小森メイ(おもりめい)編

友達百人できるかな、という歌詞を幼い頃のおれは本気で信じていた。

それはある種の強迫観念に近しいものだったのかもしれないし、単なるリスクとリターンを計算できない無知さから生じた思想かもしれない。

ただ一つ言えるのは、当時のおれは本気で友達が百人欲しいと思っていたし、その百人と食べる富士山の上のおにぎりは大層美味しいだろうなあということである。

小学校に入るとおれは色んな人に「はじめまして」と話しかけた。

百人の友達を作るのだから、百回以上は言わなければならない計算だったし、実際におれは百回以上はそう言ったと思う。

それに「はじめまして」という言葉も、何かが始まる予感にわくわく出来るから好きだ。


でも、結局友達が百人出来ることはなく、中学校に上がる頃には現実を知っていた。

それは、おれに友達を作る才能がないということだ。

自覚してからというものの、友達を作ることが怖くなって、やがて自分から「はじめまして」と軽々しく声をかけることすら苦手になってしまい、他人と積極的に関わることを辞めた。

小学校のクラスメイトは名前どころか顔すら覚えておらず、トラウマになるほど酷い目にあった記憶も無いはずだ。

ただひたすらに悪化していく友達という概念に対する忌避感。

大学生となった今になっては、初対面だろうと決まって口が重くなる。

それでも、おれにとって「はじめまして」という言葉は大きな意味があった。

ここから何かが変わるかもしれない、という期待が。


おれが小森メイ(おもりめい)という存在と初めて話した時に、「はじめまして」という声掛けはしなかった。

彼女はサーモンピンクの髪をポニーテールに結んでいて、おれと同じ学部の大学一年生だ。

ただおれが彼女の苗字を「おもり」ではなく「こもり」と呼び間違えて、食い気味に修正されたことだけはよく覚えている。

彼女は、おれと違って人から好かれやすい。

でも他人に踏み込むことはせず、学部内でも付かず離れずの距離の友達が複数いるバランスの人間関係を保っていた。

おれは彼女を見ているうちに、実際のところこんなものなのかもしれない、と考えるようになる。


それは決して落胆ではなく、ましてや妥協でもなく、確かな安堵であった。

肩から力が抜けるような、自分という人間の帰る場所までの道標を見つけたような、不思議な気持ちになる。

頭の中でとある単語が浮かんだけど、意味を正確に理解出来ているか分からず広辞苑を引いて、ああこれはこういう意味だったと納得する感覚。

自分の心のもやもやを晴らされていく体験が、薄く、それでも着実に降り積もっていく。

積もり重なる度におれは自分の知らない自分の姿が顕になっていくようで、恐ろしかった。

彼女を見ていると、自分の全部が暴かれるような気持ちになる。

彼女はおれのことなんて見ていないのに。


だから、余計に、おれはあの時の彼女が本当に気安く発した言葉が「はじめまして」と同じ意味に聞こえたのだ。

大学の帰り道でたまたま一緒になった彼女が、おれの名前を尋ねた瞬間、とっくに出会っているはずの彼女と、おれはやっと出会えたような気がした。

ずっと、ずっと、一人で誰もいなかった宇宙船の中に、他の人なら軽い気持ちで踏んづけてしまうような、分かりにくい場所に置かれたおれの心に彼女は怒らず、丁寧にノックまでして入ってきたのだ。

軽やかに動いた身体は、重力なんてないみたいだった。

何度も電柱を通り過ぎてから、駅近くにあるコンビニの前で、そのままアルバイトに行くらしい彼女と別れる。


おれは珍しく電車に乗らず徒歩で家まで帰ることにして、帰り道を歩きながら、ゆっくりと日が暮れていく五月の空を眺めた。

夕焼けの先には、地球の外には、百人より多くの数の星がある。

おれ一人なんて取るに足らないほど小さく見えてしまうくらい、果てがない。

「おれの名前、は……」

呟くと、ぶわりと胸が熱くなった。

泣きたいような嬉しいような苦しいような恥ずかしいような、色んな感情がぐちゃぐちゃに混じりあって、どの単語で形容してもしっくり当てはまらないような、おれだけの感情になる。

どうにもならなくて、涙も止まらなくなって、訳が分からなくなって、小さな子供みたいに鼻水まで流して、それでも歩き続けた。

だって、嬉しかったんだ、本当に。


大切にしたい、忘れたくない。

この先の人生で何があっても、例え、出会わなければ良かったと願うことになっても、見ているだけでは嫌だ。

おれからしたら、貴女の方が変わっている。

おれの常識が覆ってしまう、宇宙人みたいだ。

彼女ともっと話をしてみたい。

「……はじめまして、小森さん」

おれは小さく呟いて、少し笑う。

やっぱり変だね、と笑う彼女の顔が、目に浮かぶようだった。

こんなの、初めて生きてるみたいだ。

夏休み前の冷房が程よく効いている大学の食堂で学食のうどんを食べながら、おれはテーブルを挟んで向かい合うように座る小森さんに話しかけた。


小森さんは大学近くのコンビニで買ってきた鮭おにぎりを頬張っている。

「友達百人できるかなって歌ありますよね」

「?あるね。なつかしい」

「あの歌、おれは本気で信じてたんですよ。守るべき規範はこれだ!って」

「大袈裟だね。悪いとは思わないけど。わたしは信じてなかったから、その感覚は知らなぁい」

「そうなんですか?」

「うん。わたしは器用じゃないから、百人も友達がいても全員にちゃんと向き合える自信ないや。シンプルに数が多いし、そんなに必要ないかも?それにわたしはひとりでも美味しくごはんが食べられたら、十分満ち足りたことだと思うから。他人がどうでもいいわけじゃないけど……別に関係性や数にこだわらなくてもね。誰と居たいか、そして、その人と何を話したいかじゃない?」


小森さんは、数光年の距離をたった数分で駆け抜けておれを人間にしてしまう。

おれは何も言えなくなってしまった。

小森さんはそんなおれを知ってか知らずか、リュックからペットボトルの麦茶を取り出して飲み始める。

「うどん、じゃなくて、今日はおにぎり買えば良かったです……」

「なんでぇ?気分じゃなかった?」

「今おにぎりを食べたら凄く美味しいんです。絶対に、確実に、人生史上初な感じに。この先もずっと変わらずに美味しいを更新し続ける確信もあります」

「へー。そういうこともあるんだね」


▼ E N D

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