第20話 新たな聖女の目覚め(2)

 

 修行一日目。

 本日の保護役はセナだ。彼は週の四日も付き添ってくれることになっており、とてもありがたい。


 高さ四メートルもある樹齢千年の神木。みずみずしい葉が揺れ、太い幹をしている。そして、神秘的な佇まいだ。この木には神が宿っているとされ、長らく祀られている。


 神木の根元で、三十分間瞑想する。芝生の上に座り力を抜いた状態で目を閉じる。ただ楽に鼻から息を吸って、口からゆっくりと吐き出す……の繰り返し。あらゆる雑念を取り払い、心を無にするのが重要だ。


 爽やかな風が頬を撫で、小鳥たちのさえずりが鼓膜を震わす。オリアーナはその瞬間の心地良さに身を委ねた。オリアーナの隣でセナも瞑想している。三十分の瞑想を終えて、瞼をそっと持ち上げた。


「もう三十分経ったよ、セナ――」


 すると、隣で瞑想をしていたセナが眠っていた。


(寝てる……)


 薄い唇を僅かに開き、規則的な寝息を立てるセナ。その姿が無防備で、どこか色っぽくて、なぜかどきどきする。唇に髪が入ってるのを見てそっと手を伸ばす。


「ふ。髪、食べてるよ」


 小声でそっと囁き、彼の頬に手を添えた刹那。セナがその手を自分の手で上から握り、瞼を持ち上げた。長いまつ毛が縁取る美しい瞳と視線がかち合う。彼は眉尻を下げて呟いた。


「夢の中にまで出てくんのな。お前」

「夢……?」


 どうやら彼は、ここを夢の中だと勘違いしているらしい。すると、あろうことか彼はオリアーナの手を口元まで運び、ちゅっと手の甲に唇を落とした。


「〜〜〜〜!?」


 オリアーナは真っ赤になって固まる。

 セナは熱を帯びた表情を浮かべ、こちらを見つめながら口角を上げた。


「照れた顔も、ほんと可愛い」


 そのままぐいっと手を引かれ、もう片手を頬に添えられる。唇をなぞるように親指の腹で撫でられて、頭が真っ白に。色っぽい表情で顔を近づけてくるセナ。唇が触れてしまいそうな距離になったときに、オリアーナはようやく我に返る。


「やめて……っ」


 ――バシン。振り払った拍子に、セナの顔に手が思い切り当たる。セナは痛む頬を抑えながら、呟いた。


「痛っ……え、何これ、現実……?」

「夢じゃないよ……。――馬鹿」


 一体どんな夢を見て寝惚けていたのだろうか。動揺するオリアーナに対して、セナも少し頬を染めながら、「悪い」と謝罪を口にした。彼は赤くなった頬を隠すように手で覆った。


 信じられないくらいに脈動が加速していて、口付けされた手の甲が熱い。まだ肌が、セナの唇の感触を鮮明に覚えている。手を胸元でぎゅっと握り、息を吐く。


(どうしよう、心臓……早く収まって)


 なぜこんなことをしてきたのか分からず、頭の中が混乱した。彼に背を向けていると、いつものクールな調子で声をかけてきた。


「今日の課題を始めよっか」


 頬を赤くしながら振り返れば、すでにセナは普段の態度に切り替えていた。


「最初の課題は、精霊から簡単なメッセージを受け取る……だったっけ?」

「う、うん。そうだよ」


 鞄から紙を取り出す。その紙には、神官三名の名前、生年月日と日常の悩みが記されていて。


「……ドミニク・ダーフィン。『最近肩が凝って仕方がないです。どうしたら治りますか』スヴェン・ムートン。……『腰の周りにできものができてしまいました。これはなんですか』……って、なんだこの健康相談」


 セナが突っ込む。神官たちは年配の者が多く、おのずと健康上の悩みが増えるのだろう。


「まぁ、お試しの課題だしね。とりあえず、やってみるよ」

「俺には何も見えないけど、いるの? ここに精霊」

「うん。まだはっきりとは見えないけど、沢山いるよ」


 オリアーナはそっと顔を上げ、空中を浮遊する精霊たちを眺めた。

 今の能力で視界に捉えられるのは淡い光のシルエットだけだ。リヒャルドにはくっきりと見えるらしいが、オリアーナはまだまだである。


 精霊たちに向かって、念を送る。


(精霊さん。教えてくだい。ドミニク・ダーフィンさんの肩の悩みは、どうしたら改善しますか)


 すると、間を置かずに頭の中に回答が返ってきた。


『血行が悪いから温めるといいよ。あとは柔軟体操も。特に左が凝ってるみたいだね。年齢的に筋肉そのものの衰えがあるから、完全に治すのは難しいみたい』


 それはまるで、小さな子どものような声だった。オリアーナははっと目を見開く。


「何か聞こえた?」

「……左が凝ってるねって」

「ふうん?」


 オリアーナは至って真面目に、精霊から貰ったアドバイスをメモした。続いてもう一人の悩みも質問する。その問いかけにも、すぐに返事が返ってきた。


『皮膚炎だよ。花粉に反応して起きてるみたい。夏に入るまでできたり治ったりを繰り返しそう。腸内環境を整えることをオススメするよ。ビタミンに乳酸菌、食物繊維をしっかり摂って、自然治癒力を高めてみるといいかも!』


 今度は若い娘のようなはつらつとした声だった。


「――次はなんて?」

「バランスのいい食事を心がけて……的な」

「栄養士さんみたいだな」


 忘れないうちに紙に書き写し、残りの一人の相談もして、無事に一日目のノルマを達成した。簡単に思えるが、これが意外と気力を消耗する。疲れたオリアーナはぐっと伸びをして言った。


「ありがとうセナ。付き合ってくれて」

「いいよ全然。楽しかったし」

「そうだ。お礼にセナの悩みも何か聞いてあげるよ。何か悩みとかある?」


 するとセナは、一も二もなく答えた。


「じゃあ、好きな相手に振り向いてもらうにはどうしたらいいか」

「え……」


 いつもの淡々とした口調で告げられた内容に、オリアーナの心臓がどくんと音を立てた。セナには――好きな相手がいる。その事実が、まるで大きな重りのように胸にのしかかってくる。


「セナ……いたんだ、好きな人」


 彼とは長い付き合いだったけれど、この手の話をしたことはなかった。セナだって年頃の男の子だし、浮いた話の一つや二つあってもおかしくはない。


 彼が好きになる相手なのだから、きっととても素敵な人なのだろう。可愛らしくて、上品で、優しくて……。それはきっと、オリアーナとはかけ離れた理想の女の子なのだろう。


「うん。いるよ。……リア? その顔は……」


 オリアーナは見るからに傷ついた顔をしていた。しかし、内心を悟られないようにすぐに笑顔を繕う。


「い、いやなんでもないよ。少し驚いただけ。すぐに聞いてみるから」


 セナから顔を逸らし、目線を上に上げた。彼の悩みをそのまま精霊に打ち明ければ、またすぐに回答が返ってきた。


『その相手はもう、彼のことがすっごく大好きみたい。あとは思いを告げるのみ! 二人は最高のパートナーになれるよ!』


 オリアーナは当惑した。その返答を聞いて心が乱れている自分自身に。自分では抑えきれないほどに胸が苦しい。そこでようやく気づいた。


(私……セナのことが好きだ)


 しかし、今更気づいたところでもう遅い。セナには他に好きな人がいて、その相手もセナを想っている。そして、相性も抜群にいいらしい。自分が入る隙なんてないだろう。


(でも……セナには幸せでいてほしい)


 ここで嘘を伝えることもできた。でもオリアーナはぎゅっと手を握り締め、なけなしの良心を掻き集めて真実を伝えた。笑顔を湛えながら。


「上手くいくって。その相手もセナのことが大好きみたい」

「…………」


 しかし、セナはそれを信じなかった。悲しそうな顔をして笑う。


「もしそうだったら、夢みたいだ」




 ◇◇◇




 修行から一週間。今日の保護役は、ジュリエットだ。


「まぁまぁまぁ……なんと素敵なのでしょう……! シミひとつないお肌も、長いまつ毛も、形の良い唇も、風になびく御髪も。この世の美を凝縮したかのような優雅さですわ。ああ……この一分一秒をこの目に焼き付けておかなくては……」


 神木の根元で瞑想していたオリアーナは目を開ける。もう少しで顔のどこかが触れてしまいそうな距離にジュリエットの顔があり、視線がかち合う。彼女はうっとりと目を細めた。


「わたくし、オリアーナ様の二重幅に埋まりた……ンンっ」


 人差し指で彼女の唇をつんと押す。


「もう少し静かにしてくれるとありがたいな」

「あらまぁ! わたくしったらなんて愚かなのでしょう……っ。オリアーナ様の大切な訓練をお邪魔してしまうなんて。どうぞ、静かにしておりますのでそのまま続けてくださいまし! わたくしは静かに! ここで見ておりますわ」

「…………」


 ジュリエットは任せてくれと言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。荒々しい鼻息が顔にかかり、前髪が揺れる。オリアーナは訝しげに眉を寄せた。


「近いかな、顔が……」

「そんな……っ。これ以上離れては、寂しくて死んでしまいますぅ……」

「君は飼い主が恋しい犬か」


 人に飼われた犬は、飼い主とちょっと離れると寂しさから食欲がなくなったり、病気になったりするというが。


「わたくしが犬になったら、飼ってくださる?」

「ふふ、相当手を焼きそうだな」


 手で犬の真似をして、小首を傾げるジュリエット。あざとくて可愛いからずるい。すぐに抱きついて来ようとする彼女に、犬を躾けるように「ステイ」と言って制止した。頭を撫でてやれば、嬉しそうに顔を擦り付けてくる。本当に犬みたいだ。

 結局、ろくに集中できないまま今日の瞑想を終えた。


「今日のミッションは、『枯れた花を復活させる』ですわよね。かなり難易度が上がりましたのね」

「うん。実は一昨日からやっているんだけど、どうにも上手くいかないんだ」

「そうでしたの……。お花さんも、オリアーナ様の麗しいお姿に恥じらっておられるのかもしれませんね」

「はは、何だそれ」


 オリアーナの手元には植木鉢が。植られた花はすっかり枯れている。

 とりあえず、花が蘇り、生き生きと咲く様子をイメージして精霊たちに依頼してみる。しかし、なかなか思うようにいかない。


(精霊さんたち。どうかこの枯れた花を、もう一度咲かせてください)


『やってみるよ!』


 淡い黄色の光の塊がいくつか降りてきて、鉢の中の花を包み込む。光が消えた直後、葉っぱの一部が緑色を取り戻した。けれど僅かな変化でしかなかった。


「まただめだ。上手くいかないな」

「――気を取り直して再チャレンジですわ。大丈夫、オリアーナ様ならきっと成功します」

「ふ。ありがとう、頑張るよ」


 しかし、何度挑戦しても成功しなかった。精霊たちに鮮明なイメージを送れていないのかもしれない。


「そういえば、この花はなんの花だろう」

「アネモネ……でしょうか」

「アネモネか」


 目を閉じて、ジュリエットの燃えるような鮮やかな瞳のように赤い花が咲くのを思い浮かべ、もう一度精霊たちに依頼する。すると……。


「咲きましたわっ!」


 目を開くと、枯れていた茎がまっすぐ上を向き、赤からピンクのグラデーションの花を無数に咲かせ始めた。生き生きとした花が、風に揺れている。


 課題の成功に安堵するオリアーナ。アネモネの花が咲く鉢をジュリエットに差し出して微笑む。


「これ、あげるよ。君の瞳を思い浮かべたら成功したんだ。君の瞳はこの花と同じくらい、綺麗だ」

「…………!」


 彼女の瞳の奥が微かに揺れる。彼女は細い指で花弁を撫でながら、目元を緩めた。


「とても嬉しいですわ。大切にします。この花も、あなたが綺麗だと言ってくださった瞳も」


 二人は、神木にもたれかかりながら芝生の上に座った。ジュリエットがこちらを覗きながらおもむろに言った。


「オリアーナ様。最近何かお悩みでしょう」

「……! よく……分かったね」

「ふふ、長い付き合いですからね。この一週間、お顔色が暗いですわ」

「……」

「レイモンド様のことを心配なさっていらっしゃるのですか? それとももっと別のお悩みでしょうか」


 彼女は本当に、オリアーナのことには聡い。ジュリエットの言う通り、この一週間――具体的にはセナとの一日目の修行の日から悩んでいる。セナへの特別な感情を自覚したことと、彼にはすでに想い人がいることを。


 今は自分の恋愛事情なんかより、レイモンドの身体のことが最優先だ。けれど、頭では分かっていてもどうしても悩んでしまう。


「私……好きな人が、できたんだ。できた――というよりやっと気がついた、という方が正しいのかな」


 たぶん、セナのことはずっと昔から好きだった。鈍感なオリアーナがそれを恋だと自覚してこなかっただけで。ジュリエットはくすりと優美に笑った。


「セナ様のことですわね」

「……! どうしてそれを……」

「オリアーナ様のことならなんでもお見通しですわ。そう……恋をするのは素敵なことです。おめでとうございます、オリアーナ様」

「はは、ありがとう。でも早速失恋しちゃったんだけどね」

「まぁ……失恋ですか?」

「うん。セナにはもう、他に好きな人がいるんだよ」

「…………」


 ジュリエットは物言いたげな顔を浮かべ、「それはないと思いますけれど」と聞こえない声で呟いた。彼女は穏やかに微笑んで言った。


「たとえ片想いであっても、叶わぬ恋であっても、誰かを好きになれたことは、それだけで尊くて価値があることだと思うのです」


 彼女は自分の胸に両手を当てて、口元を弛めた。


「わたくしは、オリアーナ様に出会えて幸運でございました。あなたを好きになれて幸せ。毎日がキラキラしています。ただオリアーナ様が生きていらっしゃって、笑っていてくださること以上にわたくしは何も望みませんの。あなたは違いますか?」


 ふと、セナのことを思い浮かべた。小さいころからいつも傍にいて、いつも味方でいてくれた。レイモンドとセナとオリアーナの三人で沢山遊び、悪戯もしてきた。その思い出はどんな宝よりかけがえのないもので。


 オリアーナもそっと胸に手を当てた。暖かな感覚がじんわりと広がっていく。セナが与えてくれた優しい気持ちだ。


「私も……セナを好きになれてよかったと思ってる。あんな素敵な人を好きになれるなんて幸せだ」

「そうですわね」

「ありがとうジュリエット。おかげで元気が出たよ。さ、もう帰ろうか。日が暮れる」


 オリアーナは清々しい気分で立ち上がり、歩き出した。

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