第2話 鐘の塔にて

 この世界には3つの世界が在る。

 白く透明な輝く海に護られた、東方世界。

 煌く赤と燃えるような空に護られた、南方世界。

 そして、大世界の中央に位置し、最大の人口と面積を誇る中央世界―――青澄海せいちょうかい緑晶海りょくしょうかい黄汐海おうせきかいの3種の海を有し、東方への転移門である東の大滝がある非常に大きな世界である。

 中央世界の中央に位置する大陸のほぼ中央、広大な砂漠のそのまた中央にある巨大な竜巻を抜ければ、空に浮かぶ空中都市が広がっている。

 環状に繋がる幾筋もの基幹道路から放射状に太い道路が伸び、そこからさらに細い通路や路地が伸びている様は、まるで日輪の印象画だ。

 都市の中央、広大な森に包まれた湖に浮かぶようにして、古い尖塔付きの建物群が建っている。

 通称、鐘の塔―――正しく、世界の中心といっても過言ではないその場所で、アルフォンスは古い友人と向き合って座っていた。

 雑多な部屋である。

 作り付けの本棚からは本が溢れて床に散らばり、ソファには脱ぎ捨てた上着やローブが適当に置かれている。テーブルには食べかけの食事、読みかけたまま裏向けに置かれた本、その上に乗せられた手紙の山、開封だけはしたのか、開いたものの折り目で曲がったまま床に捨てられた手紙も見える。

 部屋の主、エルシアは散らばっているものを気にするでも、アルフォンスを気遣うでもなく、執務机に行儀悪く足を乗せたまま何をするでもなく、意識をどこかに飛ばして考え事をしている。否、考え事と見せかけて、やはり何も考えていないのかもしれない。

 大きく緩く巻いた豊かな髪は明るく華やかなオレンジ色、長い睫毛に煌びやかな蝶の飾りを付け、ローブではなく東方風の上着に身を包んでいる。元よりだらしない所為で胸が大きくはだけているのだが、本人はこれっぽっちも意に介していないようだ。見た目だけならば妙齢のご婦人に見える。が、魔導師の例に漏れず、彼女もまた、見た目と実際の年齢が大きく乖離する。

 長く伸ばした爪を噛みながら、彼女はもう片方の指先でひじ掛けをタタタンとリズム良く鳴らしている。

「それで、僕はどうして呼ばれたんですかね?」

 説明を待っていた……訳でもないのだが、痺れを切らしてアルフォンスが問うた。

「なんだ、理由を聞く気になったのか。興味がないと思ったよ」

 ふん、と鼻で笑ってエルシアは言う。

 よっこらしょと掛け声をかけて、彼女は執務机に乗せていた両足を下ろす。そして立ち上がり、窓際まで歩いてうんと伸びをした。本来腰の辺りを帯で止めて着るものだが、そんなものを用意していない所為で、伸びと共に上着が大きく揺れ動く。

「だらしないですねぇ。少しは恥じらったらどうです? 僕、これでも男ですけど」

 言ってどうにかなるなど、アルフォンスとて思っていない。苦言というよりも場をもたせるための社交の為に、思ってもいないことをぺらぺらと述べているだけなのだ。

「見た目はクソガキ、中身は枯れ果てたジジイだろ。恥じらう要素があったらこっちが教えて欲しいね」

 極めて口悪く、しかし非常に的確に返答し、エルシアはソファに脱ぎ捨てた上着をざっと手で払ってそこに座り、おそらくもうすっかり温くなってしまったであろう紅茶の啜りながら、手紙の山の中からひとつを取り出した。なるほど、ようやく本題に入る気になったらしい。

 さて、何の話が飛び出るのか。

 アルフォンスは先の行動が見えない古い友人を注視した。

「お前、子守りをする気はないか?」

 ポイと手紙を投げて寄越し、エルシアはぶっきらぼうに言った。

 あまりに予想外の言葉であった為か、アルフォンスの頭脳がそれを理解することを拒んでいる。

「ええと、何……ですって?」

「子守りだよ、子守り。こ、も、り」

 わざと大きく口を動かし、エルシアは「子守り」を強調する。

「……?」

「子守り。人の世と離れすぎて言葉を忘れたか」

 酷い言い草だが、一理あるかもしれない。内心苦笑しながら、アルフォンスは極めて冷静を装って―――否、装おうと努力はしてみたが効果があるとは思えなかった。

「僕が聞きたいのは、子守りの字義ではなくですねぇ」

「グランベルを知ってるだろう」

 確かに、アルフォンスにも聞き覚えがあった。古くはベル王国と呼ばれた辺境の小国である。人である青年に恋をした魔導師が、身分や種族の差を気にもせず、いきなり結婚を申し出て人の世界に飛び出して行った。彼女は魔導師としては然程の力が無かったこともあって、その寿命は僅か300年足らずであったように記憶している。それがいつの時代のことだったのかまで、アルフォンスに思い出すことはできない。

 最愛の青年を失った悲しみに暮れて自ら寿命を還したのだ、と当時は実しやかに噂されたものだ。

 それを思い出して、アルフォンスは少し胸が痛むのを自覚した。

「聞き覚えはありますよ。魔導師の、名は……忘れてしまいましたが、彼女が愛した国でしたか。まだ若かったのに、早くに眠りに就いてしまって」

 300年を『若い』と思えるところが、魔導師の魔導師たる所以である。

「あれ以来、時折あそこには魔導師の子が生まれてな。普通ならうちで引き取るか弟子にするかのところだが、王位継承者とあってはそうもいかんだろ。だから子守りを派遣することにしてな」

 ずず、とエルシアは紅茶を啜った。

 種族が異なるにも関わらず、人と魔導師の間には子を成すことができる。

 そうして出来上がった血脈は薄れたとしても、まるで覚醒するかのように、時折強く浮かび出ることがあった。だが、人との間に生まれた魔導師は本来の生まれ方をしていない所為なのか、人としての枷がある所為なのか、生まれながらに魔法の力を操ることが難しい。また、魔導師特有の時間の流れの問題で、人には魔導師の子を育てる時間的な余裕がない。力の弱い者であっても、成長には、普通の人の子供の何倍もかかってしまう。本人の意思とは別に、魔法の力が暴発することもある。

 揺籠の魔導師達が『魔法の才』を持つ子供達を早くに見つけ、手元で保護しようとするのもその為だ。

 魔導師の子が人の世界で生き延びることは難しい。

 それは、魔導師たるアルフォンスも痛感している。


 だが。


 手の中に包んだ紅茶が揺らめく。

 写り込む自分の髪が紅茶に溶けて、境界がわからなくなる。

「揺籠にも、魔導師はたくさんいるでしょう」

 なぜ自分なのか、と言外に問う。

 エルシアと違って、アルフォンスは特別人が好きという訳でもない。人の世界の為に力を行使しようとする理念は尊敬を覚えるが、それが正しいことかどうかと、自分がそうしたいかどうかは違う。

 人は脆く、恐ろしく弱い。

 それが怖いのだ。

「うちはうちで忙しい。どうせお前は研究もせずに、人と関わるのが怖い癖に人の世界の隙間を放浪しては眺めて悦に入ってるのだろ」

 散々な言われようだ、とは思うが概ね正しい。

 本当に隠遁したいならば、人の世界から離れる方法などいくらでもあるのだ。

「そう気負わずとも、今更人の為に数百年を費やしたからと言って、どうせオレ達には転寝うたたねの時間にも及ばないだろう。たまには人の世界で腰を落ち着けてみたらどうだ? 良い機会だぞ」

 ずずずーっと大きな音を立てて、エルシアは紅茶を飲み干した。

 行儀が悪いことこの上ないのだが何故か憎めない。

「子守り……ですか。僕にできますかねぇ」

 アルフォンスは自信なさげにそう独り言ちた。

 独り言なのを判ってか、エルシアは特に返事もせず、ただ、ふん…と鼻で笑った。

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