まだ知らないこと

鹿ノ杜

第1話

 それは二人がキスに至るためのプロセスだった。彼らの運命を動かしたものは、その朝、寝床を抜け出して澄んだ冬の空気の中で散歩を楽しんでいた一匹のテンだった。

 男が仕事に向かう電車に揺られていると電車はふいに速度を落とし、ついには完全に停止してしまった。毎朝この路線を利用するからわかるが、次の駅はもうしばらく行った先にあるはずだった。

「えー、本車両は緊急停止を致しました」と車掌からのアナウンスが入った。「お急ぎのところ、お客様には大変申し訳ありません、本車両は前を行く車両より連絡を受け、緊急停止を致しました、えー、線路内に、えー、小動物を、テン……テンを確認したとのことで、ただ今、安全確認を行っているところであります……」

 男も、男の周囲にいた乗客たちも、思わず、といったように天井を見上げた。テン……乗客の間に広がったとまどいの中でその響きは少し意外で、十分にかわいらしかった。

「えー、今しばらくお待ちください」

 ブツリ、と音がしてアナウンスが途切れた。

 車内は下りの電車ということもあって、朝の通勤時でも空いており、男の周囲にも歯抜けのように空席があるくらいだった。珍事におけるちょっとした興奮を共有しようと男は乗客を見渡すがほとんどが手元のスマートフォンに目を落とすか、あるいは目を閉じているか、いずれにせよ、いらだちは薄そうであることだけが幸いだった。

 男は自らの隣に座る女を盗み見た。女は視線を少し上げて外を見ていた。窓の外にうつるのは、目に染みるような青空だった。男はほとんど毎日、同じ時間の同じ車両に乗っているからわかるが、彼女もほとんど毎日、同じ時間の同じ車両に乗っていた。どうしたって彼女の存在には気づいてしまうので、男は失礼にならない程度に観察を続けていた。年齢は二十代の後半で自分と同じくらい、清潔感のある服装や肩でそろった黒髪からある程度大きな職場で。だけど、たとえば看護師や販売員などのシフト勤務ではない。事務職か、もしくは、そう、今でも宙に向けて口角がわずかに上がっているから、人を笑顔をする職業なのかもしれない。

 それに、小さな牙を模したようなネックレスが目を引いた。それこそ小動物か何か、生き物が好きなのかもしれない。

 と、勝手な想像をしているのだが、実のところ、そのうちのいくつかは当たっていたり、まったくの見当はずれであったりもした。ネックレスについていえば、彼は後にその飾りが本物の蛇の牙であることを知るのだが、いずれにせよ、それはまだ起こっていないことだった。

 男は自らの想像力に満足し、そういえば、といったように、

「テン……テンって何だろう」

 と、ひとり言がつい、口からこぼれた。ひとり暮らしが長いとそういうこともあるのだった。車内の静寂の中を少し間の抜けた響きをもって漂っていたが、やがて男の隣に座る女がそっとすくい上げた。

「テンは、イタチ科テン属に分類される食肉類です」

 彼女は男に聞こえるだけの声の大きさで言った。男は驚き、彼女を見ると、目が合った。彼女もとまどっているのか、瞬きをくりかえしていたが、そのしぐさは小動物のように愛らしかった。

「詳しいですね」

 男が言うと、彼女は小刻みに首を振り、目を細めた。

「好きなんです」

 二人はその後も遠慮がちに言葉を交わした。男には彼女の言葉の一つひとつが少し意外でそれ以上に魅力的に響いた。

 彼女もまた平和的な想像力の持ち主であったが、

「テンは、たぶん、朝の散歩でもしてたんでしょう」

 と、朝の珍事の主役について偶然言い当てたことを二人は知るよしもなかった。

 ついでにいえば、夏になれば彼女は新鮮なキュウリをまるかじりすることが好きだということも、男の家には子どもの頃に拾った蛇の抜け殻があり今も大切に取ってあるということも、過去の二人に起きたいくつかの共通のできごとも、互いにまだ知らないことだった。

 二人のやり取りはあくまでに静かに、しかし途切れることなく続いていたが、やがて運行の再開を告げるアナウンスが流れた。電車が少しずつ進み出す一方で、二人の会話は尻切れトンボになってしまった。

 車窓にはいつもと変わらない風景が流れていた。ただ、その風景にどのような意味を見出すのか、ということは男の自由でもあった。

「もしまた会ったら、そのときは、少しお話をしませんか」

 男は彼女に聞こえるだけの声の大きさで言った。

 お話をしませんか……彼女にはその言葉がとても心地よく響いた。この人といれば心が弾む、それでいて心が軽くなる。そんな予感が冬の朝、枕元に温かく差し込む光のように心に溜まり、その後どれほど時が経とうとも、消えることはなかった。

 だけど、そのことだけは、男がいつまでも知らないことだった。

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まだ知らないこと 鹿ノ杜 @shikanomori

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