第6話 開戦

 起きなければ―――

 そう自分に言い聞かせ、ようやく重い意識の蓋を開け、か細い糸を手繰り寄せるようにして目覚めた。

 王子の指南役として与えられた自室は広く、調度品も贅沢なものが揃えられている。何ひとつ困ることのないようにと傍付きの使用人が幾人もあてがわれ、アルフォンスは自分で指を動かすことなく生活できるのではないかと思う程、細部に渡ってきめ細やかな世話を受けていた。

 中庭に面した大きな窓の向こうは、夜の闇が広がっていた。

 大きな天蓋付きのベッドは数人が雑魚寝できる広さで、そこに、アルフォンスは寝かされていた。身じろぎしようして、体にかけられた寝具がぐいと突っ張るのを感じる。はっきりしないぼやけた視界の中で視線を巡らせれば、半ば、アルフォンスの腹を枕にでもするかのような位置に、見慣れた子供の顔がある。寝相も悪く大の字になってはいるものの、その手はしっかりとアルフォンスの手を握ったままだ。

 思わず微笑み、同時に、自分が情けなくなった。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

 ふいに向こう側から声をかけられた。

 天蓋から垂らされた薄い絹の天幕をそっと押しやって、側用人が心配そうに顔をのぞかせている。

「はい。すみません」

 何故だか、アルフォンスは謝った。

「何か、お持ちしましょうか。お水か、それとも、薬湯がよろしいですか」

「では水を」

 声が出るのが不思議な程、喉がひりついている。

 一度下がった側用人は、いくらもしないで戻ってきた。魔導師が好む聖銀製のカップに冷たい水が入っている。体を起こしてそれを受け取り、喉に流し込むと、ひんやりとした水の流れが体の中心を降りて行くのが実感できた。

「申し訳ございません。御止めしたのですが、殿下がどうしてもとお聞き入れにならず」

 クリスのことだろう。

 側用人は困ったように、申し訳なさそうに、そう言った。

 良いのだとそう返そうとした、その時、どこか遠くから、どおおおおんという低い地鳴りにも似た音が響いた。

 はっとして側用人の目を見つめると、隠しておけなかったかと言わんばかりに小さく頷く。

 その緊張の所為だろうか。

「起きたのか」

 半ば、掠れた声でクリスも目覚め、アルフォンスの手を握ったまま、もう片方の手でごしごしと自分の目を乱暴に擦った。

「で、立てるか」

 ぴょんとベッドから飛び降り、クリスは手を握ったまま問うた。

「殿下、いけません。魔導師様も、無理をなさっては……まずは医師を呼んでまいりますから……」

 慌てふためく側用人を手で押しとどめ、代わりに上着だけを受け取って立ち上がる。

 多少のふらつきと眩暈は感じたが、立ってしまえば存外、体はしゃんとしていた。

 閑散とした城内を歩き、細い巡視用の通路や階段を通って、見張り塔のある最上階へと出る。

 きちんと鎧を着こんだ衛兵が開けてくれた木戸を潜ると、ごうという音と共に生温い風が頬を撫でた。金属の擦れ合う物々しい音、気の立った竜騎達がけたたましく遠吠えを上げている。

 場違いな程に、薄いローブだけを羽織ったアルフォンスがやってくると、彼らは一様に深々と頭を下げた。頭を下げている先は、アルフォンスの手を引いて歩くクリスなのだが。

 見慣れた側近達に取り囲まれ、クリスがようやく手を離す。

「戦況は」

「依然、変わりありません。あちらは竜騎兵に手間取り、こちらは氷魔に手間取っておりますよ」

「厄介だな。本陣の様子は」

「どちらもまだ、直接は。うちの魔法使い達がよくやってくれています」

 クリスと側近の会話をどこか虚ろに聞きながら、アルフォンスは不安げに空を見遣った。

 人の目には何もないただの夜空に見えるのだろうが、魔素の流れを視ることができる魔導師の目には、そこに非常に薄い不安定な膜が映っていた。術式が不完全なのか、それとも、複数人で行っているが故に、魔素の流れ方自体が不安定なのか、ゆらゆらと揺らめきながらも、辛うじて何かを防いでいるような、力を籠めれば簡単に切り裂くことができる薄い薄い氷のようなそれが、城全体を覆っているのだ。確かに、防いではいるのだろう。

 だが、酷く、脆い。

 その薄膜の向こう側に、竜騎兵と氷魔が激突して発生する魔素の爆発が見える。

 この城を取り囲む無数の脅威を、アルフォンスは敏感に感じ取っていた。これは人の殺意だ。明確に、相手を撃ち滅ぼしてやろうという強烈な。

 半歩、下がった。

 自分の両肩を自分の手で抱きかかえるようにして、また、半歩下がる。

 ひゅん、と風を切る音がして、やや遅れてから頭上で鈍い音がする。バラバラと崩れた煉瓦が落下し、それと同時にどさりと大きな音を立てて上から人が降ってきた。竜騎兵だろう、乗騎の負担を極力減らすために薄い特殊な革鎧を身に着け、それが今、みるみる赤く染まっていく。ぐうとくぐもった声とも音とも言えない何かと共に、彼を構成する魔素が周囲へ流れ出て行くのが視える。

 喉が、ひりついた。

 唾を飲み込もうとしても、それが上手くできない。

 城の魔導師、或いは魔法使いなのか、それが駆け付け、流れ出ようとする魔素を食い止めている。だが緩やかにはなるものの、完全に止まってはいない。否、止めるだけでは駄目なのだ。既に流れ出てしまった魔素を彼の体に戻してやらねばならない。手順が、あるのだ。循環の。

「おい、アル。大丈夫か」

 横から肩を揺さぶられて、はっとした。

「悪い、お前を連れてくるべきじゃなかった。もう少し休め」

 気丈な、しかし心配そうな顔で、クリスが言う。

「あれでは、駄目です」

 精一杯の言葉だ。アルフォンスはそれ以上、続けることができない。そう思った。

 手を貸すべきではない。いや、それも違う。自分ひとりが手を貸したところで、一体何が変わるというのか。せいぜい、今まさに命を失いかけている彼を助けることはできる、その程度だ。

 これは人の世界の理で、魔導師は人と関わるべきではない。

 何度も言葉を飲み込もうとした。

 その度に喉が焼け付くように痛む。

 魔導師は人と関わるべきではない。その命運を、捻じ曲げるべきではない。この戦争は人が、人の為に、人の我欲で起こしたもの。片方がそれで滅ぶというのなら、滅ぶことこそが彼らの運命だと言える。

 一介の魔導師が、人の運命を変えることは許されない。

 そのような傲慢なやり方を、きっと、神は赦さないだろう。

 ごぼり、と厭な音がした。

 目の前で命が失せて行く。必死に押し留めようとする魔法使いの努力も空しく、魔素はどんどん霧散し、彼の体内から消えて行く。それが視える。

 アルフォンスは、そこで初めて思い至った。

 クリスも、この戦争でああして命を落とすのだろうか。

 魔法使いが術式を止めた。空しく努力を続けて、そうして救えなかった命を、誰もが静かに見守っている。

 人の輪から外れた場所で、アルフォンスはそれをただ視ていた。

 ふらり、と半歩前へ出た。

「おい…」

 戸惑ったようなクリスの声が、どこか遠くのものに聞こえる。

 無意識に、人の輪を押しのけた。

 鎧の冷たさが、自分の指先の熱を意識させる。

「術式が、間違っている」

 自分の声なのに他人のもののように聞こえる。

 呆けたように見上げる魔法使いを押しのけて、アルフォンスは既に事切れたと思われている彼の横に膝を付いた。彼の命を構成する結節点、既に流れてしまった魔素は自然の流れに乗って循環を始めているのだろう。だが元より彼を構成していたものは、呼び戻せば定着させることは容易い。周囲を循環し始めた魔素の流れを、そのまま彼の体に流し込む。増幅させつつ、流れた魔素を彼の中で循環させ、再び命として巡らせるのだ。

 外へ流れ出ようとする綻びを、丁寧に修復しながら、魔素の流れを正してやる。

 その静かな作業を、周囲の者達は神の偉業を見るような目で見つめていた。

 見る間に出血が止まり、色を失っていた肌に血色が戻る。ふうと大きく息を吹き返したかと思えば、いくらもしないうちに、規則正しい呼吸が始まった。まるで確かめるように、指先が動く。寝がえりを打とうとでもするような身じろぎから、悪夢にうなされてでもいるかのような声が漏れ、そうして、事切れたはずの男は再び目を開けて体を起こした。

「アル!」

 どん、と横から強い温かな衝撃を受けて、アルフォンスは眩暈を起こした。

 ありがとう、ありがとう、と何度も繰り返すのはクリスなのか、それとも違う誰かなのか。

 これで良かったのだろうか―――迷いはまだ、アルフォンスの中に残っている。

 だが恐らく、引き返すことはもうできまい……と強く確信する。既に、人の運命の中に自分が組み込まれてしまったのだと。

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