第28話{間違わない世界 and 間違ってもいい世界}
最上階は、一階と同じくシンプルな構造だった。
一本の長い廊下。そこに並ぶ大小様々な部屋。
その二つある大部屋の内の一つ――廊下の一番奥が、サーバールームだ。
私は下の階へ耳を澄ませる。
イェレーネの駆動音が消えた?
でも、あの子が私たちを諦めるなんてアリエナイ。一体、どんな策があるの?
いや、考えたって仕方ない。今の内に少しでも距離を稼ぐんだ!
私はできるだけ足音を殺し、サーバールームへ駆ける。
あと少し!
あとたった数メートルで自由を取り戻せる! アポロを助けられるんだ!
私は、扉に手を伸ばした。そして、ドアのノブを掴む。
寸前――
体を揺らす轟音。
視界を覆う巨大な脚。
目の前には機械仕掛けの大蜘蛛――イェレーネが立ちはだかっていた。
イェレーネのヤツ、研究所の外から壁を伝って昇ってきたんだ!
「本気になって逃げて、バカみたいだね」
うれしそうに笑うイェレーネ。
「どうだった? がんばって逃げたのに、無駄に終わる気分」
ダメだ! 通路が塞がれた!
今、イェレーネは廊下を塞ぎ切るほどの巨体。これを、どうやってすり抜けるの?
勿論――
私は、アームに抱かれたアポロを見つめる。
アームをフルに使えば突破できるかもしれない。でも、そうすればアポロはどうなる?
身動きが取れない彼を、放置するのも危険だ。
刹那――
近づく複数のモーター音。
振り返れば、イェレーネの対面――通路の奥にからは武装ドローン。
私たちを挟むようにして、ドローンが現れた!
掃射される小銃。
私は無我夢中で近くの大部屋に逃げ込んだ。
壁を埋め尽くす本棚。真ん中に置かれた数組の机と椅子。
そこは、研究所の資料室あるいは書庫だった。
サーバールームへの道が塞がった。その上、ドローンが複数。
この状況、どうすれば勝てる?
私は思い出す、アポロが手に入れた情報――研究所の地図を。
サーバールームに続くのはあの通路だけ。
どうにかアイツらを無力化しなきゃ、クラスターにメモリを挿し込めない!
屋上や外壁から回り込む?
いや、どの道を通ったって、結局イェレーネが立ちはだかる。
そもそも、イェレーネの真の能力は?
イェレーネは未知の拡張デバイスを持つ。時を戻す能力と、姿かたちを変化させる能力。本来、一つしか扱えないデバイスが二つ? アポロは『アリエナイ』と否定した。
この謎を攻略しないと、サーバーには辿りつけない!
私は本棚の陰に隠れ、腰を下ろす。
「天井だ。穴をあけろ、シャノン」
アポロは話しかける、息も絶え絶えに。
「え? 天井?」
そう言えば、この部屋の頭上には『タンク』がある。貯水タンクが!
もし、部屋が水浸しになれば、アポロの能力で何とかなるかもしれない!
例え、時を戻す能力があっても、関係無い。
アポロに『命令』された時点で私たちの勝ちなんだ。
きっとアポロは、そのことを言ってるんだわ!
その時――
「『詰み』だね、お姉ちゃん」
背後から聞こえる声。
振り向くや否や、私の体は大きく吹き飛ばされる。
振り下ろされた脚。私の体は壁の本棚に叩きつけられた!
「そろそろ諦めたら? どんながんばりも無意味。合理的に考えて、ね」
落ちる本。熱帯びるボディ。緩むジョイント。歪むフレーム。でも――
「それは諦める理由にはならない!」
私はゆっくりと立ち上がる。
「何言ってんの? どうせ何やったって無駄なのに。あのアポロってヤツ、そんなボロボロ
になるほどの価値あるかな? さっさと諦めた方が楽だよ、お姉ちゃん」
「いいえ、そんなの『アリエナイ』わッ!」
私はアームを振りかぶり、その拳を書庫の天井に突き立てた。
「知ってるよ。天井を破壊して、給水タンクに穴を開けるつもりでしょ? でも無理。そんな拳じゃ、ヒビを割ることすらできない。一人の人間程度のために熱くなり過ぎじゃない?」
「熱くなり過ぎ?」
私は不敵に笑う、アポロのように。
「アリエナイわ。今の私は、最高に『クール』よ」
ヒビの割れる天井。私のアームから伸びる『それ』は、スパイクのように天井を抉っていた。
「まさか! それはッ!」
「拡張機構:
瞬間――
破裂する貯水タンク。天井から溢れ出した水は、一瞬にして書庫の床に広がる!
「アポロ!」
私が声を上げるや否や、足元を走る電撃!
よし、これでイェレーネも終わりだ!
そう思っていた。なのに、
私の腹部を貫く前脚。イェレーネは何の異常も起こさず、そこに立ちはだかっていた。
「でも無駄だよ! ボクのボディに電気なんて利かない! 電撃を操るアポロ相手に、対策してないとでも思った? もうお終い? ボクの勝ちだね」
電撃が効かない? せっかく、アポロが作戦立ててくれたのに……!
「待って、イェレーネ!」
とにかく、時間を稼ぐんだ。私は両手を合わせ、イェレーネに懇願する。
「私はどうなってもいい! だから、アポロを助けてくれないかな? きっと銃創が臓器を損傷させてる! 早く医療施設に行かないと、命に関わると思う! だから――」
「何言ってるの? ホントお姉ちゃん、スペック不足だよね」
けらけら笑うイェレーネ。
「お前が断ったんでしょ? イェルの交換条件を。ボクがせっかく助けてあげようとし
たのに、お姉ちゃんはイェルを攻撃した。悪いのはお姉ちゃんだよね?」
もう一本の前脚で、イェレーネは私の頬を小突く。
「だから言ったのに、感情という
なんで彼は執拗に、感情を排除しようとするんだろう。
私は、熱を帯びるボディを落ち着けながら、イェレーネを睨む。
「どうしてそんな人間の感情を疎むの?」
「決まってるだろ? ボクはこの街を統治する前『シミュレート』した。人間とAIが協力する未来がどうなるか。けれど、人間は非合理的な選択を繰り返し、その結果、未来で滅亡する。だから人間の繁栄のためには、人間から感情を奪う――『人間のシステム化』しかないんだよ」
「でも、私たちは話し合うことができる! 選択の前に、相談すればいいでしょ?」
「だからお姉ちゃんはスペック不足なんだよッ!」
私を放り投げるイェレーネ。体は再び壁に叩きつけられ、本棚から本を落とした。
「『ヒューマンエラー』って分かるでしょ?」
熱くなる頭。私は、激しく回転する送風機を抑えつつ、立ち上がった。
ヒューマンエラー――作業の過程で起こる、人間による誤り。でも、
「間違いなんて誰でもある。それが何なの?」
「誰でもある? それが
鼻で笑うイェレーネ。
「ヒューマンエラーは、人間の『性格・行動・能力・環境』などに影響を受ける。つまり、それは『人間の限界値』。どう突き詰めても生じる
イェレーネはこちらに近付く、蜘蛛のような足を蠢かせながら。
「感情が無ければ『性格』も無い。AIは『行動』を管理してあげられる。AIが『能力』に合った『環境』を提供してあげられる。感情が無ければ、AIに逆らわない。つまり――」
イェレーネは再び、その脚で私を貫いた。
「人間から『感情』を奪えば『システム化』できる」
「ヒューマンエラー? 確かに、人間がエラーを無くすなんて、アリエナイかもしれないわね。あなたが人間の繁栄を志したのは理解できたわ」
私は体中の熱を放出し、イェレーネの顔を見上げた。
「なら、必要なのは『間違ってもいい世界』じゃないの?」
思い出す、
電脳――ROMの中の、これまでの
私は、何度も間違えてきた。
努力なんて意味ないと思い込んで、目の前の全てに妥協して、一人閉じこもって――
でも、アポロが教えてくれた。
『できる』『できない』じゃない。『合理的か』『否か』じゃない。
一番大事なのは、感情――私が何を思うかだって。
イェレーネを睨みつける私。
「人間は、何度も間違えるかもしれない。でも、その『がんばり』が『積み重ね』が、人間を成長させる。そうでしょ?」
「うるさい! 『成長』も『間違っていい世界』も、全部くだらない! 完璧な世界に、
鋭く尖った前脚を振り上げ、
イェレーネはそれを私の首へ振り下ろした!
「お姉ちゃんたちの『がんばり』も『積み重ね』も、全部無意味なのッ!」
「なら、諦めるしかない」
「ボクの勝ちだね」
「いや、私の――私たちの勝ちよ」
寸前――
ピタリ。
硬直するイェレーネの体。私はアームを振り上げ、彼女の脚に拳を叩き込む!
「鈍いわ! その程度の攻撃」
飛び退くイェレーネ。
しかし、その脚はもつれ、彼女は少しも飛び上がれない。
「拳を喰らえ、そしてブッ飛びなさい!」
私は彼女の脚を殴り、吹き飛ばした!
倒れるイェレーネの巨躯。書庫の机に崩れ落ちていく。
刹那――
「
ぐにゃり。
現実が歪む感覚。
するとそこは、八秒前の世界。
「そんなくそざこパンチ、簡単に避けられるわ! 何度やったって無意味!」
しかし、もつれる彼女の脚。再びアームを喰らい、イェレーネは吹き飛ばされた。
「どうして? ボクは、間違いの無い、
再び歪む現実。
でも、イェレーネは再び拳を喰らい、再び吹き飛ばされる。
しかし、現実は今一度歪んだ。
「ルール違反なんだよッ! この『八秒』、ボクはあらゆる
「言ったでしょ? 私たちには『積み重ね』がある」
私は再び、アームを振り上げる。そして――
「たった八秒じゃ、その『積み重ね』を消すことはできない」
彼女をブッ飛ばした!
「イェレーネ、あなたは既に詰んでいるのよ」
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