第4話 とある平穏な日のこと

「……い、……ンス!」

 どこか遠くから名を呼ばれるのを感じて、アルフォンスは自らの意識を手繰り寄せる。細く伸びた糸を丁寧に引き寄せ、その先で彷徨っている意識を自分という殻の中に格納しようとするのだ。

 そうしている間にも、聞きなれた声は五月蠅い程に名を繰り返す。

「おい、アル。こんなところで目を開けたまま寝るな。風邪をひくぞ。それとも何か、魔導師は風邪もひかんのか」

 パチリ、と意識と自分の殻が重なったことで、何かのスイッチが入ったように視界が現実をしっかりと映し出した。

 目の前には怪訝そうな顔で自分を見るクリストハルトの姿がある。

「あ、ああ、いえ。あの、すみません。ちょっと、考え事というか」

 何を弁明しようとしているのか、と自分でもおかしな程タジタジとそんなことを言う。

 クリスはさして興味もなさそうに「ふうん」とだけ返して、稟議書らしい巻紙の束に視線を戻した。羽ペンで署名をするのも慣れたもので、こうして見ているだけならいっぱしの『王子』に見える。

「お前、午後は剣術の稽古をつけてくれるんだろうな?」

 サラサラとペンを動かしながらクリスは続けた。

「もう僕が教えることはないと思いますが」

「お前からまだ1本も取ってない」

 ピシャリ、と言い切って、クリスは署名を終えたいくつかの巻紙を側近に手渡す。仕事はそれで終わりかと思いきや、前のひとつが片付くのを待っていましたとばかりに、別の側近が手紙や巻紙の山を抱えて入って来た。クリスはそれを嫌がりもせず、ひとつひとつ中身を読んで確認しては、署名をしたり、父である王へと伺いを立てるよう指示を出したり、或いは「放っておけ」と手紙を暖炉に放り込んだりしている。

 剣術の稽古で1本も取れていないから。という、至極子供っぽい理由で稽古をねだる姿とはかけ離れているな……とアルフォンスは苦笑した。

「なんだ」

 視線すら向けずにクリスが言う。

 ぶっきらぼうな口調だが、自分への信頼を感じる為か不愉快ではない。むしろ、アルフォンスには、この王子の照れ隠しのような口調がとても好ましく思えた。

「いえ。取れる…はず、なんですけどねぇ」

 微笑んで、紅茶をひとくち含む。

 実際に、クリスの剣戟の腕は自分と互角どころか、既に抜かれていると感じる。年の功とでも言えば良いのか、魔導師だからと言えば良いのか、自分が取れる手段の多さが功を奏しているだけであって、クリスが本気で殺意を込めて向かって来たならば防戦一方になることは間違いない。魔導師として魔法の腕はあるにせよ、だ。

 物事の理解が早く、筋も良い。

 それに、非常に勤勉で努力家である。

 王家に生まれた者として、国を率いる者として、この小さな王子は非常に恵まれた資質を持っている、とアルフォンスは実感している。

 彼の根底には『他者への優しさ』が見える。

 良い王になるだろうな、とも思っている。おそらく、自分だけではない。彼に仕える側近達、そして父であるバルトロメウスもそう思っているはずだ。そう、アルフォンスは確信していた。

 アルフォンスが揺籠からの召喚状を受け、この小さな王子の『子守り』としてやって来てから、もうすぐ1年になろうとしている。

 どう贔屓目に見ても6つか7つに見えていたクリスは、1年で飛躍的に成長し、見た目も年の頃なら12か、13か、少年と呼べる程度になっていた。体内の魔素の循環も整い、角度によって色を変えていた瞳の色は美しいルビー色で定着し、白銀に近かった髪もより鮮やかなターコイズが強くなった。幼さを理由にされていた王子としての義務も、ここ最近は『免除』という締め出しではなく、きちんと果たせるようになっている。稟議書や手紙の処理はもちろんのこと、王の補佐官として軍議への出席や行政官とのやり取りも増えた。

 その変化を誰よりも喜んでいたのは、父王、バルトロメウスである。

 一方、北の国境で接する大国シクザールは意外にもこの1年、静かに喪に服しているようだった。革新派の急先鋒と名高い現皇帝であっても、さすがに母である先帝の喪を無視してまで開戦に踏み切ることはできなかったらしい。両国の情報戦が鍔迫り合いを起こす中での1年だ。

 今は先帝の喪を理由に抑え込まれている形だが、あちらの穏健派とて、いつまでもそれだけで開戦を押しとどめることはできないだろう。1年になろうとしているこの時期、既に、シクザール軍は開戦に向けての準備を始めていると思って良い。

 表立って動きのない、一見平和に見える両国間の緊張は、実のところ既に飽和状態なのだ。口火さえ切られてしまえば、雪崩のように決戦に持ち込まれるであろうことは明らかだった。相手は大国である。対して、グランベルは弱小と言い切れる国だ。国土も小さく、資源も魔法石と竜騎兵以外、何もない。

 1年暮らしたこの国もまた、自分の元から消えてしまうのだろう。

 そんなことを思うと、アルフォンスは酷く憂鬱になった。

「おい、アル。そう何度も横で溜息をつくな。俺まで気が滅入る」

 紙の山を処理しつつ、クリスが声をかけた。

 どれくらいの間、鬱々と考えていたのか自分ではわからない。が、無意識に何度も溜息をついていたのは事実らしい。

「すみません」

 反射的に謝った。

 ちらり、とこちらに一瞬だけ視線を向けて、クリスは手元の書類を束ねて側近に手渡す。残った懸案事項は別にまとめ、追加調査をいくつか命じて保管庫へと放り込んだ。

 急ぎはひとまず、という側近の言葉に「わかった」と返すと、彼は何もなくなった執務机の上に行儀悪く足を乗せ、うんと両手を上に伸ばして大きな欠伸をした。側近達は子供らしい仕草に口元を綻ばせながら、深々と一礼して部屋を後にする。

 2人だけになった部屋は、急に静かだ。

「で。何を鬱々と考えたのか、俺に話す気はないのか」

 背もたれに思い切り体を預けて天井を見ながら、クリスはぶっきらぼうに言った。

 話す気、と言われても―――とアルフォンスは困惑する。心が浮き立つような楽しい話ではない。それに、話したからと言って何かが解決する話でもない。自分の中にある不安を口に出してしまえば、それがより一層、強く現実のものとなるようで恐ろしい。

 そんなことを考え口籠った。

「お前、魔導師向いてないんじゃないか?」

 呆れたような声色でクリスは言う。

「あのですね、魔導師というのは向いてる向いてないではなく、そういう生き物というか、ですね」

「だから、魔導師向いてないんだろう。向いてないのにそう在るものだから、鬱々と取り留めのない答えのないことを考えるんだよ」

 散々な言われようである。

 だが、確かにそうなのかもしれないと思った。

「戦争が、起こるのだろうなと……考えていました」

 ぽつりと、言った。

「起こるだろうな。シクザールはどうしたってうちの領土が欲しいんだ。魔法石が採れるからな。それに、そうとの貿易路も垂涎なんだろう」

 蒼とは遥か東方、エリジオンと呼ばれる大陸にある国のひとつだ。グランベルとは奇妙な縁があって国交を結び、他国には知られていない東方の不可思議な術式によって独自の転移門をお互いに有している。それを用いて、双方の得となるように秘密裏に貿易を行っているのだ。

 だが、シクザールがグランベルを欲しがるのはそれだけではない。

「ま、本命は南下路なんだろうがな」

「西のリュクスエドとの交易路のためですね」

「キャラバンを組んで砂漠を行くにしても、航空路を行くにしても、うちの前を通ることになるからな。こっちには邪魔する気なんてカケラもないんだが、目の上のたんこぶなのは間違いない」

 やれやれ、とクリスは肩をすくめる。

 立地というものは如何ともし難い。グランベルとて、好きでこの位置にあるのではないのだが、国ができてしまったからには今更、では少しだけズレますね、という訳にも行かない。

「だが、得策とは思えないな。うちを滅ぼしたとして、まあ、シクザールが全軍差し向けて来たなら、うちに勝ち目はないからな。決戦になればすぐ滅ぶ。そうはならないよう努力はしたいところだが。だが、うちが滅べば、ここはシクザール領になる。そうしたら今度は海蛇の背と正面衝突だ。それを判って、戦争を仕掛けてくるつもりなのか、どうなのか」

 冷徹な戦略家としての横顔だった。

 滅ぶ、という明確な言葉に、アルフォンスは心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。

 思わず胸を抑える。

 その様子をクリスは驚いたように見て、慌てて椅子から飛び降り、アルフォンスの両肩に手を添えて顔を覗き込んだ。一国の王子という、位の高い立場であるにも関わらず、彼は無頓着に床に膝を付き、冷や汗で濡れた額を袖で拭ってくれる。

「酷い顔色だぞ、お前。誰か!アルを寝室へ運んでくれ」

 クリスの一声でバタバタと側近が数人やって来る。慌ただしく、だが丁寧に抱き上げられて運び出されていくのを感じる。

 心配そうに見上げるクリスの顔がぼやけ、地面と天井が入れ替わるような感覚に襲われた。大丈夫、心配しないでと言いたいのに、半ば意識が途切れている。

 酷く、眩暈がした。

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