第12話 編集長の夢
何億回、というのはどういう回数なのだろうか。
どこかで80歳まで生きた場合に、6、7億回呼吸をする、というのをどこかで読んだ気がする。少なくとも途方もない数字だ。
「むしろ、初めてであることが素晴らしいのではないでしょうか。」
「それは人だからですよ。」
「貴方も人では?いや、魂?なんと申し上げればいいのか。」
先生の笑顔は少なくとも血が通っているように見える。モナ・リザのように。
「ありがとうございます。」
「え?」
「お礼をいう気持ちを教えていただいて。貴方は、やはり私にとってかなり特殊な人のようです。」
「・・・誉め言葉ですよね?」
「はい。貴方の分析通りで間違いないですよ。」
先生の笑顔はやはり照れる。
「じゃあ、次の夢を読んできます。」
そういって職員室を出た。失礼します、と言って。
まだ、蝉しぐれはやまない。先生の分析通りなら、今日という日がながいのだろう。小説を前に、神司さんがなぜあんなことを言ったのかよくわかる。晴香さんと優花の本が続いているが、どれもタイトルから前回と同じような夢だとわかるからだ。
元気な時の晴香さんと優花に会いたい。先を読んではいけないだろうか。けれど、きっといつかは俺の死を超えた生活になる。それを今読む勇気が果たしてあるだろうか。本をなぞっていくと、違う作者に手が止まった。"奥田大樹” 編集長だ。
編集長が自分の夢を見るのか。正直、自分は編集部の誰ともいわゆるプライベートな付き合いがない。そんな余裕もなかった。奥田は自分より7つほど年下だったが、SNSなどを使った宣伝がとてもうまい人で、この小説が売れない昨今、我が出版社で初の100万部という大ベストセラーを出した人物だった。小説を売るにあたって、作家ではなく編集が表に立って売る方法があるのかと感動したものだ。小説を手に取ってみる。
※※※※※※※※※※※※※
「冬賀さんと飲みたかった。奥田大樹」
締め切りを乗り切った日の夜というのはいつになっても解放感と爽快感が素晴らしいものだ。特に今日という日は特別であった。俺は、まだごねている男の手をしっかりと握っている。
「奥田さん、私はちょっと、ほら、家が遠いので。」
「もう、今日くらいはいいじゃないですか。貴方もう一瞬で家に帰れるようになったんですから!」
「いや、そんな・・・。」
ごねている男は冬賀道照。我が部署の隠れたムードメーカーだ。彼の担当は誰よりも多く、それなのに誰よりもサポートしてくれる。愚痴を吐くことは一切なく、そのくせ、落ち込んでいる人には誰よりも機敏に察知してフォローしてくれる。そんな男だった。なのに、一度もプライベートな飲み会には来てくれない。家族が何より大事だということは部内の皆が知るところだったので、仕方のないことではあったが。
俺は、死んだというのにそれでも渋る冬賀さんをうちの行きつけのダイニングバーの中に引き入れた。今日はプライベートの飲み会だが、部署全員が参加してきた。それもそのはずだ。冬賀さんが参加するのだから。
「おい!連れてきたぞ!」
そういうと、皆が嬉しそうに声を上げた。
「待ってました!冬賀さん!」
「冬賀さん、何飲みます?なんでも頼んじゃってください。」
「何頼みましょう?冬賀さんの奥様ほどじゃないかもしれませんが、ここの料理どれもおいしいですよ。」
「編集長!今日は編集長のおごりなんですよね?」
全員嬉しそうだ。何かと言えば俺に盾突いてくる相楽まで嬉しそうにしてやがる。冬賀さんはやっぱり申し訳なさそうにしている。
「冬賀さん、今日は存分に飲み食いしちゃってください。俺の、おごりですから。」
そう言ってもしぶしぶだった冬賀さんが、みんなにもみくちゃにされながら、やがて笑っていた。そう。こういう風に冬賀さんと飲んでみたかった。いつも、早く帰るよう促しては飲みに誘っていたけれど、結局最後まで一緒に飲みに行けなかった。
だから今日は朝まで、みんなで騒いで楽しい酒を飲むのだ。
※※※※※※※※※※※※※※※
小説を閉じて、俺はしゃがみ込んだ。
最近よく、彼に早く帰るよう言われることが多かった。残業のことを気にしてだと思っていた。ベストセラーを出せない自分だからせめて残業代は削れと思われているのだと勝手に思っていた。
こんな想いがあったなんて、欠片も思いもせず。
小説を持って、俺は先生の元へと向かった。せめて、夢では叶えたいと思った。一緒に飲む夢を。
大勢と飲むなんて大学のコンパ依頼だから、うまく楽しめられるか不安だが、精一杯楽しんでみよう。
「失礼します。」
力なくまた職員室に入る俺を、先生はいつもの笑顔で受け入れてくれた。
「次は、その夢に?」
「はい。ちなみに先生は大勢で飲んだことは?」
「もちろん、ないですよ。」
「そうですよね。大勢の飲み会なんて、自分はどうすればいいか。」
「話したい人と話すだけでは?」
「・・・そうか。そうですよね。」
「そうですよ。さあ、いってらっしゃい。」
話したいこと、か。先生は小説を開いた。
目の前には嬉しそうな奥田がいた。こんな嬉しそうな奥田を見るのはいつぶりだろうか。
彼は俺を知らない飲み屋に連れていき、そこには全員の笑顔があった。相楽、佐藤、前田、松藤、山口に八重田。部署全員だった。
「今日は俺のおごりだ!みんな飲むぞ!」
奥田は嬉しそうに言った。俺は一応ドリンクメニューとやらを見たが何せ酒もたばこもやらない。おしゃれなカクテルの名前は小説でしか読んだこともないので、「とりあえず生で。」なんてワードを初めて使うことにした。
「それじゃあ乾杯!」
とみんながグラスを掲げたので、慌てて俺も準じた。なんか冒険が始まるみたいな光景だな、とふと思った。そして、相楽もビールを持っていることに気づいて、様子を見てみた。あいつは、多分酒が嫌いなはずだから。
「飲んでますか、冬賀さん!」
奥田が自分の肩に手を回してくる。先ほども手を引いたりと、コンプライアンスが少し気になる。今はそういうのにうるさい。俺は構わないが、松藤のような若い女性にこういうことをしたら一発でアウトだ。
たしなめようか考えた時に、これが奥田の夢だと思い出してやめた。そうだった。今は何より、楽しまなければ。
「の、飲んでますよ!いやーこんなおいしいビールは初めてです!」
そういってジョッキを煽ってみた。合ってるか?これでいいのか俺?
「その敬語止めてくださいよー。俺の方が後輩じゃないですか。相楽にはタメ語使ってるのに。」
「いや、編集長ですから。」
「それが嫌だといっているんです!」
奥田がジョッキを台にたたきつけた。まずい。俺やっぱり出ない方がよかったかも。楽しみ方とかわからないくせに。
「冬賀さん、やっぱり俺のことが嫌いなんでしょう?そうなんでしょう!?」
「い、嫌そんなことないです、じゃなくて、そんなことはない。」
「わかってるんですよ!みんなだってそうだ!俺じゃなくて冬賀さんが編集長になるべきだって思ってるんだ!」
「はい?」
俺は編集長になりたいだなんて一度も思ったことはない。自慢じゃないが出世欲なんて一ミリもない。誰かを統率する側に回るなんて、俺には荷が重すぎる。だからこそ、副業や株に勤しんでいたのだから。
「冬賀さんの方が担当も多いし、何よりコンスタントに作品を上げさせるのがうまい。ベストセラーにならなくても、それなりに売れる作品を担当全員にあげさせてるんですよ。編集者としてどっちの方が腕があるかなんてみんなわかってるんだ。俺なんて一発当てたら次回作も書けさせやしない。ただの看板編集長だ。」
「そういう作家を下に見るような発言が・・・じゃなくて、そうじゃない、そうじゃない。今のなしで。」
酒の席で説教するおじさんがめんどくさいって何かでみたぞ。俺のことだったか。違うんだ。これは奥田の夢だ。そうだ、接待だ。これは奥田への接待だ。
「奥田さん。100万部の大ヒット出したんですから、貴方が編集長になることに誰が異存をだすんですか。SNSを使って、自ら売りに出る手法。俺は本当に尊敬してるんです。」
本心だ。そもそも接待の基本は本心でいいところを探して伝えることに極意があると俺は思っている。
「あのキャッチフレーズもよかった。俺はああいう帯の文章を書く能力が低いから。奥田さんはそういう人を振り向かせる言葉を紡ぐのがうまいんですよ。」
奥田のビールを注いでやろうと酒瓶を探していると、なんと奥田が泣き出した。まずい、彼は泣き上戸なのだろうか。
「冬賀さんはいつもそう言ってくれる。本心だって、わかってますよ。だからみんな貴方を尊敬している。だから、俺、断ったんですよ。編集長。冬賀さんがなるべきだって。だけど、社内命令だって。わけわかんねぇよ。冬賀さん、お金稼ぎたいんでしょう?だからあんなにオーバーワークして。死んじまってさぁ。俺が意地でも断ればよかったんだ。俺が冬賀さん追い詰めたんだ!」
奥田がグラスをぶちまけた。割れるグラスの音に場が騒然とする。
「そんなことを思ったことは一度もない!本当に一度もないよ!」
「俺、生きてる間に冬賀さんに謝りたかった。一緒に飲みに行きたかった!」
「奥田君!」
「奥田君じゃないですが、お帰りなさい。」
先生が、俺に微笑んでいる。
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