第7話 第1障壁の崩壊
クリス殿下の指南役の魔導師様が竜騎兵を救ってくださった。
その報せは瞬く間に城内も城下も駆け巡り、城の中を歩けばあちらこちらからお礼を言われ頭を下げられることに、アルフォンスは辟易していた。気持ちは有難いのだが、どうにも、こそばゆい。そして、身の置き所がない。お礼を言われても、気の利いたことなど言えもしないし、たかだか人を1人救っただけなのだ。
戦況は変わらず、負傷者も多い。
それが解っているだけに、どういたしまして、などと気楽に言える気分ではなかった。
「それで、またこうやって人の部屋に引き籠ってる訳か」
ふんと鼻で笑って、クリスは呆れた顔をした。
固く閉ざした執務室の奥、クリスの自室のソファの脇に座り込み、アルフォンスは熱心に何やら記している。事細かに注釈を書き込んだそれは、傷病者を癒すための回復魔法の術式の指南書である。城付きの魔法使い達でも理解し実行できるよう、注意すべき点や整えるべき箇所の指摘が懇切丁寧に綴られている。
「おい。返事ぐらいしたらどうだ」
「聞こえていますよ」
顔をあげると、クリスはぽんと小さな包みを投げて寄越した。
「昼飯だよ。もうすぐ夜だけどな」
「……ありがとう…ございます」
「いつまで待ってもお前が姿を現さないから、と厨房の奴がわざわざ届けてくれたんだぞ。あんまり心配させてやるな」
まるで年長者のように小言を繰り出す。
生まれ持った気質なのか、それとも『王子』という立場がそうさせるのか。指南役ではあるから、剣術や魔法理論についての指導はアルフォンスが行っているものの、それ以外の面については、むしろこうやってクリスが世話を焼くことが多い。そして不思議と、この小言が心地良いとさえ思っていた。嫌味なく浸み込んでくるのは、クリスが真心を以って自分に接してくれているからなのだろう。
そんなことを考えながら、アルフォンスは昼食だという包みを開く。
中身は少量だったが、それも食べられる量を考えてのことだとよく理解できた。
小麦と砂糖を練って、そこに多量の果物を入れた焼き菓子だ。交易用に乾燥させた果物であっても、人が扱う中ではとびきり高価なのだと、1年ここで暮らして知っている。東方から取り寄せられる分、グランベルでは一般の家庭であっても手が出せるものではあったが、それでも、贅を尽くしていることに違いはない。
何より、焼き菓子からは生き物の魔素が感じられなかった。
保存が利くものだから、おそらく量はまとめて焼いてくれたのだろうが、厨房で作ったのだとしたら一度全てを綺麗に清めてくれたのだろう。ただでさえ忙しい中での気遣いに、アルフォンスは感謝と同時に「なぜ」という思いが湧き上がるのを抑えられなかった。
なぜ、人々は魔導師である自分を大切にしてくれるのだろうか。
戦場の先頭に立って皆を護っているでもない。ただ、クリスに付き従って、この戦争には『関与せず』の立場を続けているだけだ。
1日1日が過ぎる度、戦況はますます不利になっていく。
竜騎兵と氷魔の空中戦から始まった戦争は既に陸戦の火蓋も切られている。数で圧倒するシクザール軍に対して、グランベルは防戦一方だ。とは言え、シクザール側も無分別に補給路を伸ばしきるような愚行はせず、あくまでも本隊は大きく動かさず、だがじりじりと確実にグランベルを疲弊させていく。
平野に陣を敷く数万の軍の姿は、それだけでも心理的な圧迫になるだろう。
そんな中の、心遣いだ。
ひとくち、ふたくち、と焼き菓子をかじってはみたが、とても全てを食べきることはできなかった。あまりにも、ここに込められた気持ちが大きすぎる。
菓子を包み直してそっと傍らに置いた。
その様子を見守っていたクリスがこちらへやってくる。
「なあ、アル」
ぎし、とソファが軋んだ。
クリスはソファに体を沈めて、足を組む。12か、13か、そのくらいの子供に見えるのに、その実、まるで大人のようだとアルフォンスは思った。
「お前、揺籠に戻れよ」
いや、戻るっていうのもおかしいのか、と独り言ちながら彼は自分の髪をくしゃくしゃと掻きむしる。
「魔導師は人の世界に関わらない。それは良くわかってる。これは人が起こした戦争だ。だからお前には関係ない。でもお前はここに居ると、関係ないことを気に病むんだろ。部外者であって良いのか、関与しないのに、親切にしてもらって良いのか、どうせそんなことをぐだぐだと考えてるんだろう」
その言葉を、呆けたように聞いていた。
クリスは聡い。
それを改めて思い知る。
「お前は魔導師だ。人じゃない。だから揺籠へ戻れよ。戻るっていうのが、正しいのかどうかはわからないけど。お前まで俺に付き合って滅ぶまで突っ走る必要はない」
滅ぶ、という言葉がアルフォンスの胸に刺さった。指先の皮膚に入り込んだ小さな棘のように、ちくちくと胸を刺す。
クリスの言葉を待っていたのか、コンコンと控えめにドアがノックされた。
側近のひとりが緊張した面持ちでそこに立っている。
「どうした」
「殿下、住民の避難が終わりました。ひとまずご報告を」
「魔法士達の準備は?」
「既に内環に各部隊を待機させております。殿下も……」
側近が言いかけた、その時―――どおんという低い地鳴りが響いた。
それと共に庭に面した窓が一斉にガタガタと振動する。建物全体が細かに揺れて、パラパラと壁の一部が粉の様に舞い散っている。
クリスは飛び跳ねるように立ち上がり、壁際に掛けてあった外套をばさりと羽織ってドアへと向かった。
「アル、お前は荷造りして揺籠へ向かえ」
言い捨てるようにして部屋を出て行く。
その背中をアルフォンスはただ呆然と見送った。
空の、遥か高いところから警鐘が鳴っている。その種類を、理解したくなかった。襲撃だと判っている。夜の闇に乗じて、シクザール本軍が遂に動き出したに違いないのだ。
追わなければ―――そう思うのに、体から意識が切り離されてしまったかのように動くことができない。
ふと、傍らを見た。
床に散らばった、多くの魔導書。
一般に言われる魔法陣では効果が薄いと思われる部分を、グランベルの地脈に即して、より素早く、より効果的に実践できるよう、事細かに記し直した羊皮紙の山。何日もかけて書き上げた。人に効果をもたらすもの、飛竜に効果をもたらすもの、魔素の巡りの弱い子供達のために効果をもたらすもの、そう、相手によって方法を変えられるようにと事細かに綴った。
その横に、菓子の包みが置かれている。
生き物を食べることを厭う魔導師は多い。ツェツィーリアのように、塩漬け肉を美味しく食べる魔導師のほうが稀なのだ。だから魔導師達は、人と一緒に暮らさない。暮らすことができないと言ったほうが正しい。
それなのに。
この1年、アルフォンスは暮らしの中で不便を感じたことがない。
クリス王子の指南役として、最上級の扱いを受け、敬意を以って遇されてきた。
「それだけ、だろうか」
そう独り言ちた。
答えなど最初から解っている。魔導師だから、形式上、便宜上、好待遇を受けていた訳ではない。
いつも、そこには人々の好意があった。
心からの好意と、感謝と、少しでも気分良く過ごして欲しいという願いのようなもの。
「僕には、見届ける義務がある」
この戦争に関与しないのだとしても、見届けることは義務だろう。この国が、ここで生きる人々が、皆滅んでしまったとしても。
それをずっと覚えている義務が、おそらく自分にはある。
バサバサと慌ただしく羊皮紙を掻き集め、魔導書を乱暴に積み重ねて、アルフォンスは焼き菓子の包みを懐に投げ入れるようにしながら立ち上がった。外套を羽織って半ば駆けるようにして部屋を出る。
途中、見知った顔の近衛兵を捕まえて、羊皮紙の山を押し付けた。魔法士部隊に届けてくれるようにだけ頼んで、見張り塔への通路を進む。すれ違う人々の顔が見える度、胸が痛かった。何度も繰り返される衝撃と、その度にパラパラと落ちる土埃。まだ大きくひび割れてはいないが、それでも不安を煽るには充分だ。
小さな扉を潜って屋上へ出た。
ひゅうっと空を切って弓矢が脇を素通りする。
反射的に空を見上げ、そこに、何の薄膜もないことを理解して、アルフォンスは自分の中の何かが煮え滾るのを感じ取った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます