第7話 娘の事情

「なんだこれは!」


小説を読んで、思わず声が出た。


「どうしたんだい?」


神司さんの声を無視して、俺はもう一度職員室に向かう。晴香は、癇癪持ちだった。小さい頃から気にいらないことがあると暴れて手に負えなかった。幼稚園に入っても問題ばかりで、専業主婦の晴香さんはどんどん疲弊していった。


救ってくれたのはお義母さんの光子さんだ。光子さんは3歳児でも容赦なく優花を叩いた。


「痛いだろう!あんたは同じことをお母さんや友達にしてるんだ!このばかたれ!」


そういって、光子さんは優花を諭した。それは俺や晴香さんには到底できないことだし、最初は止めさせようとしたが、優花はなぜか光子さんを嫌わなかった。


光子さんに頼るしかない。そう思った。光子さんは郊外の小さい病院の看護士をしていて、都心に住んでいた自分たちの家にあまり出てこれなかったので、俺は郊外の光子さんの病院の近くの一軒家を買った。晴香さんに相談すると、絶対に自分でどうにかすると言い出すから内緒で。入れる幼稚園も全部探して、強制的に引越しをした。光子さんも一緒に住めるよう和室もある家にしたが、光子さんは"自分の家の方が、お父さんの夢をよく見られる”と完全同居とはならなかったが、よく家に来てくれるようになった。


そして、俺は優花を理解しようと心を砕いた。何が嫌なのか徹底的に分析した。嫌なことを言葉で表せるよう物語を読み聞かせ、好きそうな小説から読ませた。光子さんが制して、俺が優花が気に入るような環境を作って、優花は小学校4年生を最後に暴れなくなった。落ち着いたのだと、思っていたのに。


「失礼します!」


職員室の扉を勢いよく開けた。


「この夢に出してください!」

「はい。わかりました。」


先生は俺に手を再度包む。少し微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。


「いってらっしゃい。」


次の瞬間、ジャングルの草むらにいた。目の前にいるのは、ヘルメットと迷彩服を着ているが、優花だ。


「優花!」


草むらから優花を立ち上がらせる。


「お父さん!ほら、今ならお母さんを殺せるよ!」

「何を言ってるんだ、優花。なあ。お母さんを殴ったって本当か?」

「殴ったよ!あいつがいなければお父さんは死ななかった!」

「何を言ってるんだ!お父さんが死んだのはお父さんのせいだ!」

「お母さんのせいだよ!お母さんのせいで、お父さんは働きづめだったんだ!家で何もしないくせに!」


バシン、と大きな音がした。生まれて初めて人を叩いた。優花は頬を抑えたが、叩いた感触は手に残らなかった。これが、夢という事なのだろうか。"言いたいことはちゃんと言葉にしよう”そう散々娘に言い含めてきて、死んでから自分が破るとは思わなかった。


「すまない。」

「なんで!?お父さんは私の味方でしょう?お父さんは私のことなんでもわかってくれた!私が一番だった!」


それは間違いない。優花の環境を整えるために、心を砕いてきた。この子が優しい子に育ち、幸せになるために。


「お父さんは優花の味方だ。それは間違いない。だけど、晴香さんも俺の大事な、その妻なんだよ。」

「嘘!」

「どうしてそう思うんだ?」

「お父さん、いつもお母さんに敬語じゃん!そんな夫婦、私の周りにいない!」


そんなところを気にしていたのか。それは、晴香さんに対する、自分なりの愛情表現だったし、お互いを尊重しているだけだったのに。


「優花、そういう夫婦もいるんだよ。」

「コーヒーの匂いがする。」

「え?」


振り向くと、リビングでコーヒーを淹れる晴香さんの姿が見えた。俺が飲むための。愛しい姿だ。


「お母さんなんて、いつも自分の為にコーヒーを淹れて、好きな小説読んでるだけじゃん。」

「小説を読むのは、俺の仕事を手伝ってくれてるところもあるんだよ。それに、コーヒーはお父さんの為だよ。お母さん、コーヒー飲まないよ。」

「嘘!」

「どうして嘘だと思うんだ?お母さんがコーヒーを飲んだところ見たことがあるか?」

「お父さん、甘党じゃん!いつもオレンジジュースとか甘いのしかのまないじゃん!」


それは、優花に合わせていただけだ。優花がいる時は全部優花が好きなものに合わせていた。俺は正直、甘いものはあまり得意ではない。


「優花、お母さんはよくやってくれているよ。家はどこもピカピカだし、いつもあんなにおいしい食事を作ってくれて。不規則は俺の生活にも全部対応してくれた。本当に、すごい人なんだよ。」

「嘘!」

「優花!これからはお母さんと二人なんだ。どうか力を合わせて生きてくれ。」

「無理。無理だよ。」

「優花。大丈夫だから。優花が優しいこと、お父さんはよくわかっている。」

「お父さんいつもそういう。いつか、名前みたいに優しい花を咲かせるよ、って。全然そんな子じゃないじゃん、私。優しいわけないって、みんなわかってるくせに。」

「そんなことない!お父さんは本当にお前は優しい子だって、思ってるよ!」

「嘘つき!みんな嘘つき!私が暴れないよう、ひどい言葉を言わないようびくびくしてるくせに!大嫌い!お父さんなんて大嫌い!」


「優花!」

「優花ではないですが、おかえりなさい。」

「あ・・・。」


目の前には先生がいた。心臓がドクドク波打って、汗をかいているんだろう、生きているならば、今。


ああ、そうか。俺は、死んだんだ。


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