空気を切り裂くような音がした。

 アルフォンスのすぐ傍を通り抜けた何かが、そのまま一直線に後方へと抜けていくのを感じる間もなく、ぐうっとくぐもった声が背後から聞こえた。

 反射的に振り返れば、陣の中央、立体魔法陣を構築する要となるはずの魔法士が右肩を吹き飛ばされてゆっくりと宙に投げ出されている姿が見えた。氷弾なのか、それとも衝撃波なのか、抉れたように穴の開いた肩から、放物線を描いて赤い液体が舞い散っている。

 どさり、と音を立てて魔法士の体が地面に落ちた。

 まだ息をしているだろうことは、アルフォンスの位置からでも判る。だが、呻き声をあげる魔法士が、立体魔法陣の構築に充分集中できるだけの状態ではないことは誰の目にも明らかだった。

 ぐらり、と地面が傾いた気がした。

 渦を巻いて上空へと伸びていた光の帯に陰りが見え、多重展開するそれぞれの魔法陣からの光を束ねていたたがが外れたのがわかる。

「何があった」

 異常を察知したのだろう。

 黒竜の背から飛び降りるようにしてクリスが駆けてくるのが見えた。

 アルフォンスは、ただ、呆けたように口を半開きにしてその光景を見ていた。唾を飲み込む自分の喉がごくりと大きな音を立てる。灼け付いたように乾いた喉の奥に、声がへばりついてしまったかのようだ。

 なけなしの回復魔法を魔法士に注ぎ込んでいるものの、その間にも、立体魔法陣の光は弱まり、上昇していた魔素の流れが停滞に転じるのが伝わってくる。

 一介の、魔導師ごときが、人の運命を左右してはならない。

 その戒めが楔のように、アルフォンスの内にある。

 そうだというのに。

 すっと、アルフォンスの指先が宙に留まった。

 真っすぐに伸ばされた腕の先、僅かに魔素を帯びた一点。そこから滑らかに流れが始まり、いくつもの円となって重なり合う。

 自分でも何をしようとしているのか、理解ができなかった。

 ただ、こうしなければ数時間をかけて構築した立体魔法陣が消え去ってしまう、それだけが解っていた。魔法陣の消失は、グランベルの滅びと同義だ。

 陰り、薄れ、消失寸前だった魔法陣が再び勢いよく魔素を噴き上げ、その奔流が空高く吸い込まれるように伸びて行く。

 消えかけた立体魔法陣は、こうして、非常に不安定ながらも消失の危機を免れた。

「アル!」

「今は、質問に答える余裕が、あまり、無いんですよクリス」

 じっとりと額に汗を浮かべてアルフォンスが言った。人が構築した魔法陣を維持する為には細心の注意を払わねばならなかった。東西南北に位置する見張り塔だけではなく、第2障壁の各所からも光柱は立っている。12か所から立ち昇る魔素の流れを束ね、縒り集めて、1本の大きな流れにする必要がある。

 アルフォンスの魔力では、大きすぎるのだ。

 極めて微小な魔力を扱う時のように、人の魔力の流れに自分の魔力の流れを沿わせていなければ、簡単に魔法陣を逆流して全てを吹き飛ばしかねない。

「あの、受け継いだのは良いのですが。僕では、維持するのがやっとで」

 正直に、そう告げる。

 逆流させず、束ねて生かし続けることはできるだろう。集中力が続く限りは、だが。しかし、この魔法陣を展開するところまでは自信が無かった。術式がわからない訳ではない。むしろ多重展開方式の立体魔法陣にしては、かなり単純明快化された術式になっているのがわかる。それだけに、うっかり多量の魔素を流し込んでしまわぬように、とアルフォンスは内心、戦々恐々であった。

「魔法士の代わりは」

「悪い、いない」

「でしょうね」

 じっとりと、汗が出た。

 視界の隅で、クリスがじっと唇と噛んで何かを思い詰めているのが見えた。

 とても、嫌な予感がする。

「何を、お考えですか」

 自然とそう尋ねた。

 丁寧に、丁寧に、渦巻く奔流を宥めながら流れを均して整える。精密で、緻密なその作業。だがどうしてもその先、魔法陣の展開を終えることがアルフォンスにはできない。術式はわかっているにもかかわらず、それより先を構築することができないのだ。

 力を籠めれば良い。

 だが、それが怖い。

 人は脆く、儚いもの―――簡単に吹き飛ばし、無に還してしまう。それが、恐ろしい。

「クリス?」

「なあ、アル。お前ひとりなら、展開できるか」

 それは質問ではなく、半ば確信のような声色だった。否、半ばどころではないのかもしれない。展開できるか、と問われたように感じたが、実際は「展開できるな?」と念を押されたのかもしれない。

 一体何をと問いただすより早く、クリスが耳元に指先を当てた。

「伝令を送れ。魔法陣の構築は中止する。魔法士部隊はただちに全隊、前線へ復帰せよ。繰り返す。立体魔法陣の構築はこの伝令を以って即時中止とする。魔法士部隊は全隊前線へ復帰、シクザール軍を撃破せよ」

 言うが早いか、南に見えていた数本の光柱のうち1本が弱まり、消失する。

 それを皮切りにして空へ昇っていた奔流が次々と消えていくのが見えた。それを追いかけるようにして次々と伝令が舞い込む。

「殿下、アンク隊、魔法陣構築より離脱、戦線復帰を完了しました」

「それで全部だな?」

 よし、とクリスはひとつ頷いて、それから黒竜の尾に片足を乗せる。

「アル、好きにやっていいぞ。任せておけ。お前が展開する間ぐらい、俺が守ってやろう」

 にやり、とクリスは笑った。

 黒竜が尾の先を跳ね上げるようにしてクリスを鞍へと導く。拍車に足をかけ、手綱を引き絞った彼は「お前達もだ、好きに暴れてこい」と付き従う竜騎兵達を鼓舞する。

 アルフォンスはそれを見送り、魔法陣の先、隅々まで行き渡らせた魔素の流れに集中し直した。多重展開の為に複数の流れを生み出していた『他人の感触』は既に無い。クリスが言うように、全員が魔法陣の構築を中断したのだろう。

 指先から流れ込んでくる僅かな感覚を広げ、魔法陣と自分を徐々に繋いでいく。

 地脈の流れ、魔法陣の奔流、そこに自らを組み込んで、自分の意思通りに流れを作る素地を組み立てる。緻密な作業ではあるが、先程までのような恐れは感じなかった。どれ程の魔素を流し込んでも、これが独りで構築されるものである限り、自分の力が誰かを傷付けるものにはならないからだ。

 丁寧に、丁寧に組み上げていく術式の途中途中で、宙を駆けるクリスの姿を自然と捉えた。

 彼の命運を、変えたいのだろうか。

 アルフォンスは自分が何に迷っているのか、漸くその葛藤の正体に辿り着いた。

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