第2章 最初で最高の朝【1】

 ルヴィ・サフォーリアはクリスティアン王子を愛していた。

 ふたりの婚約は子どもの頃に決められたことだった。侯爵家と王家の繋がりのための政略結婚だ。

 王室はもちろん、支援なしでは国を治められないという訳ではなかった。それでも、強力な後ろ盾が欲しいと思うのは、王室でも貴族でも同じことだ。その点において、侯爵家の地位は申し分なかった。

 ルヴィ・サフォーリアはそのための厳しい教育を受けていた。それはそれは、血の滲むような努力だった。

 一目惚れだった。ルヴィ・サフォーリアはクリスティアン王子に恋をした。だから、国母に相応しい淑女になるため、涙を我慢して教育に耐えていた。

 その結果が、先日の断罪イベント――婚約破棄。ルヴィへの裏切りだ。

 本来のルヴィ・サフォーリアなら、耐え難い屈辱と悲しみに崩れていたことだろう。私が転生したことにより、ひとりの少女を救うことができた。

 そして私は、最高の朝を迎えた。



 朝日が眩しいアプローチは清々しく、爽やかな朝だった。陽射しに目を細めていると、まるで明けない夜が過ぎ去ったかのような気分になる。

「ふう、屋敷の中は粗方、見終わったわね」

「本当に夜通し探索するとは……」

 アンネッタが膝に手をついて深い溜め息を落とした。寝る場所もなかったし、怪奇現象は初めて見る人間を拒むと相場が決まっている。まずは私たちの存在を認識させる必要があった。

 と、アンネッタにはそう説明したけど、ただ私が隅々まで見てみたかっただけなのよね。ロランとアンネッタには申し訳ないけど、私の好奇心は最大限まで振り切っていた。

「業者を手配します」ロランが言う。「お嬢様とアンネッタは外の空気に触れるとよろしいでしょう」

「ええ、そうするわね」

 ロランはさすが元軍人と言うべきか、なかなか肝が据わっているわ。怪奇現象が何も起こらなかったのは確かだけど、あの素敵におどろおどろしい屋敷にも怯まないなんて。心強くて仕方ないわ。

「う〜ん、清々しい朝ね!」

 アプローチに出て伸びをする。夜通し捜索をしたと言うのに、私はちっとも疲れていない。アンネッタは青白い顔をしていた。

「特に怪奇現象が起こらなくてよかったです……」

「ええ、残念ね」

 この屋敷にどんな怪奇現象が眠っているか楽しみにしていたけれど、そんな上手くはいってくれないみたいね。

「向こうも様子見しているのではありませんか?」

 少し焦った口調でアンネッタが言った。顔を上げると、アンネッタはどこか申し訳なさそうな表情をしている。

「きっと、初めて見る人間を見定めているんですよ」

 どうやら私は随分としょんぼりしていたみたいね。怖がりなアンネッタにそんなことを言わせるなんて。

「そうね。少し仮眠を取ったら探索を再開しましょう」

 アンネッタの表情が「言わなきゃよかった」と言っている。いまは朝だから、ひとりでここに残っても怖くはないんじゃないかしら。この屋敷の怪奇現象がどこまで及ぶかはわからないけれど。そう考えると、魔法の使えないアンネッタは私と一緒にいたほうが安全なのかもしれない、と考えて、私は残るかどうか訊くのはやめておいた。



   *  *  *



 木に寄りかかって朝のゆったりした微睡まどろみに身を委ねていると、私はふと目が覚めた。屋敷のアプローチにいたはずなのに、なぜか私は暗い空間にいた。下を向けば自分の足がはっきりと見える。暗いと言うより、黒い闇の中にいるようだ。

「お嬢様〜!」

 ばたばたとアンネッタが駆け寄って来る。いまいままで隣で寝ていたはずなのに、どうして離れた場所から走って来るのかしら。

「どうなっているんですか? あたしたちは屋敷の前で仮眠を取っていたはずですよね」

 アンネッタは不安そうに辺りを見回す。ここは前も後ろも、右も左も暗闇に支配されていた。

「いま私たちは夢の中にいるのよ」

「夢? ふたりとも同じ夢にいるんですか?」

「寝ているときのような夢じゃなくて、この空気自体が怪奇現象のようなものよ」

 アンネッタの表情が強張る。怪奇現象の館でも何かが起こることがなかったため、実際の怪奇現象に遭遇して恐怖が増大したようだ。

 本来の夢では、同じ空間に入ることはない。けれど、私はこの状況に心当たりがあった。

「これはタピルスね」

タピルス……ですか?」

 タピルスは夢魔とも呼ばれる。人の夢を食う怪異だ。この世界のタピルスは魔物のようなもので、人の夢に入り込んで夢を食らい、人の精神に直接に攻撃してくる危険な怪異だ。

「じゃあ、あたしたちはタピルスによって同じ夢に入り込んでるということですか?」

「ええ。ここに長く居るのは危険よ。でも――」

 私の声を遮って、辺りに啜り泣きが響き渡る。それは複数に聞こえ、アンネッタがヒッと喉を引き攣らせて私の腕にしがみついた。

『デテイッテ……』

 その声はこちらに語りかけてくるように、頭の中に直接に響くような恨みがましい声だった。アンネッタの顔色がより悪くなる。

『カエシテ……』

『ドウシテ……』

 囁き声は何重にも聞こえるが、私たちに言っているわけではない。何かしらの恨みがある怪異が、たまたまここにいた私たちに怒りや悲しみをぶつけているだけ。

『ドウシテ……』

『ユルサナイ』

『ナンデ…ナンデナンデナンデ』

『ニゲラレナイ』

『ドウシテ』

 私の腕を掴むアンネッタの手がガタガタと震えている。しかし私は、こんな怪異には負けない。ふっと不敵に笑い、手を宙にかざした。

「残念ながら、私に脅しは通用しないわ」

 幸いなことに、ルヴィ・左フォーリアは浄化の魔法が使える。魔法で浄化してしまえば、タピルスなんてこれっぽっちも恐ろしくないのだ。



   *  *  *



 気が付くと、私とアンネッタは先ほどと同じように木に寄りかかって寝ていた。目を覚ましたアンネッタは勢い付けて体を起こし、辺りをきょろきょろと見回す。それから、安堵の深い溜め息を落とした。

「よかった……無事に戻って来られたんですね」

「ええ。タピルスは取り込まれたら危険な怪異だけど、怪異の中では低級のものね。それより……」

 私はある事実に胸が高鳴った。これは、紛うことのない……

「やっと怪奇現象に出会うことができたわね」

 うっとりを手を組む私に、アンネッタは困ったように苦く笑っている。

 これは間違いなくこの屋敷の怪異だわ! 初めて遭遇した怪異が低級のものであるのは残念だけど、怪異は怪異。ついに本物の怪奇現象に遭遇することができたんだわ! これほど興奮することが他にあるかしら!

「まさか明るいときに遭うなんて……」アンネッタは身震いする。「怪奇現象は夜に起こるものじゃないんですか?」

「そうとは限らないわ。怪奇現象は、どこでいつ遭遇するかわからないから胸が熱くなるんじゃない」

「えー……気が抜けないんですね……」

「でも、私とロランが一緒なら大丈夫ってわかったでしょう?」

「はい。一生ついて行きます」

 アンネッタがあまりに真剣な表情で言うので、私は思わず笑ってしまった。怪奇現象はその実、ほとんどが浄化魔法で撃退してしまえる。浄化魔法が使えればさほど怯える必要はないのだ。

 そこへロランが戻って来る。各方面への連絡が済んだらしい。

「食事の配達を依頼しました。食事の支度をしましょう」

「ええ」

 本格的に屋敷に移住するつもりだったから、調理器具やカトラリーは一式が揃っている。必要な物だけ後々に買い揃えればいいと思っていた。

「やっぱり馬車を持って来ればよかったわね」

「仕方ないですよ」と、アンネッタ。「馬車があっても御者がいないんじゃ動かせませんし、馬車の中では火を熾せませんから」

「そうね。こんな屋敷じゃ馬の世話もまともにできないものね」

「食事は私が用意します」ロランが言う。「今日は寝室とキッチンの掃除をしましょう」

「ええ。そのあいだに怪奇現象に遭遇するのを願っているわ」

「そんなこと願わないでくださあい」

 泣きそうな表情のアンネッタには悪いけど、私はもう屋敷の怪異に心を奪われていた。こんなまたとない好機を逃す手はないわ!

「じゃあ、私とアンネッタは寝室の掃除をしましょう。しばらくは客間で寝泊まりするから、そっちを先にやりましょうか」

「客間をですか?」

 きょとんと首を傾げるアンネッタに、私は優しく微笑んで見せる。

「しばらくひとりで寝るのは怖いでしょう? 客間ならベッドがふたつあるわ」

 アンネッタの表情が、光明を見出したように明るくなる。

「ありがとうございます! まさしくそう思っていたところです」

「三つベッドがある部屋があれば、ロランも一緒に寝られたのに」

「まさか」ロランは首を横に振る。「お仕えする主人、それも女性と寝室を共にするなんてとんでもございません」

「私は気にしないし、アンネッタもそのほうが安心だと思ったんだけど……」

「では、私は隣の部屋で寝ることにいたします。何かあればすぐ私が駆けつけます」

「心強いわ。アンネッタもそれでいいかしら?」

「はい。ひとりじゃなくなっただけで充分すぎるほどです」

 アンネッタの表情には安堵の色が浮かんでいる。貴族の屋敷では、貴族と使用人が同室になることはあり得ない。それでも、ここは普通の屋敷ではない。そういった異例のことがあっても咎められることではないだろう。私は怖くないどころかむしろ喜ばしい場所だけれど、これからロランとアンネッタとともに生活をしていく。安心できるようにするに越したことはないだろう。


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