ボールペンくらいアナタがすき
ハビィ(ハンネ変えた。)
瀬戸(せと)カノン編
瀬戸(せと)カノンが死んだ。
おれが通っていた高校の在学生である彼女は、昔とある事件もとい事故に巻き込まれた後遺症として左上半身が不自由で左側の表情が作れない。
左右非対称な虹彩の色は割れた硝子のような危うさを孕み、たっぷりと冷えたワインボトルのような冷たい美貌を持つ彼女は、左耳にピアスを開けている。
近づく人間の頬を冷気が撫でるような浮世離れした雰囲気から、半数以上のクラスメイトからは遠巻きにされていたが、一部の人間からは熱烈な陶酔と崇拝を捧げられる少女だった。
その薄い色素の瞳を捕らえておきたいと願った人は、実際のところ掃いて捨てるほど存在したのだ。
彼女は一度自分に魅入られた人間をにこやかに弄び、ある日ぽいと放り投げる。
本当は、他人に微塵も興味がなかったのだろう。
それは、梅雨の足音が聞こえ始め、陽の色は以前よりも薄く、校舎が雨で煙るようになった頃だ。
「だって、勝手に壊れたのはあっちだよ」
叫んだ訳でもない彼女の言葉が、広い教室の隅々にまで届いていた。
声の中心に強い意志の芯を通したように揺るぎのない返答だ。
昼休みの高校のヒステリックとさえ言える喧騒が、その時だけは止んでいた。
目を赤く充血させた隣のクラスの女子生徒が、乾燥した手の甲で鼻水を拭う。
「じゃあなんでッ!アイツはあたしに何も相談してくれなかったの!」
事の発端は、高校生活一年目のゴールデンウィークが終わった頃、一人の生徒が学校に来なくなった。
噂話によれば、瀬戸カノンに捨てられた男子生徒が睡眠剤の過剰摂取をした結果、運悪く神経が狂ってしまい目線しか動かせない廃人状態になってしまったという。
その男子生徒は瀬戸カノンが階段の上り下りをする際には必ず着いていって手を引き、何かと理由をつけて休みがちな彼女の代わりに板書してやり、昼休みになると代わりに机を移動させる。
他にも身体の不自由な彼女に対して、授業中はおろか休み時間もかなり甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
別に瀬戸カノンと恋人関係だった訳ではなく、むしろ、泣きながら物申している女子生徒こそが男子生徒の幼馴染であり、おそらく男子生徒に恋愛感情を抱いていたのだろう。
「さあね、知らない。他人だし……。まあ、きみもどうぞご自由にしたらいいんじゃないかな。わたしは何もしないけどね」
件の男子生徒が消えてから、瀬戸カノンの机は別の生徒によって移動されていた。
あっけらかんとした反応は、まるで心配の意識がない。
「このッ、化け物!」
女子生徒は捨て台詞を叫ぶと、その日は自分のクラスに戻った。
教室の大きな窓ガラスに目を向ければ、つい先程見ていたのと同じく、泣いていた女子生徒の頬のように幾筋の水滴に飾られている。
そして二ヶ月後、その女子生徒が交通事故に遭ってしまい、運悪く下半身不随になったという噂話が流れた。
大学病院で必死にリハビリをしても、以前と同じようには歩けないそうだ。
桜が散ってしまえば、すぐに梅雨が続き、惰性のように雨が降り続いて、寒さがちっとも抜けないと思っていたら、いつのまにか蒸し暑い夏が来る。
夏休み間近になる頃には、瀬戸カノンはゴールデンウィーク前とは別の生徒を連れて歩いていた。
彼女は決まって、トモダチとして男子生徒と女子生徒のそれぞれ一人ずつを傍に置いている。
そして、友達になった人間は期間に差異はあれど、総じて運悪く一年以内には何らかの身体的な障害を抱えた。
瀬戸カノンに心酔していない生徒のうち数名は、度重なる不運な事故に何か言いたそうな顔を見せたが、結局は誰もが沈黙を選んだ。
瀬戸カノンが亡くなる高校三年生の冬までに、両の手では到底足りない数の人間が運悪く事故に巻き込まれたり、運悪く自傷行為の後遺症に悩まされることになった。
死人に口なしとはよく言ったものだ。
瀬戸カノンがどんな方法を用いてそれらを実行に移せたのか、真相を確かめる術はもう無い。
理解したいとも、別段思わなかった。
今のおれは人ならざるものだ。
正気ではなく、 狂気に焦がれている。
おれは十七年程の人生をやってきて、それなりに真っ当に生きてきたつもりだった。
もしかしたら行き過ぎた妄想か、またはそういった病気なのかもしれないが、どうしたって自分には触覚という現実の騙せない五感があって、どうにもできない。
おれは薄暗い部屋の中で、ポリポリと口の中のものを咀嚼する。
こんなに甘いものを味わったことはなかった。
口の中に唾液が溢れて、舌先に当たる欠片がたちまち思考回路を蕩かして、その存在を丸ごと甘露に変えるように思われる。
この部屋に一生涯居て、しゃがみこんでずっと頬張っていたいとさえ思った。
ベッドは朝起きて自分で整えた状態で、机も外出前に勉強した時のままだ。
あの時、彼女はおれのベッドの上に心底気安く座っていた。
「ねえ。わたしが死んだらきみの一部にしてね」
夕日のオレンジ色で染まった、この世のものとは思えない優しさに満ちた顔をおれしか知らない。
彼女の双眸は吸い込まれそうな不思議な色をしている。
その瞳の奥にはオーロラのような七色の光が、灯されているのだ。
魅力的な餌を用意して、いつのまにか奈落の底まで引きずり込む。
今も脳髄にピタリと張りついて離れない。
「きみ、こんなことがバレたら一体どうなっちゃうんだろうね」
髪が汗で額に張り付いて、シーツに四肢をだらりと散らしたまま、右頬だけを歪めて、くすくすと笑う。
本当に心から嬉しそうな声だった。
おれは彼女の白い首に絡めた指に力を込める。
ごめんなさいという微かな謝罪は果たして、彼女の耳に届いたのだろうか。
おれは悪い子なのだ。
あの日から、十字架を背負った気でいた。
瀬戸カノンは、死んだ後も他人を狂わせ続ける。
彼女の死後、彼女とトモダチだった生徒達による後追い自殺が相次いで、死人の数が膨れ上がってしまい、在学生の誰かがSNSで面白おかしく拡散したのかマスコミまで来る始末で、おれの通う高校は前代未聞の学級閉鎖になってしまった。
彼女の為に死んだ人々は可哀想だ。
今更死んだところで彼女には二度と会えない。
瀬戸カノンはおれと一緒になるのだから。
彼女の首を絞めて殺したあの日から、おれはおかしくなってしまった。
骨壷から白い欠片を摘んで、口に含む。
口内でキャンディーを舐めるように転がして、ろくに噛み砕かずに飲み込んだ。
いつもより少しだけ温度が低い自室で、おれは溜め息を吐く。
「……カノンお姉ちゃん」
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