美治治恩(みはるじおん)編
大学三年生の夏休み明けは酷暑の残滓にまみれていた。
蝉が忙しなく鳴いているし、気温もまるで下がる気配がない。
おれは大学の前にある公園のベンチに腰掛けながら、懺悔するように彼女を見つめた。
自分が女の子ではない気がする時がある。
おれの身体は女の子だけど、心は同性である治恩(じおん)ちゃんのことが大好きだ。
でも、男の子になりたいとも思えない。
おれという存在は一体何なのだろう。
「え?君は君だよ?」
治恩ちゃんは屈託なくあっけらかんと答えた。女の子にしては低くて深い、しみじみとした暖かいものを感じられる声だ。
一輪の花があるだけで、部屋の空気が変わるのと同じだろう。
ただ近くに居るだけで、その話し声を聞くだけで、いつだって彼女は場の雰囲気を穏やかなものに変えてしまった。
おれの隣に座り、突然のカミングアウトに呆気にとられてはいたものの、彼女の醸し出す安定感は損なわれていない。
治恩ちゃんと一緒にいると、心にはいつだってうれしさがある、楽しさがある。
おれは感情の赴くままに叫んだ。
「す、好きーッ!パートナーシップ制度を結ぶことを前提におれと付き合ってくださいッ!」
「あはははっ、それは恋人がいるから無理かな!」
呆気なく振られてしまった。
しかし、全く悲しくはない。
自分がまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしていることに気がついている。
それでも、目の前の抗いがたいほど素敵な運命にしてやられたのだ。
治恩ちゃん、美治治恩(みはるじおん)ちゃん。
彼女は重めのミディアムボブを派手なインナーカラーで染めている。
色合いはピンクだったり水色だったり赤色だったり緑色だったり、短期間のうちにコロコロと一貫性がなく変わっていて、その多くは恋人のリクエストに合わせているという。
左耳にイヤーカフ、右耳にはピアスを垂らしている。
フットワークが軽くて、フェスやライブ、美術館の企画展で購入したのであろう限定品のTシャツを沢山持っていて、フレアスカートのように見えるキュロットと組み合わせて着ていることが多い。
歩きやすい靴が好きで、何処に行くにもスニーカーを履いている。
「治恩ちゃん……今日も最高だった……」
「あっそー」
おれが風呂から出てさっぱりした時には、もう夜の十時を過ぎていた。
おれの弟はパソコンの前の回転椅子に腰掛けてはいたが、液晶の電源は落ちている。
充電コードが刺さったタブレットをタップして、何やらゲームをしているようだった。
部屋には元気なアニメ声と何かが爆発するような効果音が響いている。
弟は背を向けたまま、刺々しい物言いをした。
「姉貴はうざったいくらい好き好き言うけど、結局そのジオンチャンとどうなりたいんだよ?ただ好きなだけなのかぁ?それで一体何になるってんだ」
「えっ?ずっと愛し続けるだけですが?なんで?」
「あっそー」
別に期待はしていなかったけれど、非常に素っ気ない返答だ。
自分の興味の対象外に関する話題の時の弟は大抵こんなものである。
弟はお気に入りのゲーム以外には極端に無関心で、人目を気にしていない。
服装に関しても、部屋の中だろうと外だろうと夏だろうと冬だろうと、関係なくジャージを着用している。
「おれは、好きな人に好きって伝えられるだけで嬉しいよ」
回転椅子がくるりと回って、弟の身体がおれの方を向いた。
「あのー、頭悪い姉貴の為に説明するけどさ。普通、人間は子供を作って子孫繁栄に貢献するんだ。でも姉貴は女で、聞いた話の限り、ジオンチャンも女じゃん。もしもこの先、ジオンチャンが恋人と別れても姉貴とじゃ女同士だから普通に考えて無理だろ。やっぱり無意味じゃん」
珍しくお喋りを続けてくれるようだけど、弟の視線は相変わらずタブレットに釘付けだ。
「……おれの普通は好きな人の傍に居ることだし、間に合ってるよ」
「あっそー」
この話はもう終わりだとばかりに再び回転椅子を回して、弟はおれに背を向けた。
「って、おれの弟が言ってました」
美術館の帰りに入ったファミレスは空調が丁度よく涼しくて心地良い。
店内の壁掛け時計は午後六時を指していた。
治恩ちゃんは米類が食べたいとボヤきながらビーフカレーライスを注文して、特に食べたいものが無かったおれも同じくビーフカレーライスを頼んだ。
てっきりメニュー表の写真の状態で運ばれてくるのかと思っていたら、シルバーの容器に入ったカレーを山盛りのライスの上に自分でかけないといけないことに気づき、カレーを零して汚れるのが嫌だったおれはビーフカレーライスを注文したことを少しだけ後悔した。
「ふーん。弟くんが言ったこと、気にしないの?」
治恩ちゃんは食べ終わった食器をテーブルの端に寄せながら、会話を続けた。
「え、別にしないです。だって弟はまだ中一だし、そもそもアイツは小四からロクに学校にも行ってない引きこもりなんですよ?そんな子供が果たして世界の何を知ってると言うんですか」
治恩ちゃんは魅力的な女の子だ。
今日だって言われるがまま、遠くの美術館まで行ってしまった。
おれはピカソとか芸術とかそういうものはよく分からないから苦手で、美術館は子供の時に迷子になってそのまま親に置いていかれそうになった苦い思い出しかないから、もう二度と行かないよ、なんて思っていたはずなのに。
治恩ちゃんが居たから楽しかった。
彼女と一緒だと、何でも楽しくて嬉しくてキラキラ輝いている。
ずるくて、ひどい。
もう二度と、治恩ちゃんなしでは生きていけないに違いない。
「そっか。まあ、君は君だもんね。私はね、君はそのまま、変わらなくていいと思うよ?」
正当性は余すことなくその笑顔に飲み込まれて、丸ごと消化されて、頭が柔らかい気持ちでいっぱいになる。
「す、好きーッ!一生大好きーッ!」
歓喜のあまり手を伸ばすと、治恩ちゃんは当たり前のように握り返してくれた。
振り回す側になったことなんて、たった一度もない人生だけど、こんな風に振り回されて、何も言えなくて、それがこれほど幸せだったことも、今まで、ない。
会計を済ませてファミレスを出ると、蒸し暑い空気が全身を包み、空には満月が浮かんでいる。
「本当に今日は楽しかった!好きです!」
「あはははっ!ありがとう。でも、そろそろ恋人が待ってるから帰るね。ばいばい」
治恩ちゃんは餞別とばかりにおれの頬を冷たい風のようにするりと撫でると、にこにこと笑って行ってしまった。
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