短編『好きなもの』

シノミヤ🩲マナ

第1話

 男は自宅に帰るのが憂鬱だった。


 今年で結婚二十年になる。けれど、これほど家に帰るのがつらくなるとは結婚を決めた二十一歳の頃には想像すらしなかった。


「はあああ……」


 二階建ての我が城の前で今日も足が止まってしまう。

 せっかくローンを完済したのに、どうしてこんな気分にならなければいけないのだ。

 しかし、いつまでも玄関前で立っているわけにもいかない。

 ご近所の目があるし、どんなに嫌でも帰らないわけにはいかないのだ。


 なぜなら、彼女たちが待っているから。


 意を決して男は扉を開けた。

 とたんに油の良い香りが出迎えてくれる。


「今日は揚げ物か……」


 年月を重ねたからだろうか。

 ここ数年は揚げ物を食べたいと思わなくなった。

 そう何度も言ってあるのに、まったくあの女は。


 リビングに入ると、夕食の準備が万端だった。

 予想通り食卓にはフライが平皿に盛られている。

 まだ薄く湯気が昇っているのを見ると揚げてからさほど時間は経っていないらしい。


「ただいま」

 と、男は帰宅を告げた。


 すろとキッチンに向かっていた女が振り返り、無表情で言う。


「おかえりなさい」


 まったく、本当に陰気な女だ。にこりともしない。

 

 だから嫌だったのだ。

 あの不景気面を目にすると、ますます疲れてくる。

 真面目で気は利くほうだが、根暗で冗談の一つも言った試しがない。

 

 会話にしてもそうだ。

 こちらから話しかけなければ口を開こうともしない。


 だけど、この日の女は違った。


「今日は、あなたの好きなものですよ」


 いつも無口な女が、聞いてもいないことを言ってきたのだ。

 なにがあったかは知らないけれど、機嫌が良いのだろうか。

 そう思い改めて観察すると、あの女がどこか嬉しそうに見えてくるから不思議だ。


 食卓に着き、ご飯や味噌汁が運ばれてくるのを眺める。

 女が対面に座るのを認め、男は箸を手にした。


 平皿からフライを取って、男は疑問符を頭上に浮かべた。


 薄っぺらな形と軽さから、フライは魚のようだ。


 フライも魚も、男は特別に好きではない。嫌いではないが、好物では絶対になかった。


 とりあえず食べてみるか、と口に入れて噛み砕く。

 次の瞬間、


「なんだよこれ!」


 男はフライを吐き出した。

 ぺっぺっと口内に残る欠片も吐き出し、女を睨む。


「おい! これのどこが俺の好物だ! 骨ばっかで食えたモンじゃねーぞ!」


 女は、何も言わない。

 箸も持たず、ただ男を見つめていた。相変わらず無表情のままだ。


 お得意のだんまりだ。


 チッ、と男は舌打ちを残し、食卓を離れた。

 これ以上、あの女を見ていられるか。こっちがどうにかなってしまいそうだ。


 男は二階に上がり、仕事部屋を目指した。

 仕事部屋は男にとっての楽園だ。

 この家で唯一、安らげる場所。

 彼女たちーー二匹の熱帯魚が癒やしてくれる。



男は仕事部屋の扉を開け、魚用の餌を手にして水槽に歩み寄る。

 そして、


「ただいまー。パパが帰って」


 きたよー、とは続けられなかった。


 水槽の中に、見当たらないのだ。


「サクラ? カエデ?」


 おかしい。

 どこかに行けるはずもないのに。


「んー? どこかなー? かくれんぼかなあ?」


 ありえない。

 隠れられる場所などないのに。


 これでは、あの二人と同じではないか。

 桜と楓。

 好きな人ができたからと去っていった元カノたち。


「だから言ったでしょう?」

 と、唐突に声がした。


 いつからいたのか。

 振り返ると部屋の入口には女が立っていた。


 女は、これまでに見せたことのない素敵な笑顔で言葉を継ぐ。


「今日はあなたの好きなもの、だって」




 

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短編『好きなもの』 シノミヤ🩲マナ @sinomaya

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