第26話 妻の最後の夢
とうとうその時はやってきた。
“私の結婚式 終 冬賀晴香”
内容は何度も読んだ。実に晴香さんらしい夢であった。二人は結婚式を挙げていない。
タキシードか。どうなるんだろう。この世界には鏡がなかった。ただ、晴香さんの見立てに合わせれば問題ないだろう。
いつもより、背筋を伸ばして、俺は職員室の扉を開く。
「失礼します。」
「いらっしゃい。おや、素敵ですね。」
「あ、タキシード、似合います?」
「はい、とても。奥様の最後の夢ですね。」
「はい。よろしくお願いします。」
なぜか沈黙が訪れる。
「・・・先生?」
「すみません、つい。あと、これができるのもあと2回なんだなと。」
「すぐにまた、会えるんでしょう。」
「そうですね。でも次会う時、貴方が将棋をわからなかったら、私はやはりどこか、寂しいんだと思います。」
「・・・日本人に生まれるように祈っといてください。誰の祈りより、効きそうだ。」
「ああ、そうだ。私にも祈るくらいは許されているんですね。」
「許されていないことなど、ここにあるんですか?魂は殺すこともできないんでしょう?」
「ああ、そうか。・・・許されていないことなど、私にはない。私は初めから許されていたんだ。」
「すみません、俺、先生の事情も知らずに、余計なこといいました。」
「いえ、いいえ。すみません、さあ、夢に。いってらっしゃい。」
「先生?」
先生の姿が見えなくなる中、先生は間違いなく美しい涙を流した。
次の瞬間、私は新婦の待合室の前にいた。とっさに切り替えられず、すこしまごついたが、これは晴香の最後の夢だ。しっかりしなければ。そう言い聞かせ、自分の頬を叩いた。
「・・・晴香?」
俺は静かに扉を開いた。扉の奥には、出会った時の晴香さんがいた。晴香さんの優しい雰囲気に合う、ふわふわしたドレスで。
「綺麗だ・・・。」
思わず言葉が出ると、そこにいた朧月さんが笑った。
「綺麗ですって!あの朴念仁がそんな言葉を吐くなんて、ウエディングマジックね。」
「・・・朴念仁。」
「小夜。」
「はいはい、ごめんなさい。とっても素敵よ、晴香。それじゃあ、式場で。」
そういって朧月さんは控室を後にした。晴香さんは裾を踏まないように気を付けながらそっと立ち上がって、僕の前で会釈した。
「どうかしら。貴方に聞かずに決めて、しまったけれど。」
「とても、似合ってますよ。僕はどうかな。」
「ええ、とても似合ってます。」
晴香さんが俺に左の手の甲を見せてきたから、僕も慌ててグローブを外した。二人の左手薬指に最後まではまっていた、プラチナの結婚指輪。
「道照さん、私、生涯、貴方が夫で本当によかったです。」
「俺も、君が僕の奥さんでとてもよかったです。」
晴香さんが両手を広げるから、俺は晴香を力いっぱい抱きしめて、そして、キスをした。君が君でいてくれて、本当にありがとうと精一杯の感謝を込めて。
「ああ、名残惜しいわ。」
「本当に。でも、終わりがあるとわかったから、こんなにも愛せたのかもしれない。」
「そうね。本当に、そうだわ。私、貴方の分まで生きられたかしら。」
「十分、生きてくれたよ。ありがとう。」
晴香さんの最後は癌だった。うとうとしながら何度も何度も俺の夢を見てくれた。
それはそれで、本当に愛おしい時間だったのだ。
「名残惜しいけれど、さあ、行こう。君が大好きな、お義父さんが待っているよ。」
「うん。行きましょう。」
晴香さんが俺から離れて、お姫様がするように、そっとお辞儀した。
「本当にこの流れで?」
俺は晴香さんのヴェールを被せながら言った。
「はい。この流れで。だって、私がお父さんにお願いしたんだもの。」
「何を?」
「どうか道照さんの側にいてあげて。そうでないと、あの人寂しがるからって。」
「だからお義父さんはまっすぐ俺のところに来たのか。」
晴香さんが、どんなに遅い夜に帰ってきても迎えてくれていたことを思い出す。晴香さんは知っているのだ。本当は俺が、人一倍気を遣うけれど、一人が嫌いなことを。
「最後まで、晴香さんに任せきりだったな。」
「それは、私もそうよ。最後まで貴方に頼り切りよ。だからお互い様ね。」
「それなら、よかった。」
晴香さんの僕の左腕に手を通す。俺たちは静かに、けれど温かく教会へと向かった。
「新郎、新婦のご入場です。」
厳かな扉が開いた。俺はヴァージンロードを晴香さんと二人ゆっくりと歩いていく。
右手には編集部のみんな、担当小説家、そして俺の両親、正子がいた。
左手には晴香の友人、朧月さん、そして光子さんがいた。
正面の神父の側には、神司さんがいた。神司さんに目が合うと、彼はそっと手を振ったから、俺もそっと手を振った。
「おめでとう!」
「ありがとう!」
その言葉が木霊する。晴香さんらしい、最後だ。
ありがとう、晴香さん。みんなに僕からもありがとうを言える最後の夢を。
神父のいる前まであっという間にやってきてしまった。よく見ると、神父が持っているのは聖書ではなく、あの"Road of Light" だった。確かに、俺達の聖書はあれだ。
俺は晴香さんのヴェールを厳かに上げた。
「晴香さん、またね。」
「はい。道照さん。必ず、また。」
そういってヴェールをあげた晴香さんは神司さんの元へ小走りへ駆け寄っていった。
「お父さん!」
「晴香!」
神司さんは、小さい子供にするように大きく晴香さんを抱き上げた。
「大きくなったな!」
「そうでしょう!私、頑張ったわ!」
そういって二人は抱きしめ合い、ゆっくりと浮き上がっていった。
やがて無数の光の粒がゆっくりと二人から放たれていった。
「晴香さん!神司さん!本当にありがとうございました!」
二人が上から手を振ってくれた気がする。
そうして晴香さんと神司さんは一つの光となり、消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます