第25話 この景色を見せたい人は

優花の夢は最後の夢を残して終わってしまった。


優花は大人になって、3度夢をみた。その3回とも死にかけた時だった。毒蛇に噛まれたとか、ひどい熱中症だとか大変だった。すぐに起きるよう説教するような夢だった。


そして、何人か恋人はできたが、優花は結婚の選択はとらなかった。


数多かった晴香さんの夢ももう残り少ない。

味わっていきたい。


この職員室への扉も、あと何回開くのだろう。


「失礼します。」

「いらっしゃい。」


先生は将棋盤と向き合っていた。俺が教えたらすっかりはまったようだ。


「夢ですか?」

「夢ですよ。」

「ちょっと相手してくれません?」


俺は笑った。最初は触れがたいほど美しい人の印象だった先生は、今や神司さんと同じような少し子供っぽさがでてきたのだ。


「帰ってきたら、お相手しますよ。」

「わかりました。それではいってらっしゃい。」


そういって開くこの夢の扉も後数回。


目の前に、美しい海が広がった。そして白い砂浜。


「綺麗よね。ここ、ハワイの天使の海って言うんだって。」

「ハワイか。朧月さんと?」

「ええ。昨年、ルナが亡くなってしまったから、二人で海外に行こうって。初めてならハワイよ!って無理やり連れてこられちゃった。初めてパスポートなんかも作っちゃったんだから。」


俺は晴香と海外旅行に行ったことがなかった。結婚した時にはもう、晴香さんはうつ状態だったから。相変わらず朧月さんが羨ましい。でも、ありがたい。


花柄の長いスカート。白い半そでのカットソーを着て俺と砂浜に座る晴香は随分と年を取った。けれど、夕日に当たる横顔は、やはり今でも愛しい人であった。揺れる髪が優しい。



「よかったのかい?」


俺は聞いた。


「何が?」

「その、再婚しなくて。」

「ふふ。いまだに貴方なのよ。」

「何が?」

「こんな綺麗な景色を見た後に〝ああ、あの人にも見せてあげたい”って思うのは、今でも貴方なのよ。」


その言葉に照れた顔は夕暮れのオレンジに紛れてしまっただろうか。


「なら、本当にすまないね。先に死んでしまって。」

「そんなの、もう済んだことじゃない。それよりも、見て。今この景色に私と貴方二人きりよ。」

「そうだな。」


沈黙が温かい。晴香さんとはいつもそうだ。だけどね、晴香。もう見られない夢の景色より、俺は君の横顔を覚えておきたいよ。いつか、またきっと見つけ出すために。


「もう。照れるわよ。」


俺の視線に気づいた晴香がすねたみたいにこっちを見た。


「愛してるよ。」


それは素直な気持ち。


「愛してるよ、晴香。」

「私も、愛してるわ、道照さん。」


やっと、言えた。やっと。それはこの景色の美しさなのかもしれない。


「そんなの、お互いよく知ってるじゃない。」

「うん。でも言葉にする楽しさも、俺はようやく知ったから。」

「ああ、そうね。」


笑い合えるこの時間をいつまでも信じられる。だからね、もうお互い大丈夫だね。かすかに触れあうこの指を、離す時が来ても。さざ波の音はどこまでも優しかった。


「お帰りなさい。」

「ただいま。さあ、お相手、しますよ。」

「ありがとうございます。」


先生は嬉しそうに将棋盤を出してきた。


「今日は気分を変えて、こんなところでの対戦はいかがですか?」


そういって、俺は今しがた見た、天使の海を出した。


「素敵だ!」


先生はそう言って喜んだ。


「さあさあ、今日こそは私が勝ちますよ!」


先生はそう言って二人で将棋へと投じた。


「先生、先生には名前がないんですか?」

「ありません。なのでお好きなように読んでください。」

「じゃあ、先生はやっぱり先生だ。」

「ふふ。それで、いいです。」

「先生。」

「何ですか。」

「俺、優花の最後の夢に出たら、生まれ変わります。」

「寂しくなりますね。」

「でも、先生的にはきっと、またすぐ会えるんでしょう?」

「わかりません。私のような存在は、いくつかあるんです。」

「じゃあ毎回先生のところに来られる保証はないという事ですか?」

「そうなりますね。お、今回は勝てるかもしれません。」


盤面を見て、まだまだ、と思った。


「次は先生から誘ってください。将棋。」

「そうですね。また私のところに来たら、そうします。」

「次も先生のところに来ます。俺、最後の願い決めたんです。先生に迎えに来てもらうって。」


先生は大きな瞳が飛び出しそうなほど目を大きくした。


「あれ?そんなに意外でした?」

「意外というかなんというか。てっきりまた晴香さんの夫になりたい、とか願うと思ってました。」

「晴香とは出会いますよ。きっと。どんな形であれ。」

「・・・羨ましいな。そういう人と人との絆って。神様でも取り扱いできない。」

「へえ。神様はいるんですね。」

「私の創造主、みたいなものはやはりいるみたいです。直接触れ合うことはできませんが。」

「なるほど、みんな神の子か。」


先生は大きな瞳を今度は細く細くした。


「貴方は毎回間違いなく貴方ですね。毎回同じことを言う。」

「そうなんですね。」

「ええ。そうなんです。貴方くらいですよ。他の人は私も神などと同じように天使だとか悪魔だとかいう人がほとんどなんですから。」

「ふうん。俺からしたら、綺麗な人だけれど、天使や悪魔より神司さんに似ている。人に、近いと思うんですけどね。」

「だから、貴方は私の特別なんですよ。」

「特別に強い?王手!」

「あ!」

「まだまだですね。」

「ふふ。ほら、やはり貴方は特別だ。」


天国の海は日本の初夏みたいだ。日本よりさらっとしているけれど。舞う砂が心地よい。これを、教えてくれて、ありがとう、晴香さん。

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