黒冴薊(くろさえあざみ)編

午後の保健室は窓から梅雨らしく蒸し暑い陽光が照り渡っている。

家のものと比べると少し硬いソファーに身を預け、保険の先生がエアコンの風量を調節する音を聴いていた。

他の生徒が居ない一人でいる保健室は、暇で時間を持て余す。

おれは学生鞄から百均で買った赤い毛糸の束と毛糸用のリリアンを取り出し、セットになっていた編み棒を駆使しながら、突起にクルクルと巻きつけていく。

しばらく遊んでからソファーの上で伸びをして、あーあと二時間は学校から帰れないのは暇だなーと思いながら寝転がる。

保健室の先生は何も言わずに、椅子に座っておれから背を向けていた。


おれの通う高校で保健室登校をしているのはおれ一人だけなので、他の生徒が授業中の時間帯は暇で暇で仕方がない。

しかし、ママを悲しませないと約束した以上さっさと帰る訳にも行かず、かといって自主的に勉強に励むほど勤勉でもないおれは、リリアンを初めとする手芸に手を出してみることにした。

今時、手芸を始める上で必要な道具は全て百均で揃うからアルバイトをしていないおれの財布にも優しいし、なにより無心になれるのがいい。

保健室の扉がガラガラと音を立て、おれは作りかけのリリアンを学生鞄に戻す。

入ってきたのは黒冴薊(くろさえあざみ)という女生徒であった。


制服のシャツに包まれた肢体は、遠目から見ても柔らかさに溢れている。

細身でありながら、女性らしい曲線を描いていた。

プリーツスカートから伸びる黒のタイツで包まれた両脚は大変健康的で、足先に近付くにつれて細くなっていく理想的な曲線美。

顔立ちも愛らしく端正で、写真越しに黙って微笑んでいたらアイドルにも見える美貌だろう。

彼女はいつだって白磁のように整然としている。

ふと、今朝は精神薬を飲み忘れたことを思い出した。

保健室の先生にプリントを渡し、一言二言言葉を交わした黒冴さんがおれの方を向く。

マゼンタの瞳に載せられた感情は無機質でどこまでも凪いでいた。


おれは四錠入っているピルケースから精神薬を一錠取り出して、水の代わりに口内に溜めた唾液で飲み込んだ。

いくら可愛らしい姿をしていても、彼女は世界から外れた異物のような違和感の塊だ。

端的に言えば、おれは彼女が苦手だった。

「君。その薬っておいしいの?」

当たり前のようにおれの隣に座った黒冴さんがそんなことを言うから、おれは良くないことだと理解しつつも、普段飲んでいる薬を半分に割ってから差し出す。

「わあい」と棒読み気味に喜んだ彼女は、薬を口にするとすぐに眉根を寄せて不快そうに舌を出した。

ちゃんと飲み込んだのは彼女らしい。

「おいしくないね。おいしければよかったのに」

「まさか。良薬口に苦し、って言うじゃないですか」

「効いてるの?」


「まあ……多分?」

「へえ、効果があるのかよく分からないのに飲んでるんだね。変わってる。でも、プラシーボ効果ってあるもんね。君が少しでも安心できるならそれはとてもいいんじゃないかな。おいしくないけどね」

おれは反射的に言葉を返してしまった。

「おれは変じゃないですよ」

「うん。君は変じゃないよ」

予想外の彼女の即答に、一瞬呆気に取られてしまう。

おれは実際に、変だ。

気が触れていると言ってくる人間は少なくない。

教室に行けないのは、おれが上手く喋れなくて、そんな自分に自己嫌悪する度に手首を切ってしまう、服薬しないと一人で外にも出られない、どうしようもないやつだからだ。


「人生ってそうじゃないのかな。怒られて心配されて誰にも理解されないまま生きていくしかないよ。ほら、私の描く絵だって本当は傍から見たらよく分からないみたいだし。あ、でも君にはまだ見せたことないからわからないか」

「……ママはおれが薬を飲まないと心配するんですよ。おれはずっと病気だから、でもそれはママが悪いわけじゃない。全部おれが悪いです。だから、迷惑をかけないようにママから言われたことは守らないといけない、薬を飲まないといけないんです。別に変だから飲んでるわけじゃないんですよ」

「そうなんだ」

投げやりな相槌だった。

どうしてか彼女の声を聞いていると段々思考がグラついて、ふらふら、ふらふら、自分が一体何を話したいのか分からなくなっていく。


「ママは自傷行為をすると怒るんですよ。おれが死のうとしたと誤解して怒るんです。おれは死にたいわけじゃないんですよ。でも、誰も理解してくれなくて、おれはみんなで怒る理由もわからなくて、おれが変なのが悪いんですけど。おれを心配するんですよ。心配だからおれに色んなことをやらせようとする。おれに心配させないで欲しいんです。そう言われたことがあります。頭の中が健常者と入れ替えられたらいいのに、脳みそも筋肉ですよね。マッサージみたいに外側から刺激を与えたらどうにか健康になりませんかね」

「へえ、そっか」

「黒冴さん、おれは頭にフォークを刺したらマトモになれますか?いい考えな気がしてきます。科学的根拠とかないんですかね」


「わからないなあ」

彼女に対して言葉を紡ぐ度に感情の起伏がおかしくなって、出処不明の怖さがあっという間におれを包み込む。

彼女の眼差しがおれの思考を緩やかに、そしてどこまでも苛烈にしていく。

矛盾しているようで、この二つは矛盾なんてしていなかった。

「君は誰かに自分のことをピタリと言い当てて欲しいんだろうね」

図星をつかれた気持ちになって、視界が水分で歪んだ。

「だって、おれは、本当に、……生きていた方がいいんですかね」

涙声の言葉を最後に、ベラベラ動いて止まらなかった口が途端に閉じてしまう。


おれはだくだくと涙を流しながら、ピルケースから残っていた二錠の薬を取りだしてそのまま口に含んで飲み干した。

おれを反射させているが、個人として捉えているか怪しい双眸がじぃっと見つめてくる。

黒冴さんは白い顎に手を当てながら、考え込むように「ふむ」と呟く。

「どうだろう。君の好きにしたらいいんじゃないかな。でも……自傷行為をやめられない理由も、それを心配することをやめられない理由も、案外根っこは同じかもしれないよ」

全てを見透かしたような言葉を、何の計算もなく吐き出す無邪気な口元。

「でもそうだね。なんとか、なんとか生きて生き延びたら……頭は無理でも鼻にくらいならフォークを刺してもらえるかもしれないね」

黒冴さんは薄い唇を引いてにこりと笑う。

まるで、おれを励まそうとするように。


▼ E N D

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