第1章 婚約破棄から幽霊屋敷へ【3】

 ストロボ付きのカメラを手に、まずは一歩、屋敷内に足を踏み入れる。予想はしていたけれど、やっぱりそれに合わせて埃が舞ってくしゃみが出そうだわ。

 と、ロランが空いた右手をスッとかざす。それと同時に、私たち三人を風が包み込んだ。風の魔法を利用して私たちを埃から守るための防御壁のようなものね。

「床が抜けるかもしれません」ロランが言う。「私が先に歩きます」

「ええ。床下に落ちるとしたら、ロランのほうが私よりダメージが低く済むわね」

「お嬢様とあたしの十倍は体が丈夫でしょうからね〜」

 アンネッタはどうにか平常心を保とうとしているようだけれど、足が産まれたての子鹿のようだわ。むしろ産まれたての子鹿のほうが脚力があるんじゃないかしら。ロランのライトの魔法が消えたら、きっと埃だらけの中に腰を抜かすわ。ちょっと怖がるふりをして腕に手を添えて、支えておいてあげなくちゃ。

 ぎしり、ぎしり、と床が不自然なほどに大きな音を立てる。まるで呼応するように、私の心臓も高鳴っていた。

「ああ、この床が軋む音……たまらないわ……!」

 おばあちゃんの家の床がこんな感じだったわね。なんだか懐かしいような気もするわ。

 エントランスは左右に廊下があり、真っ直ぐ進むと階段がある。まずは一階から捜索するのが定石じょうせきよね。左から行っても右から行っても、きっと向こう側で繋がっているはずだわ。

「まずは右側から調査してみましょ」

「はい」

「うう、本当に怖いです……。いまも幽霊に見られていると考えてもおかしくはないんですよね……」

「それじゃあ、きょろきょろしてたら目が合うかしら……」

 廊下には花台らしい置き物と花瓶や壺を飾るための棚、だったらしい物が並んでいる。ロランの光魔法は広範囲に及んでいるけれど、朽ちた木のドアや窓から中途半端に射し込む陽光が不気味さと恐怖を「これでもか」と最大限に演出している。

「お嬢様のこと、多少なりとも変わり者だと思っていましたが……こんな幽霊屋敷でお喜びになるなんて……」

 なんて正直な子なのかしら! 確かにオカルトは一般的な趣味ではないかもしれないけれど、アンネッタのこういう発言を咎めることがなかったのなら、ルヴィは心からの悪役令嬢というわけではなかったのかもしれないわ。

「でも、ごめんなさいね、アンネッタ」

「何がです?」

「まだお嫁入り前なのに、私の追放に付き合わせた上に幽霊屋敷に移り住むことになってしまって……」

「ああ、いいんです、そんなこと! あたしはお嬢様に終生お仕えするって決めてるんですから。いずれこの屋敷も普通の屋敷まで修繕されると信じてますし」

「うーん、それは保証できないわね」

「そんなあ〜!」

 せっかくの本物の幽霊屋敷が普通の綺麗な屋敷になってしまうなんて勿体無い! けれど、怪奇現象は建て替えでもしない限り消滅しないというのが定石よね。もし改装が順調に進んだとしても、怪奇現象が消えてしまうなんてことはないのかもしれない。個人的には、そちらのほうが好ましいわね。

「む……」

 ロランが小さく呟いて、頭上に浮かんでいる光の玉を少し前方に移動させた。

「どうしたの?」

「いま何かの気配を感じたような……」

「えっ、どこどこ!?」

「ちょっ、脅かすのはやめてくださいよ〜!」

 ロランの光が照らす辺りを見回しても、特に何も目視できない。けれど、ロランは元軍人ということもあって、気配にはかなり鋭いはず。私たちには感じ取れないかすかなものだったのかもしれない。

「ちょうどいいわ。これの性能を試してみましょ」

 私はストロボ付きカメラを持ち上げる。カシャ、という小気味の良い音とともに、強力な光が前方を照らした。ああ、蓄光の音が堪らないわ……。

「どう? ストロボを使うと、一瞬だけど、ライトの魔法より奥まで照らせるでしょう?」

「なるほど……」アンネッタの表情は相変わらず引き攣っている。「そういう使い方もできるんですね」

「特に反応する怪異はいなかったわね。どう、ロラン? まだ気配は感じるかしら」

「いえ……ほんの一瞬でしたから」

 ほんの一瞬でも怪異の気配を感じ取れるなんて、実に羨ましいわ! 早く私の前に現れないかしら。怪異との初邂逅を想像すると、それだけで胸が高鳴ってしょうがないわ。

 私のいまの最大関心事項は怪奇現象だけれど、もうひとつ、ほんの少しだけ気になっていることがあった。

「これから、クリスティアン王子とアスタさんはどうなるのかしら」

「普通に考えますと」ロランが言う。「王室は、王太子殿下とお嬢様の婚約でサフォーリア家の後ろ盾を得ておりました。サフォーリア家の事業は国内外に広がっており、しばしば外交に利用されることもありました。クリスティアン王太子とアスタ様がご婚約されても、王室にとっての得は、失礼ながらほとんど感じません。ティボール伯爵家に同じだけの支援は期待できません。王室が王太子殿下とアスタ様のご婚約をお認めになることはないでしょう」

 ルヴィ・サフォーリア侯爵令嬢は悪役令嬢であったため、婚約破棄の運命にあった。クリスティアン王子とヒロイン・アスタも結ばれる運命にあった。乙女ゲームとしては、それで「めでたし」だ。所詮、ゲームはゲーム。その後の運命がどうなろうが、攻略対象とヒロインが結ばれればそれでチャプタークリアだ。その後の王室がどうなるかなど、乙女ゲームのシナリオで考えられることはないはず。これから王室がどうなるか……。私にはもう何も関与することができないけれど、この国の将来が脅かされるようなことにならないといいのだけれど。この先、この国は魔王率いる魔物軍の侵攻を受ける。魔王に勝利することで、真エンディングに向かうことができる。物語はそれで「めでたし」だ。この国の未来がどうなるかは、プレイヤーには関係のないことなのである。

「大局を見れば」と、ロラン。「お嬢様との婚約破棄は、損失にすらなり得ます。クリスティアン殿下のご判断が正しいかは……きっとこの先、明らかになることでしょう」

 ロランは冷静な表情で話しているけれど、その声には、クリスティアン王子に対する怒りのような感情が含まれている気がする。ルヴィとの婚約破棄に反発を懐いているのは、ロランも同じことだったようね。

「ご心配なのですか?」と、アンネッタ。「婚約破棄されましたのに」

「うーん、ある意味では心配ね。でも、そのおかげでこうして幽霊屋敷で暮らせるのだし、私としてはありがたいことだわ」

「お嬢様が心配される必要はありません」ロランが刺々とげとげしく言う。「王族は大局を見なければなりません。お嬢様とのご婚約の重要性を、よくおわかりになられていなかったようです」

 ロランってこんな顔でそんなことを言う人だったかしら? もっと悪役令嬢のお付きの執事らしく、沈着冷静で、表面上は穏やかな人だけれど、その裏は冷徹とすら言える雰囲気だった気がする。こんなに怒りを露わにするなんて、ロランにしては人間臭い表情だわ。

「そうね。もうここで心配する必要はないわね。私は私で、新しい生活を楽しまなくちゃ」

「ええ〜……楽しむんですか?」

「もちろん! この屋敷に存在するすべての怪奇現象に会いたいわ!」

「ほどほどにしましょうよ〜」

 アンネッタは私の腕にがっしりと掴まり、小刻みに震えている。私とロランがいるからなんとか耐えられているみたいだから、アンネッタがひとりになる瞬間は接待に避ける必要があるわね。お嫁入り前に幽霊屋敷に移り住むなんて、冷遇とも言える状態にしてしまったのだし、ひとりきりの恐怖を味わせるわけにはいかないわ。

「せっかく追放になったのだし、満喫しましょ。なかなかない経験よ」

「できれば二度と味わいたくない経験ですね」


 それから、ロランは度々「何か」の気配を感じ取った。私はそのたびにストロボで前方を照らしたけれど、その「何か」が私たちの前に姿を現すことはなかった。






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